2022年05月08日

5月8日礼拝説教「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)

5月8日「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)
先ほど読んでいただきました第一コリントの7章ですが、内容としては主に結婚について書かれているようです。ただ、初めて読む人は戸惑うかもしれません。例えば8節にはこう書かれています。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。

パウロは独身であったと言われますが、この章では結婚をしても良いが、しない方がもっと良いとは、罪を犯すよりは結婚するほうがましだ、という感じで、この章が結婚に関する教え、あるいは決まりだとすると、結婚に関して否定的な考えになります。でも、聖書のほかの箇所を読むと、結婚が大切なことであり、神の祝福であることも分かります。一体、どう考えたら良いのか。さらに、7章では、ある部分では、パウロはこれは自分の個人的意見だ、違う部分では、これは主の命令だと言い、またほかの箇所では、これは命令ではない、と言います。
このことを整理するために、1節を見ますと、こう書かれています。
1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
「あなたがたの手紙に書いてあったことについて」と言っています。つまり、コリント人への第一の手紙が書かれる前に、コリント教会の人たちからパウロに手紙が書かれ、そこに彼らからパウロへの質問があったのだと分かります。その質問への答えとしてこの章は書かれています。ただ、その質問が具体的にどうだったのかは、7章から推測するしかありませんし、ましてや、その質問が出された背景となる出来事や教会の状況に関しては分からないわけです。相手のことを詳しく知らないのに、表面的なことだけを見て批判や意見をするなら、見当違いのことを言ってしまうことになりかねませんが、私もこの7章に関しては様々な解釈があるのですが、あまり断定的なことは言わない方が良いと思います。もちろん、だからと言って、この章は学ぶべき価値がないはずはありませんし、御言葉として従う必要はない、と言うのは言い過ぎです。読んだ人が、それぞれ聖霊に示されることを受け止めていくのだと思います。
いきなりややこしい話から始めてしまいましたが、この7章を理解するのは単純ではない。そこで、結婚と言う主題から少し離れて、17節からの部分、そこには割礼という問題と、奴隷に関して書かれていますが、このことをきっかけとして、7章全体から御言葉を考えてまいりたいと思います。長い前置きとなってしまいましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「割礼と奴隷」、第二に「律法と御言葉」、そして第三に「今は危急の時」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.割礼と奴隷
今日の説教題は、「あなたは奴隷ですか」と、変な質問です。昔の欧米にあったような奴隷制度は、今の日本にはありませんが、国によってはそのような制度があったり、また制度としては認められていなくても、奴隷のように扱われてしまっている人たちもいます。もちろん、社会問題としての奴隷制度についてお話しするのは、もっと時間を必要としますので、今日はしません。ですから「あなたは奴隷ですか」という質問を、恐らく違う意味で受け止めた方もおられるでしょう。例えば、罪の奴隷、という言い方を時々します。自分でもコントロールできず、したくないのに罪を犯してしまう。その意味で人間は罪の奴隷となることがあります。それはいつもお話ししていますので、罪の奴隷のことでもありません。
17節から、特に21節から23節でパウロが奴隷と言っているのは、当然、当時のローマ社会における奴隷のことです。奴隷と言っても自由に動けるときもあったので、教会には奴隷の身分の人もクリスチャンになって教会員としていたわけです。また、例えば借金のために奴隷となった者はその借金を返済すると言った条件を満たせば奴隷が解放されて自由人となることもできました。ではクリスチャンとなった奴隷はどうすべきか。21節。
21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
パウロは、奴隷のままでいることも、自由の身となることを目指すのも、どちらも良しとしています。旧約の律法でも、条件を満たして奴隷から自由人になる方法も書かれていると同時に、条件を満たしても今の主人のもとにとどまって僕として仕える方法も書かれています。奴隷でも自由人でも、神様の前には問題ではない。22節。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

クリスチャンとはキリストのものとされた存在です。ですから主によって罪から解放された自由人であり、主に従う僕、つまり奴隷でもある。人間の奴隷となってはいけない、というのは、パウロが当時の社会に遭って奴隷制度を否定しているということではなく、むしろそれを超越しているのであって、奴隷であるか否かという表面的な状態は本質的な問題ではない。奴隷でも自由人でも、キリストを信じて救われ、キリストを主として従うのです。
同じことを、割礼に当てはめたのが、18節です。
18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

