先ほど司会者にはコリント人への手紙第一の3章5節からを読んでいただきましたが、今日は3章全体からお話ししようと思っています。3章という区切り方をしましたが、2章と結びついている箇所でもあります。いいえ、実は1章からずっとつながっているテーマがあります。1章の後半でパウロは、コリント教会にある問題として、分派分裂という混乱があったことを指摘しました。その原因は彼らの罪であり、特に高慢の罪があります。その高慢、彼らが誇っていたのが、知恵でした。パウロは、この世の知恵ではなく、自分はキリストのことばを語ると宣言します。でも、この十字架こそが神様の知恵です。それはこの世の人には隠されていた知恵であり、それをパウロは奥義と呼びます。それが前回お話ししたことでした。この奥義を示してくださる神様の御心を知るために聖霊が与えられたのも神様の大きな恵みです。
今日は、この神様の深い知恵として、教会ということをお話ししたいと思います。教会のことをパウロは様々なことに例えて教えます。今年の標語では、教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。人間の肉体になぞらえています。今日の箇所では建物に例えています。その建物、「神の建物の建設」とは、まさに「キリストのからだを建て上げる」ということです。いつものように、三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていだだきます。第一に「成長させる神」、第二に「火で焼かれる建物」、そして最後に「私たちは神殿」という順序で進めてまいります。
1.成長させる神
先ほども、手紙のこれまでのことを簡単に触れましたが、パウロは、コリント教会の派閥争いを戒めつつ、もし彼らが成熟した知恵を持っているなら奥義を知らせようと語ってきました。でも実際には彼らは成熟の反対、未熟な状態でした。どこが未熟かというと、それが彼らの分派という状態です。1節から。
1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
肉に属する人とは、まだ古い生き方をしている人のことです。ただの人とは、クリスチャンとなる前のことで、コリント教会の人々の生き方は以前と変わらない姿です。その証拠が争い、すなわち分派です。4節。
4 ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
この世の中の人たちが、自分の利益のために派閥を作って争い合う。それと同じ状況が教会の中に起きていた。でも、パウロは、彼らの問題を指摘はしますが、非難するのではなく、その問題を用いて、大切なことを教えている。それが5節からです。
5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7 それでたいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
「私が植えて、アポロが水を注いだ」。コリント教会を創立したのは私、パウロです。パウロが次の宣教地に向かったあと、若い伝道者アポロが来て水を注いだ。ここでは教会を植物に例えています。植える人も、水を注ぐ人も大切です。パウロは、自分はアポロよりも偉い、などとは思っていません。アポロも自分も神のしもべ、同労者です。遣わしてくださった神様が主です。植物も、いくら人間が植えて、水を注いでも、神様が見えない力で成長させている。イエス様も同じような例えを語られたことがあります。現代の私たちなら、太陽の光だとか、いろいろなことを教育されていますが、でも、神様の助けと恵みが無ければ実を結ばないことを忘れてはいけない。パウロは、派閥があっても、神様に目を向けさせ、アポロだ、パウロだ、ペテロだ、と争っていても、全員が神様の力も下にある。だから神様を見上げることで、コリント教会を一つにしようと導いているのです。9節。
9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
コリント教会は畑だから、働いているパウロやアポロの言うことを聞いていれば良いんだ、ということを言っているのではありません。神の畑に例えられた教会がどのように建て上げられていくのか、その背後にある真理を明らかにして、彼らにも理解して欲しい。違う例えですが、「キリストのからだ」と、肉体に例えるなら、今は分派という危険な健康状態です。自分が病気であることを自覚しなければ、治療を拒んでしまいます。最近のお医者さんは、詳しく説明してくださる。それは、治療を受ける人も良く理解して、一緒に治療するためです。パウロやアポロが神の協力者として教会を建て上げてきたように、コリント教会の人たちにも、畑の成長のメカニズムを理解して、パウロたちに協力するなら、もっと豊かに成長できる。それは、彼らも神の僕となり、成長させてくださる神様の御心を行うしもべとなることです。
教会は、牧師だけが建てるのではありません。それでは限界があります。牧師個人の力によって導ける教会の大きさが決まってしまうからです。でも、救われたお一人お一人、洗礼を受けてクリスチャンとなった方々が、一緒に協力してくださるなら、力が集められて、もっと大きな働きができ、教会はますます成長していくことができます。今年の標語、「キリストのからだを建て上げるために」とは、一人一人がキリストの体である教会のことを知り、共に力を合わせていくことです。でも、忘れてはいけないのは、人間の力だけで建てるのではありません。成長させ建て上げるのは神様の働きであり、それをただ受けるのではなく、神様のお働きに私たちは協力者となるのです。
