2022年06月26日

6月26日礼拝「教会を建て上げるために」第一コリント14:12(14章)

6月26日礼拝「教会を建て上げるために」第一コリント14:12(14章)
聖書の中には難しいことも書かれています。難しいというのは、学校のテストの問題に例えるなら、答えが出ない、あるいは今の時点では良く分かっていないという問題です。小学生には解けないけれど、中学、高校と進んでいくと分かるようになる場合もあります。もう一種類の難しい問題は、答えが複数あって、どれとも決めがたい問題です。中学、高校くらいまでは、正解がはっきりと決まる問題が出されます。そうじゃないとテストになりません。でも、大学、大学院とさらに進んでいくと、様々な学説があって、どれも理屈に合っていて、答えとして相応しい。聖書の世界でも、様々な解釈があり、異なる理解ですが、どちらも正しい。でも、どの立場から物事を見るかによっては、一つは正しくて、もう一つは間違っている、と思える。世界地図を想像してみてください。日本の学校では日本が中央に来るような世界地図ですが、アメリカやヨーロッパで使う世界地図では日本は東の端っこにあります。でも、南半球の人の立場から言うと、南北を逆にして、南が上、北が下に来るような地図もあるそうです。でも、宇宙から見たら、どちらが上とか、どこが中心とか、関係ない。どこから見るかによって見え方や考え方が変わる。少し難しい問題でした。
今日、コリント人への手紙第一の14章からお話ししようとしているのは、「異言」と呼ばれる問題で、教会によって受け止め方が違う。どの見方が正しくて、他が間違っていると考えるのではなく、聖書を丁寧に読んで、考えることが大切です。前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントでお話ししてまいります。第一に「異言の賜物」ということ、第二に「教会の徳を高める」ということ、そして第三に「平和と秩序の神」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.異言の賜物
前回、12章から賜物ということをお話ししました。神様がクリスチャンに与えてくださる特別な力で、キリストの教会に仕えるために用いるものです。どんな賜物があるか、そのリストの一部が12章8節から10節に書かれていますが、10節。
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
この他にも様々な賜物があるので、それについては八月の退修会で学びます。今日は、10節の最後の二つ、異言と、異言を解き明かす力、ということが14章の話題となっているのです。でも、異言って何か。これが難しい問題です。どうも一つではなく、二つ、あるいは三種類の理解があるようです。
第一に、異言、つまり異なる言葉とは、外国語のことだという理解です。ペンテコステの日に弟子たちの群れに聖霊が下られたとき、弟子たちは様々な国の言葉で語りだした、と『使徒の働き』に書かれています。英語が苦手な私は、この力が与えられたらと思ったことがあります。彼らが外国語で語るように聖霊が力を与えてくださったのは、当時、世界のあちこちからエルサレムに来ていた人たちに福音を聞かせるためで、後には世界の果てにまで福音を伝えるためです。第二は、どこの国の言葉とも言えない言葉、ある人は「天使の言葉」だと説明しますが、言語学者も分からない、人間とは異なる言葉です。三つめは、この二種類のどちらとも判別できない、答えが出ないケースです。コリント教会のケースは、この三つ目だったか、はっきりは分かりません。でも、何でそのような分からない言葉や、天使の言葉とも言われるような不思議な言葉が存在するのかは、後でお話しします。
紀元1世紀の各地の教会で起きていた異言も、録音が残っていないので、どの種類のものかは分からない場合があります。そして、この異言は、昔はあったけれど今は無い、というのではなく、20世紀、21世紀にも異言が起きている教会があります。ペンテコステ派とか、異言派と呼ばれているグループの教会で、そこで語られている異言は、少なくとも外国語、どこかの国の言葉ではないのは分かっています。恐らく二番目の「天使の言葉」と呼ばれているものに近いと思いますが、それがコリント教会の異言と同じかは、諸説ある状態です。またこの異言に対する態度も教会によって違います。ペンテコステ派では積極的に受け止めて、異言を語ることを推奨しています。反対に、現代の異言は聖書の時代のものとは違うと言って否定や反発する人たちもいます。ホーリネス教団は、否定はせず、聖書にある異言を認めますが、積極的に推奨するのではなく、冷静に対応するという立場です。どれにしても、自分たちの考えだけが正しくて、他の教会は間違っていると主張すると教会が対立し、分裂してしまいます。今、まだ完全には理解できていないことについては、いろいろな立場を認めつつ、自分の教会の立場を尊重するという対応をすることが良いのではないか、と千代崎は考えています。
いきなり難しい問題ですが、大切なことですので、今日はこのことをお話しさせていただきました。
2.教会の徳を高める
さて、14章の中で、手紙を書いたパウロはどう考えていたかを、次に見てまいります。2節から。
2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
3 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
5 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。

