2022年03月27日

3月27日礼拝説教「神の建物の建設」1コリント3:5〜11

3月27日礼拝説教「神の建物の建設」1コリント3:5〜11
先ほど司会者にはコリント人への手紙第一の3章5節からを読んでいただきましたが、今日は3章全体からお話ししようと思っています。3章という区切り方をしましたが、2章と結びついている箇所でもあります。いいえ、実は1章からずっとつながっているテーマがあります。1章の後半でパウロは、コリント教会にある問題として、分派分裂という混乱があったことを指摘しました。その原因は彼らの罪であり、特に高慢の罪があります。その高慢、彼らが誇っていたのが、知恵でした。パウロは、この世の知恵ではなく、自分はキリストのことばを語ると宣言します。でも、この十字架こそが神様の知恵です。それはこの世の人には隠されていた知恵であり、それをパウロは奥義と呼びます。それが前回お話ししたことでした。この奥義を示してくださる神様の御心を知るために聖霊が与えられたのも神様の大きな恵みです。
今日は、この神様の深い知恵として、教会ということをお話ししたいと思います。教会のことをパウロは様々なことに例えて教えます。今年の標語では、教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。人間の肉体になぞらえています。今日の箇所では建物に例えています。その建物、「神の建物の建設」とは、まさに「キリストのからだを建て上げる」ということです。いつものように、三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていだだきます。第一に「成長させる神」、第二に「火で焼かれる建物」、そして最後に「私たちは神殿」という順序で進めてまいります。
1.成長させる神
先ほども、手紙のこれまでのことを簡単に触れましたが、パウロは、コリント教会の派閥争いを戒めつつ、もし彼らが成熟した知恵を持っているなら奥義を知らせようと語ってきました。でも実際には彼らは成熟の反対、未熟な状態でした。どこが未熟かというと、それが彼らの分派という状態です。1節から。
1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

肉に属する人とは、まだ古い生き方をしている人のことです。ただの人とは、クリスチャンとなる前のことで、コリント教会の人々の生き方は以前と変わらない姿です。その証拠が争い、すなわち分派です。4節。
4 ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
この世の中の人たちが、自分の利益のために派閥を作って争い合う。それと同じ状況が教会の中に起きていた。でも、パウロは、彼らの問題を指摘はしますが、非難するのではなく、その問題を用いて、大切なことを教えている。それが5節からです。
5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7 それでたいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

「私が植えて、アポロが水を注いだ」。コリント教会を創立したのは私、パウロです。パウロが次の宣教地に向かったあと、若い伝道者アポロが来て水を注いだ。ここでは教会を植物に例えています。植える人も、水を注ぐ人も大切です。パウロは、自分はアポロよりも偉い、などとは思っていません。アポロも自分も神のしもべ、同労者です。遣わしてくださった神様が主です。植物も、いくら人間が植えて、水を注いでも、神様が見えない力で成長させている。イエス様も同じような例えを語られたことがあります。現代の私たちなら、太陽の光だとか、いろいろなことを教育されていますが、でも、神様の助けと恵みが無ければ実を結ばないことを忘れてはいけない。パウロは、派閥があっても、神様に目を向けさせ、アポロだ、パウロだ、ペテロだ、と争っていても、全員が神様の力も下にある。だから神様を見上げることで、コリント教会を一つにしようと導いているのです。9節。
9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
コリント教会は畑だから、働いているパウロやアポロの言うことを聞いていれば良いんだ、ということを言っているのではありません。神の畑に例えられた教会がどのように建て上げられていくのか、その背後にある真理を明らかにして、彼らにも理解して欲しい。違う例えですが、「キリストのからだ」と、肉体に例えるなら、今は分派という危険な健康状態です。自分が病気であることを自覚しなければ、治療を拒んでしまいます。最近のお医者さんは、詳しく説明してくださる。それは、治療を受ける人も良く理解して、一緒に治療するためです。パウロやアポロが神の協力者として教会を建て上げてきたように、コリント教会の人たちにも、畑の成長のメカニズムを理解して、パウロたちに協力するなら、もっと豊かに成長できる。それは、彼らも神の僕となり、成長させてくださる神様の御心を行うしもべとなることです。
教会は、牧師だけが建てるのではありません。それでは限界があります。牧師個人の力によって導ける教会の大きさが決まってしまうからです。でも、救われたお一人お一人、洗礼を受けてクリスチャンとなった方々が、一緒に協力してくださるなら、力が集められて、もっと大きな働きができ、教会はますます成長していくことができます。今年の標語、「キリストのからだを建て上げるために」とは、一人一人がキリストの体である教会のことを知り、共に力を合わせていくことです。でも、忘れてはいけないのは、人間の力だけで建てるのではありません。成長させ建て上げるのは神様の働きであり、それをただ受けるのではなく、神様のお働きに私たちは協力者となるのです。
2.火で焼かれる建物
二つ目のことをお話しします。9節の最後で「神の建物」と言って、自然に植物から建築物に例えをシフトしています。10節。
10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。
11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

