2022年02月27日

2月27日礼拝説教「聖徒の教会へ」第一コリント1章1〜3節(教会総会)

2月27日礼拝説教「聖徒の教会へ」第一コリント1章1〜3節(教会総会)
今日は第二礼拝に続けて教会総会が行われます関係で、礼拝の時間が変更になっています。今年の教会の標語はエペソ書4章12節から「キリストのからだを建て上げるために」で、教会ということをテーマとしています。教会とは何なのか、そしてキリストのからだである教会をどのように建て上げていくか。まだコロナ禍にあって、今月に入ってコロナの影響が及んでいますが、コロナ後に備える意味も込めて、今日は教会について、エペソ書と並んでキリストのからだなる教会に関して大切なことが教えられている、コリント書を開きました。昨年来、詩篇から学んできましたが、ひとまず旧約を閉じて新約に入ってまいります。今日は、コリント人への手紙第一の最初の部分に目を向けたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「私たちは召されている」ということ。第二に「私たちは聖とされている」。そして第三に「私たちは恵みと平安を祈る」という順序で進めてまいります。
1.私たちは召されている
先ほど司会者に読んでいただきましたが、もう一度、1節を読みます。
1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
2 コリントにある神の教会へ。

ここは手紙の差出人と受取人を述べている、挨拶部分です。紀元1世紀の教会では、パウロなどの使徒や教師たちが各地を回り、また手紙を書いて教えていました。ですから単なる手紙ではなく、ただの挨拶ではなく、この言葉の中にも大切なことが含まれています。それは、教会とは召されたものだ、ということです。まず手紙の著者であるパウロは、自己紹介として「使徒パウロ」と語っています。この件については手紙を読み進めていったときに触れたいと思います。パウロは自分が使徒になったのは、自分がなりたいからではなく、神様が召したからだと語っています。それは使徒だけでない。1節の最後には「兄弟ソステネ」。この人についてはあまり分かっていませんが、コリントの町出身で、パウロと一緒に宣教の旅をしていたようです。ソステネに関しては使徒のような特別な称号は無い。いいえ、彼には「兄弟」という、これはクリスチャン同士がお互いを兄弟姉妹と呼ぶのですが、その理由は、イエス様が天の神様、イエス様の父である神様を、あなたたちも父なる神と呼んでよい。ですから神様の家族としていただいた。その表れが「兄弟」という称号なのです。パウロが使徒として召されたように、ソステネも兄弟として召された。いや、一人一人が神様に召されて、今ここにいるだけでなく、教会全体が召された存在です。ギリシャ語では、「召された」という動詞と、教会を意味するエクレシアという名詞は同じ言葉から派生した言葉です。呼び出されたもの、それが教会です。ですから、教会というのはただ人間が集まった、ということではないのです。
教会総会では最初に人数確認をする決まりで、総会を成り立たせるために必要なことです。でも、単に人数と言う数字があれば良いのではありません。本当は一人一人が神様に召され、呼び出された。そして人間が集まっただけでなく、教会がまず神様に召された存在です。この、召された、すなわち、神様に呼ばれた教会は何をするのか。2節。
2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々と共に、
まだ続きますが、ここに「キリストの御名を至る所で呼び求めている」と書かれている。教会は神様に召され、呼ばれた。だから私たちも他の人々と共に主の御名を呼び求めるのです。御名とはそのお方の本質です。ただイエス様と名前を呼ぶだけ、「主よ、主よ」というだけなのではなく、イエス様ご自身を求める。私たちは他の何かが欲しいのではなく、何よりも価値のある、キリストご自身を追い求めるのです。それが召された教会が目指すところです。世の中で価値あると言われるものを欲するだけなら、それは御利益信仰です。他の何かを得ても、キリストを失ったらクリスチャンは神様の前に無価値な存在です。キリストを追い求め、キリストの教えを学び、キリストの生き方を身に着け、キリストのものとされていく。そこに教会の、また私たちの目標があるのです。
2.私たちは聖とされている
二つ目のポイント。2節をもう一度読みます。