パウロはコリント教会の異言を否定してはいません。でも、異言よりも預言のほうが好ましい、と語っているようです。それは、異言は、語っている人自身は、それを語れることで信仰が強められる。それも良いことですが、預言(この預言とは旧約時代の預言者のような預言も含みますが、現代の説教に近いものだと思われます)は聞く人が理解できる言葉で語られて、教会全体の徳が高められる、信仰が強められる。この手紙はコリント教会の人に教会ということを教えているのですから、教会にとって明らかな益となる預言をパウロは優先したのだと思われます。
もちろん、異言には異なる価値があるとも語っています。異言と共にリストに挙げられていた、「異言を解き明かす力」を与えられた人がいれば、人間に分かるように解説してくれますので、教会全体にとっても益となる。また、22節。
22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
「しるし」というのは神様が働いておられることを示す奇跡のようなこととして用いられる言葉ですが、異言は不信者のためのしるしだとパウロが語っているのは、恐らくペンテコステの日のことを思い出しているのだと思われます。あの日、弟子たちがいろいろな外国語で語ったのを聞いた人たち、彼らはまだクリスチャンではない、ここでパウロが言う「不信者」ですが、その外国語で語られた神様の御業について聞いてびっくりして、ペテロの説教を聞くようになり、三千人が救われた。
それに対して預言は、教会に来ている人たちがそれを聞いて理解して、特に24節。
24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

預言を聞いた人は罪が示され、神様を礼拝するようになると言っています。これは外国語が語られた後でペテロが旧約聖書から説教をして、聞いた人たちが心を刺され、悔い改めてキリストを信じたことを思い出させます。パウロは一人でも多くの人に福音を伝えて救いに導くことが願いでしたから、預言の働きが大切だと考えたのでしょう。19節。
19 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。
知恵を誇っていたコリントの人にはパウロは知恵を尽くして福音を伝えたでしょう。五つの言葉とは何か。良く分かっていないのですが、ある人は「イエス、キリスト、神の、御子、救い主」という五つのギリシャ語、その頭文字を並べると「イクスース」となり、これは魚を意味するので、迫害時代のクリスチャンは魚のマークを暗号に使ったそうです。パウロが伝えたかったのは、まさにイエス様が救い主だという言葉だったでしょう。パウロは多くの人を救うために教会が成長することを願って手紙を書いた。ですからコリントの人たちにも、この異言の問題を通して、自分の信仰だけでなく、他の人、そして教会全体を建て上げることを彼らにも考えて欲しい。自分のためではなく、他の人のために愛をもって語ることを教えているのです。
3.平和と秩序の神
パウロが14章で異言のことを取り上げたのは、コリント教会で異言に関して問題が起きていて、それを彼らがパウロに質問したことへのパウロの指導として書かれているのです。決して異言が間違っていると言っているのではありません。異言を正しく用いなかったために、結果として教会が混乱していた。だから、パウロはかなり具体的にコリントの教会に教えているのが、26節からです。
26 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
ここは、賜物を用いるのは教会の徳を高める、つまり信仰が成長するためです。決して自慢をしたり他者を見下すためではありません。27節。
27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。

順番に話すこと、人が語るときには黙って聞くこと。なんだか子供に語っているみたいですが、こう言わなければならないほどにコリント教会は混乱していて、礼拝も無秩序状態だったのです。異言を語る人は、誰か解き明かす人がいなければ、人前ではなく自分だけで神様に祈るようにと注意する。また預言を語るのを聞いて、それが正しい御言葉かを聖書を調べて吟味する。すごいですね。例えるなら、牧師が語る説教を聞いた人が、家に帰って復習して、聖書全体に教えられていることを調べて吟味して、確信をもって御言葉に従う。そのような教会は信仰がものすごく成長するはずです。
33節にはこう言っています。
33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
ですから、39節。
39 それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