パウロは土台を築いて、アポロがその上に家を建て始め、また次の人が上乗せしていく。でも土台の中心はキリストであり、それを変えたらキリスト教ではなくなってしまいます。異端ということについては、また別の機会のお話ししますが、パウロが伝えたキリストのことば、すなわちイエス・キリストご自身を土台として、私たちもキリストのからだである教会をさらに建て上げていくのです。12節。
12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

パウロは建設については素人かもしれません。家を建てるのに金や銀を使うのは、装飾ぐらいですが、宝石まで使うでしょうか。反対に草や藁で建てるのは、貧しい人でしょうか。もちろん、これは実際の建築のことではなく、各人の働きです。様々な働きがあります。誰もが貴い働きをしておられます。でも、それが神様から離れた働き、自分のための働きなら、いつか崩れてしまうかもしれません。
ここでパウロが「その日」と語っているのは、旧約聖書の預言者たちが語った世の終わりのことです。この世の最後にすべては火で焼かれると言われてきました。でも、最後の最後になるまで分からないのかと言いますと、実は、何度も火で焼かれることがあります。それは試練の日です。
混乱しないように聞いていただきたいのですが、実際の会堂建設についてです。ある人は、会堂建設は牧師の命取りだ、と語ります。確かに会堂建設のために心血を注いで寿命を縮めるかもしれませんが、もう一つは、会堂建設の時に教会が揺れ動くことがあります。それまでは調子よく教会に来ていた人が、会堂建設と聞くと、自分もたくさんの献金をしなければいけないのかと、教会を去っていくことが度々起こります。それまで建て上げてきた教会の一部が崩れてしまうことを「命取り」と言ったのかもしれません。確かに、それは教会にとって犠牲を伴う試練です。そして、その試練のときに信仰が試されます。離れてしまう人だけでは決してありません。むしろ、教会員が今まで以上に一致団結して、捧げものをして、新しい会堂が完成したとき、そこに大きな喜びがあるだけでなく、その試練を乗り越えたことで教会員全員の信仰も強くなり、成長する。そのとき神様も喜んでおられるのです。
会堂建設だけではありません。様々な試練が教会を襲い、一人一人にやってきます。でも成長させてくださる神様を信頼するなら、その試練を通して、焼かれてなくなるのではなく、むしろ大きな成長の機会となるのです。
3.私たちは神殿
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。16節。
16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

建物の中でも最も聖なるものが神殿です。あなたがたは神の神殿だとパウロは語ります。それは、聖霊がうちにおられるからです。
聖霊がうちにおられるとは、個人個人もそうですが、教会全体についてもそうです。ペンテコステの日に聖霊が教会に下りました。また私たちがキリストを信じるときに、教会におられる聖霊が私たちの中にも働いてくださり、イエス様を救い主と信じることができたのです。
私たちが神殿であるというのは、私たちが偉いからではなく、聖霊がいてくださるからです。聖霊抜きには教会もクリスチャンも、命を失ってしまい、価値が無くなります。聖霊がいてくださるというのは、聖霊が導いてくださることであり、御言葉を通して御心を示してくださる。その御心に従わないのなら聖霊の働きを拒むことになってしまいます。もし聖霊の導きに従い、御言葉を受け入れ、それに従うなら、教会を誕生させた聖霊が、この教会をさらに建て上げていってくださる、その働きに私たちも協力者としていただけるのです。
聖霊は、聖書の言葉を通して働かれ、私たちに十字架のことを分からせてくださり、救いに導いてくださった。さらに、教会を建て上げるために私たちを導いておられ、今も御言葉を語り掛け続けてくださるのです。その御言葉を信じ従うとき、神の建物、神の神殿はさらに建設されていくのです。また一人一人の信仰も建て上げられるのです。
まとめ.
3章の最後、22節から。
22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。
23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