2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。
神様は、私たちを召された。でも召しただけで終わるのではなく、召されたものをさらに聖なる者となされるのです。聖なる、とは、清く正しくということも含めますが、もっと本質的には神のものとされる。自分勝手な生き方ではなく、神のために生きる、神様のものとされている。いつからでしょうか。それはイエス様が十字架で血潮を流してくださったのは私たちを罪から救うためですが、これを贖いと言います。贖いとは買い取ることでもあります。私たちは十字架によって救っていただいたときに、御子という代価によって買い取られて神様のものとされた。ですから救われた時から、実は聖なる者とされた。ただ、例えば、今は受験シーズンですが、試験に合格したらその学校に受け入れられますが、入学式という式をします。これは救われた人が洗礼式を受けるのに似ています。では入学式が終わったら、その学校の生徒として相応しい姿になるか。制服は着たけれども、まだ何も分かっていない。その学校で何年か学び、いろいろな経験を通して成長してようやく、その学校の生徒に相応しくなる。私たちは救われたときから聖徒にしていただいたのですが、まだ相応しいとはいえない。ですからキリストを追い求めて、日々聖さを身に着けていくのです。そして、自分が聖なる者となるだけでは、また自分だけ、自分中心です。聖なる者となって、救ってくださったキリストを証しする生き方となっていく。それが聖徒の目的です。
そんなことできるだろうか、と心配するかもしれません。この2節でも、パウロはコリント教会の人たちだけが頑張って聖徒になろうとするだけでなく、至る所、すなわち全世界の教会も一緒に呼び求めている。この池の上教会でも、一人の力ではなく、お互いに力を合わせる。そのとき、自分だけ、という生き方から解放され、お互いに仕える僕、イエス様のような姿になっていくのです。誰が共にいてくださるか。誰よりもイエス様ご自身が共にいてくださいます。そして主にある兄弟姉妹が一緒に歩んでくれる。
使徒信条の中で「聖徒の交わり」という言葉が出てきます。聖徒の交わりとは、キリストを中心として私たちが結びつき、キリストのからだの一員として力を合わせる。そのような交わりであって、楽しく一緒に過ごすことは、聖徒の交わりの結果です。お互いが聖なる者、神様のものとされるように力を合わせて教会を前進させていきましょう。
3.私たちは恵みと平安を祈る
三つ目のことをお話しして終わります。3節。
3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
ここも、挨拶の言葉です。当時のクリスチャンたちはお互いに挨拶をするときに、相手の上に神様からの恵みと平安があるように祈ったようです。それがただの挨拶で形だけの言葉となってしまったら残念です。なぜなら、神様は私たちに恵みを注ぎ、コロナ禍にあっても、どんな状況に陥っても、変わることのない平安を与えてくださる。平安は、旧約聖書では平和、シャロームのことです。ですから神様からの恵みと平安を願うことは大切なことであり、それが、ここでパウロがコリント教会の人たちのために祈っているように、教会全体の祈りなのです。
今、木曜夜の祈祷会はzoomを使ってインターネットを利用して行っています。遠く離れていても、また体調が悪い時も、画面越しに顔を合わせ、そして聖霊によって心を合わせて祈ることができます。そこで教会全体、特に弱さの中にいる方々のために祈ります。神様からの恵みと平安があるように祈るのです。祈祷会には参加できない方も、ぜひ、時間と場所は違っても、同じ祈りに加わっていただきたいと願います。
クリスチャンの祈りの大きな特徴は、自分のことを祈る以上に、他の人のため、特に兄弟姉妹のため、教会のために祈ることです。今も困難の中におられる聖徒たちのために、祈ってまいりましょう。
まとめ.
教会総会では昨年を振り返り、新しい一年を考えて、教会の歩みを確かなものとしていきます。でも、そこに祈りがなければ、人間の考えが優先し、御心から離れてしまいます。祈りによって神様を信頼して歩むときに、神様が私たちをご自分のものとしてくださり、正しい道へと導いてくださるのです。今年は、特に、キリストのからだである教会が、キリストのからだとしてあqるべき姿となれるように、祈ってまいりたいと願っています。
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2022年02月20日