異言問題を特に取り上げてきましたが、他の問題でも、無秩序ではなく、秩序をもって用いるように教えています。34節では女性が無秩序に語ることがあって、パウロは少し厳しく戒めています。「女性は黙っていなさい」というのは、無秩序な混乱に陥っていたからそう語っているのであって、女性を差別したり、本当に声を出してはいけないと言っているのではなく、男性でも女性でも、愛をもって他者を配慮して、謙遜に語ることが大切です。また37節では異言ではなく預言を語る人にも一言注意を語っているようです。
14章でパウロが教えていることを、もっと分かりやすく語っているのは13章の冒頭です。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

愛が無い、つまり自分勝手で、配慮も秩序も無いなら、異言も預言もうるさいだけで価値がないと言っています。ですから、最高の賜物である「愛を追い求めなさい」と14章1節でも教えられているとおりです。
まとめ.
異言の問題は難しい面がありますが、コリント教会では重要な課題でした。教会によって、また一人一人も、直面している問題は異なります。でも、誰もが13章が教えている愛を追い求め、神と隣人を愛し、キリストの教会を愛し仕えるなら、それがどの教会にとっても一番大切なことなのです。
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2022年06月12日

6月12日「教会はキリストのからだ」Tコリント3〜8(12〜13章)

6月12日「教会はキリストのからだ」Tコリント3〜8(12〜13章)
先週はペンテコステで、聖霊が教会に下られた記念日でした。特別に聖霊に関するメッセージをしなかったのは、今、コリント書から教会についてお話をするのに、何度も聖霊についても触れてきていることもあります。ですから、今日も、いいえ、今日は特に教会に関して重要なことが語られている箇所の一つ、第一コリントの12章と、それに続く13章は「愛の章」として有名な箇所です、結婚式でも開かれるような御言葉ですが、ただ愛について教えているのではなく、教会という文脈の中で、改めて13章にも少し触れたいと思います。今日はコリント人への第一の手紙12章と13章から「教会はキリストのからだ」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。
いつものように三つのポイントで。第一に「多様性と一致」ということ。第二に「聖霊による一体性」、そして第三に「神の任命と愛」という順序で進めてまいります。
1.多様性と一致
まず、12章の1節をご覧ください。
1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
御霊の賜物、すなわち聖霊による賜物ということに関しては、夏の退修会でのテーマとなる予定ですが、今日は特に教会との関係における賜物ということをお話ししてまいります。この「御霊の賜物」という大切な主題は、12章だけでなく14章にも続いていますので、もう一度、お話ししようと思っています。先ほど司会者にも読んでいただきましたが、3節。
3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
この後、具体的な賜物の話を始める前に、聖霊の大切な働きを述べています。それは、聖霊によらなければ誰もイエス様を信じることはできない、ということです。御霊の賜物というのは、特別な人だけ与えられたのではなく、クリスチャンとなるときには全員に与えられているものです。「イエスは主である」という御言葉は、もっとも簡潔な信仰告白です。どんなに小さな信仰でも、それを告白して救いをいただくのは、聖霊の助けが陰にあって、それも聖霊の賜物、すなわちプレゼントです。私たちには誰にもこのプレゼントが与えられ、それを受け取ったとき、救われるのです。でも、救われただけでおしまいでは無く、さらに聖霊は豊かな賜物を用意しておられる。それが12章で語られていることです。
この豊かなプレゼントは、何のために与えられるかと言いますと、4節から。
4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

賜物にはいろいろな種類がある、と書かれていて、具体的にはどんな種類のものがあるかは、後で語られていますが、賜物に様々な種類があるのは、5節では「奉仕にはいろいろな種類」、6節には「働きにはいろいろな種類」と書かれています。賜物は奉仕、すなわち神様に仕え、キリストのからだである教会で仕えるためにあります。この世では賜物と才能が混同され、才能でしたら自分のために用いることもできますが、賜物は仕えるため。また6節は働きのためとありますが、これも普通の仕事ではなく、6節後半で「神はすべての人の中ですべての働きをなさる」と書かれているように、神様のお働きの一端を担うのです。そして賜物が与えられて、教会に仕え、神様のお働きのお手伝いをさせていただくことが、7節では「みなの益となる」と書かれています。賜物とは、そのような目的で与えられるのです。
具体的にどんな賜物があるか。8節から読みます。
8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

