聖書の中には難しいことも書かれています。難しいというのは、学校のテストの問題に例えるなら、答えが出ない、あるいは今の時点では良く分かっていないという問題です。小学生には解けないけれど、中学、高校と進んでいくと分かるようになる場合もあります。もう一種類の難しい問題は、答えが複数あって、どれとも決めがたい問題です。中学、高校くらいまでは、正解がはっきりと決まる問題が出されます。そうじゃないとテストになりません。でも、大学、大学院とさらに進んでいくと、様々な学説があって、どれも理屈に合っていて、答えとして相応しい。聖書の世界でも、様々な解釈があり、異なる理解ですが、どちらも正しい。でも、どの立場から物事を見るかによっては、一つは正しくて、もう一つは間違っている、と思える。世界地図を想像してみてください。日本の学校では日本が中央に来るような世界地図ですが、アメリカやヨーロッパで使う世界地図では日本は東の端っこにあります。でも、南半球の人の立場から言うと、南北を逆にして、南が上、北が下に来るような地図もあるそうです。でも、宇宙から見たら、どちらが上とか、どこが中心とか、関係ない。どこから見るかによって見え方や考え方が変わる。少し難しい問題でした。
今日、コリント人への手紙第一の14章からお話ししようとしているのは、「異言」と呼ばれる問題で、教会によって受け止め方が違う。どの見方が正しくて、他が間違っていると考えるのではなく、聖書を丁寧に読んで、考えることが大切です。前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントでお話ししてまいります。第一に「異言の賜物」ということ、第二に「教会の徳を高める」ということ、そして第三に「平和と秩序の神」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.異言の賜物
前回、12章から賜物ということをお話ししました。神様がクリスチャンに与えてくださる特別な力で、キリストの教会に仕えるために用いるものです。どんな賜物があるか、そのリストの一部が12章8節から10節に書かれていますが、10節。
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
この他にも様々な賜物があるので、それについては八月の退修会で学びます。今日は、10節の最後の二つ、異言と、異言を解き明かす力、ということが14章の話題となっているのです。でも、異言って何か。これが難しい問題です。どうも一つではなく、二つ、あるいは三種類の理解があるようです。
第一に、異言、つまり異なる言葉とは、外国語のことだという理解です。ペンテコステの日に弟子たちの群れに聖霊が下られたとき、弟子たちは様々な国の言葉で語りだした、と『使徒の働き』に書かれています。英語が苦手な私は、この力が与えられたらと思ったことがあります。彼らが外国語で語るように聖霊が力を与えてくださったのは、当時、世界のあちこちからエルサレムに来ていた人たちに福音を聞かせるためで、後には世界の果てにまで福音を伝えるためです。第二は、どこの国の言葉とも言えない言葉、ある人は「天使の言葉」だと説明しますが、言語学者も分からない、人間とは異なる言葉です。三つめは、この二種類のどちらとも判別できない、答えが出ないケースです。コリント教会のケースは、この三つ目だったか、はっきりは分かりません。でも、何でそのような分からない言葉や、天使の言葉とも言われるような不思議な言葉が存在するのかは、後でお話しします。
紀元1世紀の各地の教会で起きていた異言も、録音が残っていないので、どの種類のものかは分からない場合があります。そして、この異言は、昔はあったけれど今は無い、というのではなく、20世紀、21世紀にも異言が起きている教会があります。ペンテコステ派とか、異言派と呼ばれているグループの教会で、そこで語られている異言は、少なくとも外国語、どこかの国の言葉ではないのは分かっています。恐らく二番目の「天使の言葉」と呼ばれているものに近いと思いますが、それがコリント教会の異言と同じかは、諸説ある状態です。またこの異言に対する態度も教会によって違います。ペンテコステ派では積極的に受け止めて、異言を語ることを推奨しています。反対に、現代の異言は聖書の時代のものとは違うと言って否定や反発する人たちもいます。ホーリネス教団は、否定はせず、聖書にある異言を認めますが、積極的に推奨するのではなく、冷静に対応するという立場です。どれにしても、自分たちの考えだけが正しくて、他の教会は間違っていると主張すると教会が対立し、分裂してしまいます。今、まだ完全には理解できていないことについては、いろいろな立場を認めつつ、自分の教会の立場を尊重するという対応をすることが良いのではないか、と千代崎は考えています。
いきなり難しい問題ですが、大切なことですので、今日はこのことをお話しさせていただきました。
2.教会の徳を高める
さて、14章の中で、手紙を書いたパウロはどう考えていたかを、次に見てまいります。2節から。
2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
3 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
5 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
パウロはコリント教会の異言を否定してはいません。でも、異言よりも預言のほうが好ましい、と語っているようです。それは、異言は、語っている人自身は、それを語れることで信仰が強められる。それも良いことですが、預言(この預言とは旧約時代の預言者のような預言も含みますが、現代の説教に近いものだと思われます)は聞く人が理解できる言葉で語られて、教会全体の徳が高められる、信仰が強められる。この手紙はコリント教会の人に教会ということを教えているのですから、教会にとって明らかな益となる預言をパウロは優先したのだと思われます。