2月20日礼拝説教「義なる王」詩篇72篇1〜7節(72篇)

2月20日礼拝説教「義なる王」詩篇72篇1〜7節(72篇)
礼拝では詩篇を続けて開いてきましたが、今日開かれています72篇は第二巻の最後となっています。詩篇の中には全部で150の詩が書かれていますが、五つのグループに分かれていて、第一巻、第二巻、そして最後は第五巻となっています。150を全部一気にお話ししようとしますと、3年以上、毎週詩篇からのメッセージとなってしまいますので、区切りの良い、この72篇でいったん止めておきまして、来週からは新約聖書、そして今年の終わりころから、また旧約聖書に戻ってくる予定です。72篇は第二巻の最後の詩篇として、ここまでの結論のような内容ということができます。それは何か。一言で言いますと、「義なる王」というテーマです。
いつものように三つのポイントで。第一に「ダビデからソロモンへ」、第二に「義なる王による祝福」、そして第三に「来るべき義なる王」ということをお話ししてまいりたいと思います。
1.ダビデからソロモンへ
もう一度、一節を見たいと思います。
1 神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。
旧約聖書の詩には日本や欧米の詩とは違う、平行法と呼ばれるスタイルがあって、一つの節の前半と後半でペアになっている場合があります。この1節も、公正は王に授けられ、義は王の子に授けられる、という二つが別々なのではなくて、公正と義は二つでワンセットです。公正と義を、王にも王の子にも授けてください、というふうに理解するのが良いと思います。いきなり、専門的な話から始まってしまいましたが、この節は神様に祈って求めています。王様が、また王様の子であり、次の王となる人が、どちらも神様からの正義が授けられて、義なる王となるように、との祈りです。公正という言葉は公正とか裁きと訳されますが、正義と同じような意味で、義の類義語です。でも、ここで求めているのは、単なる正義ではありません。神様の義です。人間は誰でも自分は正しいと考えたい存在です。でも、気を付けないと自分だけの独りよがりな正しさで、他の人から見たら正しいとは言えない、自分勝手な場合もあります。王様が自分勝手で、しかも自分は正しいと勘違いをしていると、国の人たちは大変です。ですから人間の正しさではなく、神様の正義です。本当に正しいお方は神様だけです。その神様に従うとき、正しい生き方ができるようになるのです。
さて、この神の義を授けて欲しいと祈られている王様とその息子とは誰なのか。普段はあまり読みませんが、表題と呼ばれている、詩の本文の前には、「ソロモンによる」と書かれていて、この詩篇はソロモンの作品だとも考えられています。ソロモンはダビデ王の息子でした。ですから、王と王の子とは、ダビデとソロモンのことなのかもしれません。他にも様々な解釈があると思いますが、ダビデは最も優れた王様でした。失敗もありましたが、神様から言われたらすぐに悔い改めて、また神様に従うようになる。その意味で神様の正義に従った王様でした。その子、ソロモンは、最初は正しい生き方をしましたが、晩年は残念ながら偶像礼拝に走り、正しさから脱線してしまいました。ですからソロモンがもう一度正しい王様になるようにと、ソロモンの家来が祈ったのかもしれません。ソロモンが正しくなったら、それで良いのか。いいえ、ソロモンに続く、次の王、つまり王の子もそうなって欲しい。誰か特定の王様が神様の正しさに生きることを願うだけですと、やがて正しくない王が誕生する。ですから、王と王の子に、と毎回祈ることで、ずっと正しい王様が続くように願っている祈りなのです。
さて、王と王の子は誰かという謎と共に、この詩にはもう一つの謎がありまして、それは一番最後の節、20節。
20 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。
ソロモンの作った詩、つまりソロモンの祈りかなと思って読んでいたら、最後は、ダビデの祈りは終わった、とダビデが作った祈りだったのか、と不思議に感じるわけです。実は、最初に言いましたように、この72篇は第二巻の最後で、池の上教会で使っている新改訳聖書で見ると、次の73篇の前には第三巻と書かれています。それぞれの巻の最後には、神様を褒めたたえる言葉があって、18節を見ますと、
18 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。
19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