神様は私たちにすべてを与えてくださる。すごい恵みです。それは、私たちが神の国とその義を第一に求めるなら、それらすべてのものは添えて与えられる、とイエス様が教えられたとおりです。パウロを奉ろうと、アポロを尊敬しようと、それは自由です。でもすべてがあなたがたに与えられた、そのあなたがたはキリストのものとされている。私たちが救われたのは自己中心のためではなく、キリストに属するものとされ、キリストを頭とする教会の一員としていただいたのです。だから与えられたすべてのものを用いて主に仕えるとき、キリストのからだが建て上げられていくのです。
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2022年03月20日

3月20日礼拝説教「御心を知るために」1コリント2:6〜10

3月20日礼拝説教「御心を知るために」1コリント2:6〜10
このコリント人への手紙を書いたパウロという人は、もともとユダヤ教のパリサイ派に属する律法学者で、旧約聖書に精通していました。ですから彼の書いた手紙を読みますと、大変に難しい言葉を使って、複雑なことを語っていますので、読むのに苦労することが少なくありません。彼は、現代で言うなら高学歴で、知識に満ちた学者でした。でも、過去の経歴よりも、また学んできた知識よりも、もっと大切なことを彼は知った。それが、先週もお話ししました「キリストのことば」と、1章の18節の有名な御言葉です。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
また、2章の最初にも
1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

そして、前回の結論ですが、5節。
5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
知恵ではなくて信仰なんだ、だから知恵なんかいらない、と言っているのではありません。人間的な知恵には限界がある。でも、神様からの知恵、神様が私たちに知らせようとしていることを知ろうとしないなら、自分は何でも分かっているつもりで、実は神様の御心から離れてしまう。ですから、神様の御心を知る知恵が必要なのです。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「隠されていた知恵」、第二に「知らせてくださる聖霊」、そして第三に「キリストの心を知る」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.隠されていた知恵
6節からもう一度読みます。
6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

成人の間では知恵を語ると言っていますが、成人とは20歳以上ということではなくて、成熟したという意味です。コリント教会には、自分たちは知恵がある、成熟したクリスチャンだと思いあがっていて、お互いにどちらが偉いと争う。それが成熟できていない証拠なのですが。パウロは、成熟したあなた方なら難しい知恵も分るだろう、と彼らの聞く耳を引き付けています。この知恵は、この世の知恵ではなく、神様の知恵です。それは7節では「隠された奥義」と呼んでいます。奥義とは、この世の人には隠されていた神の深い知恵です。ですから人間には知ることができないのが奥義なのですが、それを持っておられる神様が知らせようと思う者に知らせることができる。それが、10節。
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。
この啓示とは、隠されていたこと、ベールに覆われていたことが、覆いを取り除かれて明らかにされることです。神様は私たちに奥義を知らせてくださる。それが啓示です。この啓示という言葉は、特に聖書学を学びますと、聖書とは神様が私たちに啓示してくださったことばで、この聖書の中に、神様が私たちに知らせようとしておられることが余すところなく記されているのです。
奥義とは何か、この聖書は奥義をどう教えているか。奥義ですから簡単に一言で語れるようなものではないと思いますが、パウロが奥義ということを他の手紙でも教えている箇所がいくつもあります。ローマ書では、異邦人が救われることが奥義だと語り、エペソ書は、いがみ合っていたユダヤ人と異邦人がキリストのからだである教会において一つとされることを奥義だと語っています。コロサイ書やテモテ書ではキリストが神の奥義そのものだとも語っている。他の書簡や、イエス様の教えでは奥義をどう語っているかも、重要です。こうして聖書全体から学んでいくと段々と奥義ということに目が開かれていくのが、大変に面白いと私は思います。
神様は決して意地悪で隠しておられるのではなく、私たちが自ら求めて聖書を読むなら、その時その時に、その人の信仰に応じて、教えてくださる。すると聖書がもっとわかるようになる。その喜びを残していてくださるのだと思います。隠されていた、でも今はキリストによって聖書を通して、一生かけて知ることが出来る。でも、それは神様から離れて独り歩きするような知識ではありません。聖書を知れば知るほど、もっと神様の御心に近づく。それが啓示ということです。では、どうしたら御心を知ることが出来るのでしょうか。
2.知らせてくださる聖霊
二つ目のポイントに移ります。もう一度10節。
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