もちろん、異言には異なる価値があるとも語っています。異言と共にリストに挙げられていた、「異言を解き明かす力」を与えられた人がいれば、人間に分かるように解説してくれますので、教会全体にとっても益となる。また、22節。
22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
「しるし」というのは神様が働いておられることを示す奇跡のようなこととして用いられる言葉ですが、異言は不信者のためのしるしだとパウロが語っているのは、恐らくペンテコステの日のことを思い出しているのだと思われます。あの日、弟子たちがいろいろな外国語で語ったのを聞いた人たち、彼らはまだクリスチャンではない、ここでパウロが言う「不信者」ですが、その外国語で語られた神様の御業について聞いてびっくりして、ペテロの説教を聞くようになり、三千人が救われた。
それに対して預言は、教会に来ている人たちがそれを聞いて理解して、特に24節。
24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
預言を聞いた人は罪が示され、神様を礼拝するようになると言っています。これは外国語が語られた後でペテロが旧約聖書から説教をして、聞いた人たちが心を刺され、悔い改めてキリストを信じたことを思い出させます。パウロは一人でも多くの人に福音を伝えて救いに導くことが願いでしたから、預言の働きが大切だと考えたのでしょう。19節。
19 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。
知恵を誇っていたコリントの人にはパウロは知恵を尽くして福音を伝えたでしょう。五つの言葉とは何か。良く分かっていないのですが、ある人は「イエス、キリスト、神の、御子、救い主」という五つのギリシャ語、その頭文字を並べると「イクスース」となり、これは魚を意味するので、迫害時代のクリスチャンは魚のマークを暗号に使ったそうです。パウロが伝えたかったのは、まさにイエス様が救い主だという言葉だったでしょう。パウロは多くの人を救うために教会が成長することを願って手紙を書いた。ですからコリントの人たちにも、この異言の問題を通して、自分の信仰だけでなく、他の人、そして教会全体を建て上げることを彼らにも考えて欲しい。自分のためではなく、他の人のために愛をもって語ることを教えているのです。
3.平和と秩序の神
パウロが14章で異言のことを取り上げたのは、コリント教会で異言に関して問題が起きていて、それを彼らがパウロに質問したことへのパウロの指導として書かれているのです。決して異言が間違っていると言っているのではありません。異言を正しく用いなかったために、結果として教会が混乱していた。だから、パウロはかなり具体的にコリントの教会に教えているのが、26節からです。
26 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
ここは、賜物を用いるのは教会の徳を高める、つまり信仰が成長するためです。決して自慢をしたり他者を見下すためではありません。27節。
27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。
順番に話すこと、人が語るときには黙って聞くこと。なんだか子供に語っているみたいですが、こう言わなければならないほどにコリント教会は混乱していて、礼拝も無秩序状態だったのです。異言を語る人は、誰か解き明かす人がいなければ、人前ではなく自分だけで神様に祈るようにと注意する。また預言を語るのを聞いて、それが正しい御言葉かを聖書を調べて吟味する。すごいですね。例えるなら、牧師が語る説教を聞いた人が、家に帰って復習して、聖書全体に教えられていることを調べて吟味して、確信をもって御言葉に従う。そのような教会は信仰がものすごく成長するはずです。
33節にはこう言っています。
33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
ですから、39節。
39 それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。
異言問題を特に取り上げてきましたが、他の問題でも、無秩序ではなく、秩序をもって用いるように教えています。34節では女性が無秩序に語ることがあって、パウロは少し厳しく戒めています。「女性は黙っていなさい」というのは、無秩序な混乱に陥っていたからそう語っているのであって、女性を差別したり、本当に声を出してはいけないと言っているのではなく、男性でも女性でも、愛をもって他者を配慮して、謙遜に語ることが大切です。また37節では異言ではなく預言を語る人にも一言注意を語っているようです。
14章でパウロが教えていることを、もっと分かりやすく語っているのは13章の冒頭です。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
愛が無い、つまり自分勝手で、配慮も秩序も無いなら、異言も預言もうるさいだけで価値がないと言っています。ですから、最高の賜物である「愛を追い求めなさい」と14章1節でも教えられているとおりです。
まとめ.
異言の問題は難しい面がありますが、コリント教会では重要な課題でした。教会によって、また一人一人も、直面している問題は異なります。でも、誰もが13章が教えている愛を追い求め、神と隣人を愛し、キリストの教会を愛し仕えるなら、それがどの教会にとっても一番大切なことなのです。
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