この、神様を誉め称えて「アーメン」で終わるのが各巻の終わりにあって、この第二巻は、さらに「ダビデの子の祈りは終わった」と付け加えているようです。
これは、どんなことなのか。はっきりとは分かりませんが、おそらくこんなことだった。詩篇は150の詩がいっぺんに集められたのではなくて、段々とまとまっていったのだと私は考えていますが、最初はダビデ王です。歴代誌の中でダビデは神殿建設の準備として、神殿聖歌隊を組織します。その時に、賛美歌集も作って働きの準備をさせた。その時に集められたが、第一巻でほとんどがダビデの作った詩篇と考えられています。その後、ソロモンの時代に立派な神殿が完成して、聖歌隊が本格的に活動を開始すると、もっとたくさんの賛美歌が必要で、第二巻が作られた。そこにはダビデが作った賛美で、第一巻の時は選に落ちたものも集められ、さらに聖歌隊の一員だったコラ族の人が作った賛美歌も含まれています。今日は聖書学院の授業で教えるようなことを話していますが、実際に詩篇には歴史があるのです。そしてソロモン時代以降も、王が新しくなるたびに、この王様が義の王となって欲しい、と祈ったことでしょう。
何代、王が交代しても、大切なことは、王の子が正義を引き継ぐこと、いいえ、神様からの義を授けられることです。やがてダビデ王朝も滅んで時代は変わっていきますが、今も大切なのは、そして祈り求めるのは、神様からの義を授けられ、それを次の世代に受け継ぐことです。神の愛も大切なことですが、正義の無い愛は歪んだ愛となります。神様の義には、正義だけでなく救いも含まれ、神の愛が背後にあります。ですから、私たちはまず神の義を求めるのです。
2.義なる王による祝福
二つ目のポイントに移ります。この神の義による王によって何が起きるのか。3節。
3 山々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。
4 彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。

山々、丘々、とはイスラエルの国土全体です。正義によって国中に、そして国民に平和をもたらします。この平和とは静かで何もない状態ではありません。元気いっぱいで、ですからトラブルも発生するかもしれない。でも、その時に王様の正義が国を正しく治めて、悩む者、貧しい者が救われるのです。また6節。
6 彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。
豊かに雨が降るのは、乾燥しがちなイスラエルでは豊作をもたらします。さらに続けて読んでいきますと、10節。
10 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。
11 こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。

周囲の敵国もこの王様によって平定されて、貢を治めるようになる。シェバというとアラビアのほうの国だと考えられていて、ソロモンのところにシェバの女王が訪ねてきたことは有名です。セバはエチオピアのこと。世界中の王たちがこの正義の王に従うなら、外国との戦争も無くなります。これ以上は触れませんが、ここには正義の王に治められる国がどれほど祝福なのかを描いています。
もちろん、正義の王がいたら何も問題が無くなるのではありません。正しく生きていても苦難はやってきます。でも、神様に従い、神の義を願い求めて生きていくなら、苦難の時には神様に祈ることができます。後ろめたいことをしていると、祈るのもためらってしまうかもしれません。神の義に生きるとき、どんな困難でも祈ることができて平安です。神様との関係が正しくされるなら、他のことは、必要なら神様がちゃんと与えてくださる。ですから、「神の国と神の義を第一に求めよ。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」とイエス様が教えてくださった通りなのです。私たちも自分自身が神の義を求め、神様からの義を授けていただきましょう。
3.来るべき義なる王
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。この詩篇は王様に神の義が授けられることを祈る祈りですが、最初に触れましたように、王だけでなく王の子も、代々の王たちが神の義に生きる王となることを祈り求めています。最後の方の、17節。
17 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。
王様が長生きしますように、というのも当時の国民の祈りでしたが、その王様の名前、王朝の名前がずっと、とこしえにまで続くように。これは少し大胆な求めでしょうか。義なる王が治める国でしたら、ずっと続いて欲しいのですが、人間には限界があり、実際、イスラエルも良い王様だけでなく、正義ではない、悪い王様も何人もいたのが歴史であり、最後にはダビデ王朝も滅んでしまう。では、この詩人の願った祈りは叶えられなかったのでしょうか。とこしえに続くことを求めるのは、無理だったのでしょうか。
確かに言い過ぎたのかもしれない。しかし、この詩人は、さらに祈り続けたとき、永遠に続く王とは、実は神様ご自身だと気が付かされるのです。ですから18節。
18 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。
19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