御霊とか聖霊と紹介されている、三位一体の神の三番目のお方です。三位一体自身が奥義であって、簡単にはお話しできないくらい難しいのですが、神の奥義を啓示するのは御霊の働きだと10節は語っていて、さらに神の御心を知るのは聖霊だけだと11節は語っています。私たちは、この聖霊によって御心を知るのであり、この方以外の者は御心を知ることはできないのです。12節。
12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
パウロは、私たちは神の御霊を受けた、と語っています。これはペンテコステの日に聖霊が下られて教会が誕生し、今もキリストを信じる者には聖霊が心に宿ってくださるのです。どうして、それほどまでに聖霊が大切で、またなぜ、神様は私たちに聖霊を与えてくださったのか。その答えがここに述べられているのです。聖霊は私たちが神の御心を知るために来てくださった助け主です。13節。
13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
「御霊に教えられたことば」、すなわち「御霊のことば」とは、具体的には聖書の御言葉です。聖書は聖霊によって書かれました。実際に書いたのはパウロなどの人間ですが、彼らを導いて書かせたのが聖霊です。ですから奥義も神の知恵も聖霊ご自身に関しても、私たちは聖書を通して知るのです。反対に聖書を分からせてくださるのも聖霊の働きです。神様が聖霊を私たちに遣わしてくださったのは、聖書を通して神様の御心を知り、神様が奥義として送ってくださったキリストを信じるためです。どうして教会では毎週、礼拝で聖書を紐解き、またクリスチャンは毎日聖書を読むように勧められているのか。それは聖書を通して聖霊の助けをいただいて、御心を知るためなのです。
3.キリストの心を知る
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。14節から。
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