パウロ自身はユダヤ人ですから割礼と言う儀式を受けていましたし、ユダヤ人が割礼を受けることを否定したりはしません。しかし異邦人クリスチャンが割礼を受けなければ救われないとする意見には断じて反対であったことは、『使徒の働き』や他の手紙に書かれています。重要なのは、それぞれが神の言葉に従うことだと言っています。
コリント教会における結婚問題についても同じなのだと思います。どんな事情があったのかは分かりませんが、結婚しようとする人、結婚しないと決意をする人、結婚に関わる問題で悩む人、それぞれが神様に従うという原則をしっかりと保って、自分や人の意見だけで決めてしまわない。でも、どんな結果になっても主はその人をすでに受け止めておられるのですから、これからも御言葉によって歩むなら、間違いは正されるでしょう、御心に従うように導かれていくことでしょう。この原則は、割礼や奴隷、結婚だけでなく、あらゆることにも当てはまると思います。例えば学生ならば、どの学校に進学するか、どんな仕事につくか。それ自体は自分で決める自由があるのですが、その中でいつも神様は自分に何を求めておられるか、聖書を通して御心に従う。この原則に立つなら、どの道を進んでも、主に従って一歩ずつ進んでいけるのです。
2.律法と御言葉
少し長くなりそうですので、二つ目のことは簡単にお話ししようかと思います。19節で、
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
ここで神の命令を守るとはどういう意味なのでしょうか。ユダヤ人は旧約聖書の律法を守って、割礼を受けていました。それはクリスチャンになっても彼らは自分の息子たちに割礼を施したことでしょう。では、異邦人クリスチャンはどうなのでしょう。旧約聖書は古いから守る必要はない、ということではありません。ユダヤ人は神様がイスラエルと結んだ契約の故に、割礼を受けることが祝福への手段と受け止めていましたが、異邦人クリスチャンはイスラエルの契約ではなく、イエス様による新しい契約によって救われたので、救いの条件として旧約聖書の律法を守る、ということはしない。でも、神様の言葉であることは確かですから、私たちも旧約聖書を通して御心を教えられて、それに従うことは大切です。少しややこしいので、このことを分かりやすく語っているのが、35節。
35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
この前後を読むと、パウロは結婚問題に関して語っているのですが、それは「あなたがたを束縛しようとしているのではありません」と言っています。ユダヤ人がある意味ではモーセの律法に束縛されていたと同じように、パウロの教えによって束縛されて、がんじがらめの信仰生活になることは、パウロの本意ではありません。「むしろあなたがたが秩序ある生活を送って」と書いていることから分かるように、どうやらコリント教会からの質問の背景には、これらの問題が混乱を引き起こしていた。ですからパウロは彼らには秩序が必要だと考えて7章を書いた。でも、その教えによって束縛しようとしているのではない。秩序ある生活の目的は、「ひたすら主に奉仕できるためなのです」。私たちにはそれぞれ自由があるでしょう。守るべきだと考える秩序もあるでしょう。それは割礼、奴隷、結婚、どの問題でも言えることです。でも、それが一番大切なことではなく、主に仕えること。それも、強制されるなら束縛となるかもしれませんが、自ら進んで、ひたすらに主に仕える。それが一番大切なことであり、祝福に満ちた道だからです。
今年の教会の標語、「キリストのからだを建て上げるために」も、制度とか自由とか自分の考えに縛られているのではなく、誰もが、どんな立場でも、喜んで主に仕え、奉仕をささげ、それぞれの賜物を用いて、自分のために生きるのではなく、キリストのからだである教会で奉仕をし、からだが成長していく。そのために御言葉に聞き従っていくのです。
3.今は危急の時
最後に、この7章において、もう一つの大切な面について触れて終わりたいと思います。17節。
17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
また20節と24節。
20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
パウロは、そのままの状態でいなさい、と繰り返している。ですから、奴隷は、自由人となっても良いけど、奴隷のままで良いし、結婚していない人はしないでも良い、ということになるのです。どうして「そのままの状態に留まれ」、と言うのか。それは26節。
26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
今は危急のとき、という意識です。緊急事態というような危機的状況あっては、他の様々なことは一旦脇に置いて、一番大切なことを優先します。例えば、災害のときのように生命の危険が迫っているときもそうです。先月は札幌に行ってきましたが、飛行機に乗ると「安全について」というアナウンスがあり、避難する方法が教えられます。避難のときは荷物は持たない。それが避難の妨げとなるからです。自分の荷物は自分の自由ですが、緊急時には命の方が優先です。パウロは、この危急の時だから、奴隷が自由となるための努力や、結婚するための心配りを第一とするではなく、救いにとどまることを最優先する。それが7章全体について背後にあるのだと思います。
パウロが危急の時と言っているのは何か。それは再臨です。1世紀のクリスチャンはキリストがすぐにでも帰ってこられると信じていた。その再臨のときに他のことに心がいっぱいになっていて、キリストのことが疎かになっていたら、花婿なる主をお迎えすることができない。ですから危急のときに何を優先するかは重要だったのです。しかし、反対に危急の時だからと言って、日常生活の秩序を失っていたのがテサロニケ教会で、テサロニケ教会への手紙ではそのことを指摘しています。
私たちにとって、今は危急の時でしょうか。キリストの再臨は、それがいつかは誰も知りませんが、イエス様は、いつ来ても良いように備えなさいと教えておられます。ですから、直ぐにでもおいでになるという危機感をもたなければなりませんが、同時に、再臨がずっと後でも良いように秩序正しく歩むことも大切です。正反対のようですが、危急の時であるという意識と、平常の時として正しい歩みを保つこと、その両面を見据えつつ、バランスのとれた信仰生活を送っていただきたいと思います。
まとめ.
現在は、コロナ禍という状況で、時には間違った情報や多すぎる情報に振り回されて、それの奴隷になってしまっては大変ですが、私たちは主の僕として、どんな時でもキリストを第一として、仕えていく。あなたは何の奴隷でしょうか。喜んで主に仕え、従う者となりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教