神様ご自身こそが、本当の正義の王であり、全世界の王たちの王、栄光の名が永遠に続くお方です。最初は王と王の子、と人間の王様のために祈っていたのが、最後には神様こそ、その王だと告白する。そして、さらに続きます。その詩篇が神殿で賛美され、神殿崩壊後は各地の会堂で賛美され、そして、預言者たちが預言したとおり、本当の王様が来てくださった。それがイエス・キリストです。神の御子であり、王なる神の子として、世界を治めるお方。ですから、詩人の祈りは旧約聖書の歴史では成就しなかったとしても、この詩を聖書に載せてくださった神様は御子イエス様を送ることで、王も王の子も正義の王となられたのです。
今、私たちは、ダビデ時代、またイエス様が地上においでになった新約聖書、紀元1世紀の時代の信仰者たちも、そして今も、私たちはキリストがやがておいでになって、再臨の主が王となられる時を待ち望むのです。地上では神の正義が実現するのに時間がかかり、もしかしたら自分の生きているうちには正義ではないことが起こるかもしれない。祝福とは思えないこともあるでしょう。でも、神様が王である神の国と、神の義を求めるとき、私の祈りもこの詩篇に加わり、新約時代の信仰者がキリストの再臨を切に祈り求めたように、私たちも来るべき王を待ち望む。この祈りはイエス様が再び来られるときに成就するのです。
まとめ.
コロナ禍はもうしばらく続きそうです。コロナに限らず、一人一人の人生には困難がある。でも私たちは去年の標語のように「主を待ち望む」者です。この信仰に立った者たちは新しく力を得て、時代は変わっても、この詩人の祈りに合わせて、またイエス様の教えに学んで、神の国と神の義を求め、王なるイエス様が来られるときまで忍耐して待ち続けるのです。
タグ:詩篇
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2022年02月13日

2月13日礼拝説教「若い時から老いるまで」詩篇71篇16〜21節(71篇)