2.火で焼かれる建物
二つ目のことをお話しします。9節の最後で「神の建物」と言って、自然に植物から建築物に例えをシフトしています。10節。
10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。
11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
パウロは土台を築いて、アポロがその上に家を建て始め、また次の人が上乗せしていく。でも土台の中心はキリストであり、それを変えたらキリスト教ではなくなってしまいます。異端ということについては、また別の機会のお話ししますが、パウロが伝えたキリストのことば、すなわちイエス・キリストご自身を土台として、私たちもキリストのからだである教会をさらに建て上げていくのです。12節。
12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
パウロは建設については素人かもしれません。家を建てるのに金や銀を使うのは、装飾ぐらいですが、宝石まで使うでしょうか。反対に草や藁で建てるのは、貧しい人でしょうか。もちろん、これは実際の建築のことではなく、各人の働きです。様々な働きがあります。誰もが貴い働きをしておられます。でも、それが神様から離れた働き、自分のための働きなら、いつか崩れてしまうかもしれません。
ここでパウロが「その日」と語っているのは、旧約聖書の預言者たちが語った世の終わりのことです。この世の最後にすべては火で焼かれると言われてきました。でも、最後の最後になるまで分からないのかと言いますと、実は、何度も火で焼かれることがあります。それは試練の日です。
混乱しないように聞いていただきたいのですが、実際の会堂建設についてです。ある人は、会堂建設は牧師の命取りだ、と語ります。確かに会堂建設のために心血を注いで寿命を縮めるかもしれませんが、もう一つは、会堂建設の時に教会が揺れ動くことがあります。それまでは調子よく教会に来ていた人が、会堂建設と聞くと、自分もたくさんの献金をしなければいけないのかと、教会を去っていくことが度々起こります。それまで建て上げてきた教会の一部が崩れてしまうことを「命取り」と言ったのかもしれません。確かに、それは教会にとって犠牲を伴う試練です。そして、その試練のときに信仰が試されます。離れてしまう人だけでは決してありません。むしろ、教会員が今まで以上に一致団結して、捧げものをして、新しい会堂が完成したとき、そこに大きな喜びがあるだけでなく、その試練を乗り越えたことで教会員全員の信仰も強くなり、成長する。そのとき神様も喜んでおられるのです。
会堂建設だけではありません。様々な試練が教会を襲い、一人一人にやってきます。でも成長させてくださる神様を信頼するなら、その試練を通して、焼かれてなくなるのではなく、むしろ大きな成長の機会となるのです。
3.私たちは神殿
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。16節。
16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
建物の中でも最も聖なるものが神殿です。あなたがたは神の神殿だとパウロは語ります。それは、聖霊がうちにおられるからです。
聖霊がうちにおられるとは、個人個人もそうですが、教会全体についてもそうです。ペンテコステの日に聖霊が教会に下りました。また私たちがキリストを信じるときに、教会におられる聖霊が私たちの中にも働いてくださり、イエス様を救い主と信じることができたのです。
私たちが神殿であるというのは、私たちが偉いからではなく、聖霊がいてくださるからです。聖霊抜きには教会もクリスチャンも、命を失ってしまい、価値が無くなります。聖霊がいてくださるというのは、聖霊が導いてくださることであり、御言葉を通して御心を示してくださる。その御心に従わないのなら聖霊の働きを拒むことになってしまいます。もし聖霊の導きに従い、御言葉を受け入れ、それに従うなら、教会を誕生させた聖霊が、この教会をさらに建て上げていってくださる、その働きに私たちも協力者としていただけるのです。
聖霊は、聖書の言葉を通して働かれ、私たちに十字架のことを分からせてくださり、救いに導いてくださった。さらに、教会を建て上げるために私たちを導いておられ、今も御言葉を語り掛け続けてくださるのです。その御言葉を信じ従うとき、神の建物、神の神殿はさらに建設されていくのです。また一人一人の信仰も建て上げられるのです。
まとめ.
3章の最後、22節から。
22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。
23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。
神様は私たちにすべてを与えてくださる。すごい恵みです。それは、私たちが神の国とその義を第一に求めるなら、それらすべてのものは添えて与えられる、とイエス様が教えられたとおりです。パウロを奉ろうと、アポロを尊敬しようと、それは自由です。でもすべてがあなたがたに与えられた、そのあなたがたはキリストのものとされている。私たちが救われたのは自己中心のためではなく、キリストに属するものとされ、キリストを頭とする教会の一員としていただいたのです。だから与えられたすべてのものを用いて主に仕えるとき、キリストのからだが建て上げられていくのです。
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