ここに書かれているのが全てではありません。さらに聖書を調べていきますと、もっと豊かな、バラエティーに富んだ賜物があります。ここには、おそらくコリント教会の人たちが知っていた賜物を取り上げているようです。8節には「知恵」と「知識」、9節には「信仰」、これも御霊の賜物だというのです。また9節の終わりには「いやしの賜物」。10節には「奇蹟」、「預言」、「霊を見分ける力」、そして「異言」と「異言を解き明かす力」。この最後に二つに関しては14章で詳しく述べられています。何らかの奇蹟を行うことができる人がいたのでしょうか。「癒やしの賜物」を持っている人。知識や知恵に富んでいる人。すごいですね。ただ、これらの賜物を持っていると自称する人が、それを教会に仕えるためでなく、それができるのを自慢して、自分の誇りのために用いている。これは賜物の間違った使い方です。それを戒めるために、パウロはここで、いろいろな賜物がある、と教えながら、同時に4節では「御霊は同じ御霊」。その賜物は聖霊からのプレゼントで、それは自分のものではなく、聖霊が与えてくださったのであり、聖霊はお一人のお方です。5節でも、様々な奉仕はあるけれど、同じお方に仕えている。神の働きも様々ですが、お一人の神様の働きです。ですから、賜物を正しく用いたら、コリント教会の教会のような分派分裂になるのはおかしい。一つとなるはず。それが12節。
12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

いろいろな賜物があり、それにより様々な働きがあり、また教会にはユダヤ人、ギリシャ人、様々な人がいても、キリストのからだは一つなのです。それがからだの例えで、手や足や目や耳があって、それぞれの能力や働きは違うけれども、からだはバラバラではなく、一体なのです。
教会には様々な人が来ておられ、それぞれの人に神様が与えてくださった賜物を用いて、いろいろな働きがなされています。ある教会で、少し前の話ですが、教会の礼拝をローカルテレビに流そうと考えたのですが、誰がそんな技術を持っているだろうか。そうしたら、一人の信徒の方が紹介されて、実はテレビ局で働いていたことがあって。その人は自分の経歴や仕事の技術が教会に役立つとは思っていなかったのが、不思議なように神様の働きのために用いられたのです。皆さんも、仕事でも趣味でも、何か神様のために用いていただくことができる。詳しくは夏の退修会でどうぞ。コマーシャルでした。
教会には様々な人が来ていて、違いもたくさんあります。でも、その違いを生かして、神様のために用いていただくとき、キリストのからだである教会の一員として生き生きと仕えることができる。主にあって、一致できる。これが教会の多様性と一致ということです。
2.聖霊による一体性
二つ目のことをお話しします。多様性のある教会が一致できるのは聖霊によることは、最初にもお話しした通りです。でも、聖霊による一体性とは、具体的には、私にとってどういうことなのか。
14節から26節は、からだとはどういうものかを分かりやすく語っていますので、後からでも読んでください。20節から。
20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

人間の肉体も様々な器官、いろいろな部分がある。でも、ひとつの体であって、その体の中でお互いに否定し合うのは意味が無い。目が手に向かって、お前は何も見えないから必要ないと言ったり、手が目に向かって、お前は何も持てないから必要ない、というのはナンセンスです。
しかし、キリストの体である教会でそんなことが起きたら残念ですが、他の人を必要ないと言って排除することはしないとしても、自分はあの人と違って何もできないから自分は教会にとって必要ない、と自分を否定してしまうなら、それはキリストの御心ではありません。反対に、自分の方があの人よりも力がある、自分の方が価値がある、と高慢になるのも御心に反します。
ただ、人間は自分の弱さを認めたくない存在です。自分には何かができるということに自分の存在価値を見いだして満足したい。それができないと自己卑下して、自分を慰めようとする。自分よりも弱い人を批判して、自分が正しいと考えて弱さを認めない。もっと聖書的な表現を使うなら、人間は自分の罪を認められない。それをさせてくださるのは聖霊の働きです。聖霊が私たちの中に働かれるとき、御言葉によって語りかけて、私の中にある罪、自分の弱さを、素直に認めて、神様に助けを願う。そのとき、私の力によって働くのでは無く、神様が私の中に働いてくださるのです。
聖霊が私のうちにも自由に働いてくださり、私を御心にかなったものとして用いてください、と祈ろうではありませんか。
3.神の任命と愛
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。28節。
28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