生まれながらの人間は、自分の知恵で何でも分かると思っていて、なかなか聖書のこと、キリストのことが理解できないことがあります。まして御霊のこと、聖霊ご自身のことは人間の理解を超えています。逆に、人間は自分の知恵で理解できないことを拒む傾向があります。学校の勉強はそうですね。数学は難しい、理解できない、だから嫌いだという生徒が多かった。私が教師の時のことです。勉強のことは置いておいて。聖書のことも、最初は理解できない。だから、こんなことは信じられない、と受け入れようとしないことがあります。聖霊の助けによらなければわからない。
15節に「わきまえる」という言葉が出てきます。14節の後半も含めて、三回も「わきまえる」という動詞が使われています。正しく判断する、という意味です。聖霊の助けが無ければ聖霊のことを正しく判断して理解することはできない。そして、御霊を受けている人は全てのことをわきまえ、つまり正しく判断するが、他の人たちは彼のことを正しく判断できずに、愚かだと思うかもしれない。そうですね。復活とか処女降誕とか奇跡を信じているなんて言ったら、馬鹿にする人もいるでしょう。ただ、ここで気を付けて欲しいのは、自分は聖霊を受けているから何でも正しく判断できると考えると、間違いを犯しやすい。また、自分は正しく判断できるが、他の人は自分のことを正しく分かっていない、と考えると高慢に陥りやすい。私が御霊を受けた人かどうか以上に、私ではなく御霊が大切です。
細かい話ですが、聖霊がどのように働かれるか、10節では「御霊はすべてのことを探り」とあり、14節では「御霊のことばをもって御霊のことを解く」、つまり御霊が理解させてくださり、14節、「御霊によってわきまえる」、正しく判断する。これらの動詞は、ずっとやり続けるという表現、現在進行形のような言い方です。御霊が与えられたというときは、もうすでに与えられた、という完了形であるのと違う。どういうことかと言いますと、私たちは聖霊によって教えていただくのは、一回だけ教えられたら、あとは自分の力で何でも判断できているのではない。これまでも、またこれからも、何度も、ずっと、教えられ続けるのです。いいえ、聖霊によって教えていただき続けることからちょっとでも離れたら、もう私たちは自分の判断で間違った考えに陥るのです。でも、間違えたときに、聖霊が語り掛けてくださる。御言葉と祈りの中で聖霊が教えてくださって、それは違うよ、と示してくださったときに、すぐに素直に、その御声に従う。それが御霊によってわきまえる、ということなのです。
神様の御心を知って、御心に適う正しい生き方をするためには、いつも御霊に教えられ、御霊に従う従順な心が大切です。少しでも、自分はもう理解できていると高ぶったとたんに、御心から離れてしまうからです。自分を正しいとせず、自分の知恵に頼らず、何度でも聖霊によって御言葉を教えられ、軌道修正をしていただく。これが知恵なのです。
では、聖霊は御言葉を通して何を私たちに示されるのか、何が御心なのか。それが16節の最後。
ところが私たちには、キリストの心があるのです。
あるでしょうか。私たちは心からキリストの思いに従っているでしょうか。「私たちにはキリストの心がある」とは、聖霊のことです。聖霊は「キリストの霊」と呼ばれることもある。聖霊によって聖書に書かれているキリスト・イエスのことを知るとき、特に何がわかるか。それが「十字架のことば」です。すでにイエス様を信じ受け入れたときに、十字架のことばが分かるようになった。キリストは私を罪から救うために十字架についてくださった。そう、私たちは信じて洗礼を受けた。でも、もうそれで十字架のことが全て分かったのかというと、さらにこれからも聖書を通して知り続け、もっと深く十字架を知る。そのたびに、十字架の恵みに感謝して、喜んでキリストに従う者となっていき、キリストのものとして相応しい聖なる者とされていく。ここに神様の御心、また、はるか昔からの神様の計画、つまり奥義があるのです。
まとめ.
今日は「御心を知るために」と説教題をつけました。御心を知るのは、もっと勉強したら良いか。それも素晴らしいことですが、祈りと聖書を通して働かれる聖霊の導きをいただいて、謙ってその御心に従うために御心を知るのです。知ったと言いながら、従わないなら、それは人間の知恵で理解した、わかったと思っているにすぎない。喜んで御心に従うまでに、もっとキリストの十字架を分からせていただきましょう。
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2022年03月13日

3月13日礼拝「知恵よりも賢いもの」第一コリント1:18〜25(〜2:5)

3月13日礼拝「知恵よりも賢いもの」第一コリント1:18〜25(〜2:5)
パウロの書いた手紙は、前半で教理、つまりキリスト教の大切な教えについて書かれていて、後半でその教会にあった問題に関しての指導、言い換えれば倫理的な教え、となっていると言われます。ところがコリント人への手紙は、最初からコリント教会の諸問題について書かれています。しかしよく読みますと、パウロはただ単に彼らの問題を指摘して裁いているのではなくて、コリント教会の問題点を通して、間違った姿を示して、では正しい姿はどうなのか、ということを語って、実は救いの本質について教えている。先週、お話ししましたのは、コリント教会で分派があり、互いに争っていた。その原因の一つが彼らの高慢であり、特に知恵を誇る文化があります。古代ギリシャには哲学などの学問が発達していて、アテネが有名ですがコリントもそれに対抗するように、知恵を重視し、自分の知恵を誇るような傾向が教会の中にもあったのです。そこで今日の部分では、救いをもたらす本当の知恵とは何か、ということを語っているのです。
いつものように三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「神の愚かさによる救い」ということ。第二に「教会における神の知恵」、そして第三に「神の知恵を体験する」という順番で御言葉を取り次がせていただきます。
1.神の愚かさによる救い(18〜25節)
とても有名であり、重要な御言葉ですので、1章の18節を読ませていただきます。
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです。
この十字架のことばとは何か、ということは先週も少し触れましたが、「ことば」という単語には大切な意味があります。パウロはユダヤ人としてヘブル語で律法を学んだ人ですが、ギリシャ語での教育も受けていて、いわばバイリンガルでした。ヘブル語では「ことば」を意味するダーバールという単語には、「ことば」という意味と「出来事」という意味があります。神様が「光あれ」と言葉を発したとき、その通り、光が存在するようになった、と創世記の最初に書かれていますが、神のことばは出来事となり、事実となる。ですから十字架のことばとは、十字架の出来事、つまりイエス様が十字架で死なれたこと、三日目に蘇られたこと、それらの出来事全体をさしています。ギリシャ語では「ロゴス」という名詞を「ことば」と訳します。ヨハネの福音書の冒頭に「初めにことばがあった」とありますが、これは初めにロゴスがあった。この場合のロゴスは、単なる言語としての「ことば」ではなくて、物事の本質というか原理というような意味で使っています。ですから十字架の「ことば」とは、十字架の出来事の本質、その意味を指している。
いきなり難しい話から入ってしまいましたが、どうしてイエス・キリストが十字架についたのでしょう。十字架とはローマ帝国での死刑の方法です。どうして十字架につけられたイエスが救い主なのか、復活なんてありえない、と考えて、救いが分からない人が多かった。でもパウロは、人間の知恵や議論では神様を知ることができないのであって、信仰によらなければ救われない、と教えるのです。22節。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

