2022年04月03日

4月3日礼拝説教「キリストに倣う人生」1コリント4:14〜17(4章)

4月3日礼拝説教「キリストに倣う人生」1コリント4:14〜17(4章)
今日の説教題は「キリストに倣う人生」としました。15世紀の修道士であったトマス・ア・ケンピスという人が書いた本の題名が『キリストに倣いて』で、この本は、聖書の次に最も多く読まれたそうです。聖書が最も多く読まれたナンバーワンで、二番目がこの本、『キリストに倣いて』。それは人数だけでなく、何度も繰り返して読む人が多かったのかもしれません。そして、多くのクリスチャンの人生に深い影響を与えました。「キリストに倣いて」。言い換えると「キリストに似た者となる」ということは、私たちの目指すところです。最初からキリストの同じであるはずがない。でも、少しずつ、そして一生をかけて進むべき方向はキリストに向かって歩むことです。
今日は、使徒パウロがコリント教会の人々に、彼らはキリストのからだの一員とされ、一体であるべきなのに分派分裂と言われる派閥争いをしていた間違った生き方に対して、何が目指すべき生き方かを教えるために書いた手紙です。その4章からメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントに分けてお話しします。第一に「忠実な管理者」ということ、第二に「間違った誇り」、第三に「愛する我が子」という順序で進めていきたいと思います。
1.忠実な管理者
先ほどは司会者に14節からを読んでいただきましたが、1節から少し見てまいります。1節。
1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

「こういうわけで」と始まるのは前の章から続いているのであって、3章最後には、「あなたがたはキリストのもの」と書かれています。クリスチャンとは、キリストによって救われ、キリストのものとなった、ということです。ですから、パウロは「私たちはキリストのしもべ」なのであり、それは「管理者」だと語っています。
イエス様の弟子というと十二弟子が有名ですが、実際にはもっと多くの弟子たちがいて、その弟子がやがてクリスチャンと呼ばれるようになっていきます。当時の弟子は、先生をご主人とする僕でした。そして主人から任された教えを自分勝手に変えるのではなく、正しく管理する役目があります。どうして管理者という言い方が大切か。これと似た話として、創世記で神様が世界を造られたとき、最後に人間を造り、「すべての生き物を支配せよ」と言われました。この言葉を見て人間は世界の支配者だと勘違いをして、何でも自分の思い通りにした結果、環境破壊と言われるように世界を壊すようになってしまった。もちろん、神様はそんな風にすることを求めたのではなく、「支配せよ」とは、管理せよ、ということです。神の僕として、ご主人である神様こそが世界の所有者ですから、その神様のものを預けられて、正しく管理する。神様は世界を見て「良しとされた」と書かれていますから、良い状態に保つことが管理者の務めです。これと同じように、パウロはコリントのクリスチャンたちに、キリストの十字架の贖いによって買い取られた私たちは、キリストのしもべであり、管理者だと教えているのです。そして、管理者は忠実でなければならない、と2節は語っています。
どうして「管理者」という話を始めたのかというと、コリントのクリスチャンたちは、それと逆のことをしていた。3節。
3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

派閥争いがあると何度か話しましたが、パウロを認めたくない人々はパウロの悪口を言って否定します。曰く、パウロは異邦人の使徒と自称しているが、使徒は十二使徒だけで、パウロは使徒ではない。曰く、パウロはアポロと比べると雄弁ではない、口下手だ。もっと酷いことも言っていたのはパウロの耳に入ってきていたでしょう。彼らはまるで自分が裁判官であるかのように、パウロのことを判定し、判決を下して裁いていたのです。本当の裁き主は神様であり、御子であるキリストです。
人間は誰もが、自分が王か裁判官であるかのように他者を裁き、周りの人を支配したがります。それは本当の王であり裁き主である神様への罪です。ですからパウロは、派閥争いをしている彼らに、裁き合っていることを戒め、神様こそが裁き主であり、私たちがその僕、また管理者だと教えたのです。そして正しく管理するためには、何度も主人の言葉に耳を傾ける必要があります。もし僕が主人の意に沿わないことをしていたら、主人はそれを戒めるでしょう。その声を聞いていなければ、間違った管理者となります。聖書を通して語ってくださる神様の言葉をしっかりと聞き、聖書が教えていることから逸脱しないように。6節。
6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
私とはコリント教会の創立者パウロであり、アポロはパウロの後に来て教えた雄弁な伝道者です。ペテロ派などもありましたが、この二つが最大派閥だったのでしょう。パウロとアポロが反目していたのではなく、勝手に派閥をつくり、相手を裁き、パウロたちをも裁いていた。それは二人を遣わした神様の意に反することであり、裁きあうことは教会の一体性を破壊する罪です。ですから、「あなたがたが、私たちの例によって、『書かれていることを越えない』ことを学ぶため」、この書かれていることこそ、聖書の教えです。聖書に書かれた神様の声に耳を傾けることは、私たちにとっても大切であることは言うまでもないでしょう。
この6節の最後に「高慢にならないため」とありますが、パウロは違って切り口で彼らの高慢を戒めます。
2.間違った誇り
7節から読みます。
7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。