ここに様々な働きが上げられ、それは賜物とも密接につながっています。その働きに、神様がその人を任命したと書いているのです。ホーリネス教団は任命制度を採用しています。牧師は神様から任命されて教会に遣わされる。でも牧師だけでなく信徒も神様の任命によってその教会でキリストに仕えているのです。パウロは、様々な働きも神の任命であって、私たちはその命令にお従いするのだと教えています。だから、人と違っても良いのです。どうして私がこの働き、この奉仕をするのか、最初は分からないこともあります。でも神様が任命してくださり、私を用いてくださるということを学ぶとき、そしてそのために必要な賜物を与えてくださり、私を用いていただけると受け止めたとき、その働きが感謝と喜びになってくるのです。
でも、どうして神様はこの働きへと私を遣わしたのだろうか。26節に、こう書かれています。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
一体である教会は、一人が苦しむとき、共に苦しみます。一人が喜ぶとき、共に喜びます。素晴らしい交わりです。でも、誰かが痛んでいるとき、誰かが悲しんでいるとき、誰よりも心を痛め、悲しんでおられるのは、かしらであるキリストご自身ではないでしょうか。そのイエス様も、父なる神様の御心に従って、地上へと遣わされて救い主の働きをされ、十字架にまでついてくださった。それは父なる神のお心が人間の罪の故に痛み、人間が滅びることを悲しまれたからです。
からだの背後には愛があります。人間は自分の肉体を愛します。「我が身かわいさ」という言葉があるくらいです。それは両親の愛、そして神様が私を愛していてくださるからです。その神様が私たちを働きへと遣わすのも、動機は愛です。私たちが救われ、賜物が与えられた、その意義を発揮できるように、働きに遣わして用いてくださり、働くときにはキリストが一緒にいてくださる。神の任命は愛なのです。私たちは神様の愛に応答する、それがクリスチャンの、いいえ、神様に造られた人間の目的なのです。
まとめ.
今日は13章をお話する時間が無いのですが、13章は「愛の章」です。神の愛がどんなものであり、私たちも神の愛に生きるようになることを願っておられる。愛はどんな賜物よりもすぐれたもの、偉大なもの。それは神様の御心に一番近いからです。教会でも、愛を持ってお互いに仕えましょう。それが教会を、キリストのからだとして一つにし、建て上げていくからです。
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2022年06月05日

6月5日礼拝「教会は何のため?」第一コリント11:22〜28(11章)