ユダヤ人はイエス様に対して「しるし」、すなわち奇跡を要求しました。それは救い主なら奇跡を行ってローマ帝国からイスラエルを独立させて欲しかったからです。ですからイエス様が十字架につけられたら、もう救い主とは信じられない。躓いてしまったのです。ギリシヤ人は知恵を求めます。救い主が十字架につけられるなんて、愚かなことです。でもパウロは、この愚かとでもいうべき十字架こそが神の知恵だと語るのです。
私が中学生のころ、既にイエス様を救い主として信じ、洗礼も受けていたのですが、神の存在について考えていたころがあります。いえ、神様を素朴に信じていましたが、見えない神様ですから、本当におられるのか、どうしたら目に見えない神様の存在を証明できるだろうか。そんなことを考えていたころに、21節の言葉に出会った。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
これを読んだとき、人間は自分の知恵では神様を知ることができないし、それが神様の定めたことなのだ、と考え、納得してしまった。ですからそれ以上、神の存在について悩まなくなってしまったのですが、もう少し知恵があったら、存在とはどういうことか、と考えて哲学者を目指していたかもしれません。
確かに見えない神の存在も理解が難しい。十字架が救いの道であるなんて、最初は理解しがたい。でも、いつしか十字架は私の罪を赦すためだったということを信じ、救われるのです。宣教のことばの愚かさ、十字架、十字架と語る宣教のことばの前に、むしろ自分の罪を悔いて謙るとき、救われるのです。
こうして、この世に送られた救い主である御子を十字架につけさせるという神様の計画は愚かなように見えて、イエス様が十字架で死なれた時、弟子たちももう駄目だと諦めて逃げ出してしまった。でも、この十字架こそが人間の罪を贖うことができる、神様の知恵だったと聖書は教えているのです。
2.教会における神の知恵(26〜31節)
では、どうして十字架が神の知恵なのか、二つ目のポイントに入ります。26節でパウロは
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありませんでした。
ここで「召し」とはクリスチャンとなるために召されたということで、コリント教会の人々がどのように救われたのか。パウロのコリント宣教のことが『使徒の働き』18章に書かれていますので、後でお読みください。パウロは一年半という彼の伝道旅行の中では比較的長い期間、コリントで伝道し、「この町には、わたしの民がたくさんいる」と神様がおっしゃった通りに多くの人が救われた。それがコリント教会の始まりでした。でも多くの人が救われたということは、その中には身分の低い者も多くいました。当時のローマ世界では奴隷の数が多く、身分の高い貴族などはごく一部の、ピラミッド型の社会でした。ですから町の多くは平民や奴隷階級で、教会でも身分の高い人は少なかった。そして奴隷は教育を受けることなどできませんから、知恵のある人も多くはなかった。それをパウロは、知恵がない、身分が低い、力がない人を神様が選んだのだと語るのです。29節。
29 これは、神の御前ではだれをも誇らせないためです。
もし知恵があるから救われるなら、自分の知恵を誇るでしょう。でも自分を誇るという高慢は罪です。ですから神様は無に等しい者をあえて選ばれたともパウロは語っています。神様に選ばれたモーセは失格者でした。ダビデは数にも入れられない味噌っかすでした。でも神様の恵みによって選ばれた。だから「誇る者は主を誇れ」と31節でも引用されているように、誇るべきは自分ではなく、神様なのです。
救われた者は、ではどんな存在なのか。30節。
30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
「キリストのうち」とは教会のことです。私たちはキリストのからだである教会の中で救われるのです。ここで教会と言っているのは、建物に限られない。私もイエス様を信じる祈りをささげたのは屋外です。でも、教会の人たちが祈っていてくださり、また教会学校の先生が祈りを導いてくれた。すべては教会の働きの中にあったのです。教会抜きに、自分の力だけで救われるのではないのです。キリストの中にいる私たちにとって、ではキリストはどんなお方か。「キリストは、私たちにとって、神の知恵」だと語っています。また義となり聖となり、贖いとなられた。それだけではなく、私たちにとってすべてとなってくださった。違う表現を用いるなら、キリストこそ教会のかしらです。もっとも大切な存在です。ですから私たちは誇るなら主を誇る。私の知恵なんかではない。神様の知恵であるキリストによって救われたんだ。こうしてイエス様を誇りとするとき、自分を誇る高慢の罪から解放され、お互いに自分を誇っていがみ合うという分裂から守られるのです。十字架のことばによって人間を救うという神様の計画は実に見事です。ここに神の知恵があらわされているのです。
3.神の知恵を体験する(2章1〜5節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。2章の1節。
1 さて兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。