2月13日礼拝説教「若い時から老いるまで」詩篇71篇16〜21節(71篇)
詩篇に登場する詩には誰がいつ作ったか、あまり詳しくは述べていないものがあります。それは、賛美を作った自分を見るのではなく、賛美や祈りを受けている神様に目を向けて欲しいからではないか、と思います。でも、その詩を深く味わう時、その詩を作った人に寄り添うように感じ、きっとこの人はこんな人だったのだろう、どんな時に詩を作ったのかな、などと想像するのも良いことです。今日、開かれています詩篇71篇は、おそらく晩年になってから人生を振り返ったときの詩篇だろうと思われます。具体的には、先ほど読んでいただいた、17節に
17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
私の若いころ、という言い方は若い時には使いません。幼稚園の年長さんの子供が、年少さんの子供を見て、最近の若い子は、なんて言ったら、笑い話です。晩年まで行かなくても、かなり高齢に近づいてこの詩を語っている。この人の人生は、苦難のある人生でした。いいえ、誰でも苦難の時があります。特に年齢を重ねるほど、そのような体験は誰にでもある。その苦難の中で叫ぶようにして祈った。その祈りが賛美に変えられていった。祈りが賛美に変えられる、というのは、これまでも何度もお話ししました、詩篇のテーマの一つです。今日は、この詩篇、詩篇71篇を通して、「若い時から老いるまで」の、一生にわたる信仰ということを考えてまいります。いつものように、三つのポイントで。第一に「苦難の叫びから信頼へ」、第二に「絶望から賛美の宣言へ」、そして第三に「苦難の人生が生む賛美」という順序で進めてまいります。
1.苦難の叫びから信頼へ
この詩篇が悩みの中での祈りだということは、詩の最初の部分、1節から4節を見ますと、何度も、救ってください、助け出してください、という意味の言葉が続いていることから分かります。ここまでの多くの詩篇でも、このような救いを求める祈りを、私たちはいくつも見てきました。なぜ、このような必死に救いを求める祈りとなるのか。それは、それだけ苦しみが長かったからです。この71篇は、詩の本文が始まる前、71という数字の下に小さな文字で書かれる表題と言われる箇所が、71篇にはありませんので、誰の作った詩かはヒントがありません。誰が作ったのかは分からなくても言えることは、これまで多く登場してきた、ダビデ詩篇と呼ばれる詩篇でも、同じように救いを求める祈りがたくさんあった、ということです。ダビデの一生も波乱に富んだ人生でした。若い時は羊飼いとして苦労し、青年時代は戦争で戦い続け、やがてサウル王に嫉妬されて逃亡生活が始まります。王となってからも、戦いがあり、また自らの罪が原因ですが、家庭内の問題からまた逃亡生活となるなど、苦難に次ぐ苦難でした。だから彼は何度も神様に祈ったのです。この71篇の作者も同じです。
しかし、ダビデをはじめとする信仰者たちは、苦難が永遠に続くのではないか、という絶望の叫びをしつつも、同時に、自分の信仰を奮い立たせる言葉も語ったのです。3節には、
3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。
神様は岩のようにどっしりとして、信頼できるお方だ、という言葉も、ダビデ以来、多くの人がダビデの祈りや賛美を通して学び、自分たちも「主は我が岩、わがとりで」と語って、神様への信頼を言い表して、自分を奮い立たせたのです。その信頼が、やがて確かな信仰に成長し、ついには賛美の言葉となっていきます。5節。
5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。
8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。

若い時から神様を信頼するようになり、奇跡とも思われるほどに、苦難から救われる人生を送り、ついには一日中、神様を賛美するようになったのです。この人の人生は、苦難の祈りが信仰による賛美に変えられていった証しの人生でした。私たちも、この詩篇の祈りから学び、自分自身も苦難の中で祈るとき、神様が御言葉を通して私の心にも信仰を与えてくださる。その恵みを、自分も証しする者とならせていただきましょう。
2.絶望から賛美の宣言へ
二つ目のポイントに移ります。9節。
9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。
11 彼らはこう言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。」
12 神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。