6月5日礼拝「教会は何のため?」第一コリント11:22〜28(11章)
(今日はペンテコステです。聖霊が弟子たちの群れに下られて、教会が誕生した記念日です。この日は教会について、聖霊についてお話しすることが多いのですが、ペンテコステの日に何がおきたかは、昨年、『使徒の働き』からお話したときに触れました。今年は『コリント人への手紙第一』を通して、教会と聖霊について何度も話してまいりましたので、今日も続けてコリント書を開いてまいります。)
人間は、生きている限りはいろいろな問題が行きます。そして悩んだり困ったり苦しんだりし、その問題を解決するように努力をし、時には挫折します。生けるものは全て問題がないことはない。そして、キリストのからだと呼ばれている教会も生きていて、様々な問題があります。今は特にコロナ禍という特殊な状況がありますから、普通以上に問題や課題があります。でも、神様に感謝するのは、そのような問題に対処するときに、キリストも教会を導いておられ、また私たちが祈り、奉仕し、用いられていくのです。コロナ禍で集まることができない人たちがおられる。そのとき、ある方は手紙や電話で連絡を取ってつながり続けておられます。ある人は教会に人が安全に集まることが可能となるように様々な手を尽くします。そして多くの方が祈り合って教会を陰で支えておられる。問題があるからこそ、多くの信徒がさらにキリストに仕え、また神様との交わりを大切に考えるようになったのです。ただ、私たちは問題にばかり目を向けるのではなく、もっと本質的なことを聖書を通して示され、そして信仰が建て上げられていくのです。
前置きが長くなりましたが、今日もコリント人への手紙第一の11章を通して、問題の多かったコリント教会の人々にパウロが教えていることを、ご一緒に考えてまいります。いつものように三つのポイントで、第一に「混乱する教会」ということ、第二に「中心はキリスト」、そして第三に「主が裁かれるため」という順序で進めてまいります。
1.混乱する教会
今日は11章を開いてまいりますが、この手紙は最初の第1章からコリント教会に巻き起こっていた問題が示されています。それは分派分裂と言う問題で、教会が様々な考え方によりバラバラになっていた。その後を読んでいくと、肉を食べても良いかという日常の問題から、結婚問題や、教会での女性の位置について。これは今日、私も説教の中で取り上げます。そして教会における食事の問題。これは私たちにも関係があることです。
11章の前半は司会者に読んでいただかなかったので、後で読んでくださっても結構ですが、私たちにはとても奇妙な問題に感じるかもしれません。それは女性の被り物についてです。当時の教会では礼拝に集まるときに、女性は被り物、ベールのようなものか、帽子か何か、詳しくは分かりませんが、女性は頭に被り物をかぶっていた。ところがコリント教会ではそれをかぶらない女性たちがいて、どうしたらよいか困っていたというのです。パウロは明確に、女性は被り物をかぶるべきだと教えているのですが、では私たちはどうするべきでしょうか。日本の多くの教会ではこの習慣はありませんが、一部の教会ではこの習慣を今でも守っている。それは、聖書にそう教えられているからです。
旧約聖書の律法に出てくるルールですと、喩えばイスラエルの民は豚肉を食べてはいけない。今も多くのユダヤ教徒は、それを守っています。でもイエス様が何でも食べてよい、と教えてくださったので、今、私たちは旧約の食物ルールは守らなくても良いんだ、と考えます。動物の犠牲を献げることもしません。旧約時代の契約だからです。でも、この「かぶり物」は新約聖書での命令であり、使徒パウロが教会に命じたことですから、私たちに関係はない、とは言いにくい。ですから、この「被り物に関する命令」をどう理解するか、大変に難しい問題なのです。他にも、この箇所でパウロが旧約聖書の言葉を用いて語っているのですが、その解釈の仕方も難しくて、簡単に結論をくだせない箇所です。
ただ、どうしてパウロがこの問題を取り上げたか。背後にはコリント教会の誰かからの質問があったからで、それは一部の女性たちが自分の考えを主張して、教会が混乱していた。パウロはその混乱を正そうとして語っていることは伝わってきます。
11章の後半、17節からでは、違う問題を取り上げています。それは教会に集まるのは何のためか。17節。
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

パウロは、すでに1章において分派分裂を戒めていますから、ここでの言葉も、分派を認めたのではありません。現実のこととして考え方の違いから意見が分かれることはある。しかし、その考え方の違いから教会が混乱に陥っていた。それが20節から取り上げられている、教会での食事の問題です。
当時の教会では、教会で食べるということには二つのことがあったそうです。一つは聖餐式、十字架を示す食事で、キリストご自身の命令によるもので、今でも教会で守られている式です。もう一つは愛餐会で、特別な意味はなく、楽しい交わりの時です。今、私たちはコロナの感染予防のために食事は制限をしています。この二種類の食事がコリント教会ではゴチャゴチャになっていたのです。礼拝を行い、その中で聖餐式を守る、というのではなく、教会に集まるときに、先に来た人たちが食事を初めて、お酒を飲んで酔っ払っている。遅く来た人は、食事もする時間がなく教会に来て、空腹なままで過ごしている。この混乱の原因と考えられるのは貧富や身分の違いです。裕福な人や身分の高い人は自分の自由に動けて、教会でも好きなことをしていた。でも身分が低く、貧しい人は自由な時間も限られていて、礼拝にもギリギリの時間に来るし、食事も用意できない。22節。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
いつの時代の教会でも、人によって事情が違いますから、全員が同じように集まり、同じことができるのではありません。例えば、礼拝の後、残ってゆっくりと交わりをしましょう、というときに、ある人はまだクリスチャンではないご家族のためには急いで帰って、家族のことも配慮することが将来の伝道のために必要だということもあるでしょう。でも教会はその違いを解決する愛と知恵を神様からいただくことができる。コリント教会も、富んでいる人が貧しい人を配慮して、自分たちが持ってきた食事の一部を彼らに分けてあげたら、貧しい人たちも助かったと思うのです。結局、この混乱は自分の楽しみだけを考える自己中心が背後にある。被り物の問題も、自分がしたいようにするという自己主張があるから混乱が生まれたのです。
聖書は、その当時の人に対して書かれたので、その背後にある状況を考えて読む必要はありますが、時代や国が違い、文化の違いがあっても、その人たちにも何かを語り掛けている。その中心的なメッセージをつかみ取るなら、今の私たちに対しても、何が教えられているかを考えることができます。そのように聖書を読んでいくなら、問題が混乱を生み出してしまうのではなくて、解決へと向かう道を示していただけるのです。
2.中心はキリスト
二つ目のポイントに移ります。この食事に関する混乱を戒めている中で、では教会では何が重要なのかを語っているのが、23節から。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