ここでパウロはかつてのコリント伝道の時を思い起こしています。その時の彼は失意の底にいました。コリントに来る前、パウロはアテネで伝道していました。アテネと言ったら哲学や学問の中心地です。パウロも学問には自信があった。群衆を前に難しいことを語って、人々の耳を引き付けた。でも肝心のキリストのことを話し始めたとたん、知恵を求めるアテネの人々はパウロから離れていってしまった。パウロは自分の知恵に頼り、自分の教養でできると思っていたのが、失敗した。ですから失意のまま、コリントに来たのです。弱くなっていた彼は、アテネのように知恵を重んじるコリントの町でしたが、もう人間の知恵を用いるのではなく、ただキリストのことを証ししようと決めたのでした。ところが学問や教養ではなく、ただキリストのことを語ってときに、コリントで多くの人がキリストを信じて救われたのです。どうして、そんなことが起きたのか。4節。
4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
人間の知恵や力に頼って行き詰まったパウロは神様に信頼し、神様の言葉に従った。そのとき聖霊が豊かに働いてくださったのです。
知恵や知識を求めることが悪いのではありません。でも人間の知恵には限界があります。とことん知恵を求めて学んで壁にぶつかっても良いし、そうなる前に自分の力の足らなさを知って、そして神様に信頼するとき、神様の不思議な知恵が発揮され、人間の常識では無理だと思っていたことが可能となる、いいえ、誰よりも頑固で自己中心で罪深い自分のような者でさえ、神様は十字架によって救ってくださる。この神の知恵の素晴らしさを、パウロもコリント伝道で実感したように、私たちも自分の人生の中で、自分の知恵や力ではなく、神様の知恵と力によって救っていただくという、体験をするのです。自分の小さな知恵で、こうやったらこうなるんじゃないか、などと「捕らぬ狸の皮算用」をして失敗していたのが、神様に信頼して、御言葉に従っていくとき、自分では想像もしていなかった神様の最善の働きを、私も経験させていただけるのです。その時、私たちは心から神様の知恵をほめたたえるのです。
まとめ.
「知恵よりも賢いもの」と説教題をつけました。1章25節で
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
神様が愚かであるはずがありません。でも人間は高慢ですから、まるで自分は神様よりも賢いかのように考えてしまい、神様を愚かに考えてしまう。なんで、こんなことが起きるのかわからないとき、自分の知恵では計り知れないほどの神の知恵、人間の常識では愚かに感じるとしても、実はどんな人間の知恵よりもはるかに賢い。この神様を私たちは信頼しているのです。
posted by ちよざき at 13:00| Comment(0) | 説教