私たちが持っているものは全て神様からいただいたものです。いや、自分の手で稼いだものだ、と多くの人は考えます。でも、自分の力が発揮できたのは、神様がそのような力を与え、環境を整え、必要な助けを備えてくださったからです。コリントは豊かな町でした。もちろん、貧しい者も多くいましたが、派閥争いをする中心人物たちは身分も高い、豊かな人たちだったでしょう。経済的なことだけでなく、もうパウロの教えなどいらない、と高慢になり、何でも分かっている。知的な面でも高慢だった。それをパウロは「まるで王様みたいだ」と言います。当時のローマ帝国で自分が王だと宣言するのは反逆罪になりますから、本当に王だとは考えていないでしょうが、彼らの立ち振る舞いは、まるで王になったかのように自分勝手に振る舞い、他者を裁いていました。
イエス様は「心の貧しい者は幸い」と教えておられます。貧しいからこそ、自分には足らないところがあり、だから神様に祈り求め、神様は恵みを注いてくださる。それが幸いです。ところが王になって、神様に求めるべきことを忘れるなら、恵みが与えられない。いえ、与えられたものも感謝しない。祈って、神様との交わりを深めることも忘れてしまう。これでは「幸い」ではありません。
パウロは王のようになった彼らの姿に対し、自分を含め使徒たちの姿を切々と述べたのが9節以降です。
9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

ここには使徒たち、伝道者たちが、どれほど苦労したか、迫害され、侮辱されていたかが記されています。でも、12節後半から、「はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます」。迫害されても忍耐し、ののしられても祝福する。ここにキリストの姿が描かれています。10節の最初に「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です」。「キリストのために」と「キリストにあって」は、文法的には違う前置詞ですが、どちらもキリストが重要です。パウロはキリストのために生きていました。コリントの人たちもキリストが救ってくださったから、キリストにつながっているなら、本当の意味で「賢い者」となるのです。クリスチャンはキリストに属する者、キリストの僕として、キリストの姿を映し出す生き方が目標なのです。
3.愛する我が子
14節から。
14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

二番目にお話しした、「あなたたちは王のようだ」というところは、まるで皮肉のようにも読めます。でもパウロは彼らを諭したくて厳しく語った。それは、彼らがパウロにとって「私のこども」だったからです。「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」。男性が生むというのは、もちろん、喩えとして語っているのですが、旧約聖書の系図では「アブラハムはイサクを生んだ」と、父が子を生むという言い回しがあります。パウロは教会の創立者であり、コリントのクリスチャンたちの父です。その子供たちが間違った道を進もうとしているのを知って、彼らを正しい道へと導きたくて手紙を書いた。その父の愛による勧めが16節。
16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

「私に倣う者となりなさい」なんて、私たちはなかなか言えません。私みたいにはなるな、というのは楽です。でも、パウロは自分が完璧だから見習え、と言っているのではない。パウロがキリストに倣って生きることを目指していた、その目指して生きていることを見倣って欲しいのです。失敗があっても挫折があっても、なおキリストを目指し、キリストに倣うことを聖書から教えられて生きるのです。パウロは自分の弟子であるテモテを遣わします。テモテもパウロに倣って「キリストに倣う」生き方を目指している。だからテモテを見ればパウロの生き方を思い出すことができる。いえ、今はテモテを遣わすのですが、やがてパウロ自身がコリント教会を再訪します。そのときに、まだ彼らが罪を犯し続けるなら、パウロは父として厳しく裁かなければならない。しかし、同時にパウロは彼らを父の愛をもって愛しています。21節。
21 あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。
パウロの願いは、彼らが分派分裂だけでなく、様々な罪を悔い改めてくれることです。彼らを鞭で罰するのではなく、優しい心で再会したい。それはキリストの心、父なる神の心も同じです。神様は私たちが御言葉によって悔い改め、御心にかなう者、キリストに倣う者となることを願っておられるのです。
まとめ.
パウロがコリント教会に手紙を書いたのは、神様がそれを書かせて、コリント教会だけでなく、すべての教会に読ませるため、すべてのクリスチャンがパウロに、いいえ、キリストに倣う者となるためです。一人一人がキリストに倣うとき、教会はキリストのからだとしてあるべき姿となっていくのです。「キリストの体を建て上げる」とは、間違った建て方ではいけません。かしらであるキリストに倣った教会となりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教