どこかで聞いたことがある、と思ったら、これは聖餐式の時に読まれる箇所です。イエス・キリストが最後の晩餐で弟子たちに語ったことが教会に語り伝えられていた、大切なことです。聖餐とは、キリストのからだであるパンと、罪を赦すキリストの血潮を意味する葡萄酒の盃をいただく。それは満腹になるための食事ではなく、26節最後に「主が来られるときまで、主の死」、これは十字架のことです、「主の死を告げ知らせる」。聖餐は十字架の意味を教え、その十字架の救いを宣べ伝えるためです。自分のためではなく、キリストに従うためです。
聖餐式だけではありません。教会で行う、洗礼式も、礼拝も、奉仕も祈りも、そして交わりも、教会の全てはキリストを中心として行い、キリストが私たちの主であり、教会のかしらなのです。ですから、イエス様が弱い人たちを大切にされたことを覚えるなら、身分の低い人たちを阻害するのは、教会の主であるイエス様の心を踏みにじることです。
パウロはここでコリント教会の一部の人たちを断罪して、彼らを追い出しなさいとは言っていない。そうではなくて、彼らも聖餐式の本当に意味を知って、イエス様のおからだをいただいたものとして、イエス様の心を自分の心として、キリストに相応しい生き方へと信仰が成長することを願って語っているのです。それぞれの教会で、また様々な問題があるでしょう。それを聖書の御言葉を通して教えていただき、問題をきっかけとして信仰の成長、教会が建て上げられるようにと導いていただきましょう。
3.主が裁かれるため
最後に、27節からを見たいと思います。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

聖餐の持つ大切な意味を考えるとき、自分はイエス様のおからだをいただくのに、自分がそれにふさわしい人間なのか。28節で「自分を吟味し」と語られているように、自分自身を顧みる機会でもあります。同じようなことを、31節では「自分をさばく」と語っています。この「さばく」とは自分の罪を断罪して、自分はダメだというのではなく、その罪を十字架の贖いによって赦していただくためです。それを教会で、特に聖餐式をはじめとする、様々な教会での出来事、それはキリストが中心だと先ほどもお話ししましたが、教会でキリストの前にあって自分を吟味し、主の御心によって自分を正しく裁く。それによって、もし間違っていることがあるなら、神様がそれを正してくださり、キリストに相応しい者へと成長していくことができるようにしてくださるのです。
コリント教会では教会に集まったとき、自己主張や自己中心のために集まりが混乱して、弱い人を躓かせ、礼拝も秩序を失って、神様への礼拝がおかしくなってきていた。「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」と言われてしまっています。でも、教会で自分を吟味して、自分の中にある自己主張や自己中心をキリストの十字架の前に悔い改め、赦しの恵みをいただくなら、人を裁いたり、愛のない行いをするのではなく、教会でお互いに仕えるものとなるのです。
教会は自分のためにあるのではなく、私たちがキリストに仕え、お互いを愛し仕え合い、また自分を吟味して正しくしていただき、自分も、また教会全体も信仰が成長していく。それが主のからだを建て上げていくことなのです。
まとめ.
私たちはもうしばらくはコロナ禍体制で、交わりや集会が制限付きで行われています。いつか、制限が無くなって、また楽しく食事をして交わりを楽しむときが来ることを祈っていますが、今、何のための交わりなのか、何のための食事なのかを考える機会です。せっかく様々な行事が再開されるときが来ても、混乱して教会のかしらであるイエス様を悲しませるような姿にならないために、まず私たちの信仰を御言葉によって吟味していただき、主が望んでおられる教会となっていきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教