この人は、年老いて弱さを覚えるようになり、神様から見放されたかのように感じた。敵も増えて、「神は彼を見捨てた」と言って、この人の信仰をくじけさせようとするのです。
新型コロナ・ウイルスのことがニュースに上るようになってもう、二年がたとうとしています。今は第六波と言われるのは、これまでも第一波、第二波と、何度も少なくなっては、また増えてくることを繰り返してきたからです。今度こそ終わりになると、自分でも早く安心したくて、そう思うのですが、また波が押し寄せると、もうダメではないのか、と絶望しそうになる。コロナ禍に限りません。人生の苦しみにも、何度も押し寄せることがあります。
そんなとき、もし神様から見捨てられたらどうしよう、と恐怖を感じるとき、それでも詩人は信仰によって立ち上がります。14節。
14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
しかし、という言葉は詩篇を理解するカギです。どれほど苦しみがやってきても、「しかし」。「しかし、私はあなたを信じます」「しかし、主は私を救ってくださるはずです」と信仰に立つ。その時、神様への賛美に導かれるのです。
それでも、また苦しみがやってくる。18節。
18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
また見捨てられたのか、と考えてしまう。でも、18節後半。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。
すぐに、また、信仰によって、神様の力を次の世代の人たちに伝えると宣言しています。何度、倒れそうになっても、また立ち上がって信じる。それが、この人がその人生で学んできたことです。この詩篇は、若い時からの信仰の証しと賛美の体験を思い起こして、何度も立ち上がってきた。そして、ここでまた新たな賛美が生まれるのです。19節。
19 神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。
絶望しそうになっても、そのどん底で神様に出会い、祈りが賛美へと変わり始める。この体験へと私たちは招かれているのです。
3.苦難の人生が生む賛美
最後のポイントです。この詩篇は、「若い時」という言葉と、「年老いて」という言葉を、少し言い回しは違いますが、二回ずつ使っています。若い時から白髪になるまで。この人の一生は多くの苦悩で満ちていたかもしれない。でも、苦難の人生があったからこそ、賛美も生まれたのです。「見捨てないでください」と祈った祈りが答えられたからこそ、この詩篇が書き残された。神様は決して見捨てない。例え、死の世界と言われる地の底に落ちても、そこから救ってくださる。20節。
20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。
「私を再び生き返らせ」と新改訳第三版は訳していますが、旧約時代は復活ということはあまり分かっていなかった。ですから「生き返らせ」は言い過ぎかもしれない。しかし、神様は本当に生き返らせる力のあるお方だということを、イエス様の復活を通して明らかにしてくださったのです。ですから私たちは御子をよみがえらせた復活の神を信じる。
コロナ禍だけではありません。病気もケガもあります。私たちの人生はいつか終わりが来ることは確かです。でも、たとえ、死ぬことになっても、なお、神様は私を見捨てず、最後には天国に受け入れてくださる。「ゆりかごから墓場まで」という言葉があります。若い時から白髪になるまで、いいえ、それさえも超えて、天国にいくまでです。ですから、私たちはこの神様を信じて、このお方をほめたたえるのです。22節。
22 私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。
23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。

六弦の琴や、竪琴など、様々な楽器を用い、また唇は言葉を用いて賛美をささげます。この詩篇も、また多くの詩篇が、言葉を尽くして神様を、特に救いの神様を褒めたたえています。私たちは何を用いて賛美をささげましょうか。私たちのできること、すべて、です。
詩篇の詩人たちの、賛美の言葉の豊かさは、彼らの体験に基づき、また、その体験を信仰によって深く理解したからこそ、様々な賛美が生まれてきたのです。私たちが多くの苦難を体験し、その苦難から救われ、その体験が証しとなるとき、賛美は豊かなものになります。今は大きな声で賛美歌を歌うことは控えています。でも声の大きさ以上に、賛美の意味をよく理解して、心の底から賛美するとき、賛美は深められ、豊かにされるのです。23節。
23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。
24 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう。

23節の後半で、「あなたが贖い出された私のたましい」と語っています。神様が私の魂を贖ってくださった。贖うという言葉は、「買い取る」という意味の言葉で、そこから転じて人を救う意味となっています。神様は私たちを十字架の血潮によって贖ってくださった。私たちは買い取られて、神様のものとされているのです。救いとは、代価を払って買い取られたのだ、と分かったとき、私たちは自分ために生きるのではなく、命を懸けて買い取ってくださったお方のために生きるものとされる。これが最高の賛美です。
まとめ.
24節は「一日中、あなたの義を言い表しましょう」。神の義とは、神様の正しさであると同時に、神による救いをも意味します。私たちを救ってくださったお方が義なるお方で、このお方が私を罪から贖い出してくださった。だから私たちは正しい者とされた。神様が正しいと言ってくださるのですから、私の悪口を言うものは恥を見る。だから、敵が、特に悪魔が私たちを攻撃してきても、この神様の救いを信じるとき。敵に打ち勝つのです。
コロナ禍はもうしばらく続くのかもしれません。人生の苦しみはこれからも何度も押し寄せてきます。でも、私たちはこの神様を知り、このお方に贖っていただいた。この恵みを忘れないで、何度でも苦悩の祈りから立ち上がり、賛美をささげる者としていただきましょう。
タグ:詩篇
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