今日は第二礼拝に続けて教会総会が行われます関係で、礼拝の時間が変更になっています。今年の教会の標語はエペソ書4章12節から「キリストのからだを建て上げるために」で、教会ということをテーマとしています。教会とは何なのか、そしてキリストのからだである教会をどのように建て上げていくか。まだコロナ禍にあって、今月に入ってコロナの影響が及んでいますが、コロナ後に備える意味も込めて、今日は教会について、エペソ書と並んでキリストのからだなる教会に関して大切なことが教えられている、コリント書を開きました。昨年来、詩篇から学んできましたが、ひとまず旧約を閉じて新約に入ってまいります。今日は、コリント人への手紙第一の最初の部分に目を向けたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「私たちは召されている」ということ。第二に「私たちは聖とされている」。そして第三に「私たちは恵みと平安を祈る」という順序で進めてまいります。
1.私たちは召されている
先ほど司会者に読んでいただきましたが、もう一度、1節を読みます。
1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
2 コリントにある神の教会へ。
ここは手紙の差出人と受取人を述べている、挨拶部分です。紀元1世紀の教会では、パウロなどの使徒や教師たちが各地を回り、また手紙を書いて教えていました。ですから単なる手紙ではなく、ただの挨拶ではなく、この言葉の中にも大切なことが含まれています。それは、教会とは召されたものだ、ということです。まず手紙の著者であるパウロは、自己紹介として「使徒パウロ」と語っています。この件については手紙を読み進めていったときに触れたいと思います。パウロは自分が使徒になったのは、自分がなりたいからではなく、神様が召したからだと語っています。それは使徒だけでない。1節の最後には「兄弟ソステネ」。この人についてはあまり分かっていませんが、コリントの町出身で、パウロと一緒に宣教の旅をしていたようです。ソステネに関しては使徒のような特別な称号は無い。いいえ、彼には「兄弟」という、これはクリスチャン同士がお互いを兄弟姉妹と呼ぶのですが、その理由は、イエス様が天の神様、イエス様の父である神様を、あなたたちも父なる神と呼んでよい。ですから神様の家族としていただいた。その表れが「兄弟」という称号なのです。パウロが使徒として召されたように、ソステネも兄弟として召された。いや、一人一人が神様に召されて、今ここにいるだけでなく、教会全体が召された存在です。ギリシャ語では、「召された」という動詞と、教会を意味するエクレシアという名詞は同じ言葉から派生した言葉です。呼び出されたもの、それが教会です。ですから、教会というのはただ人間が集まった、ということではないのです。
教会総会では最初に人数確認をする決まりで、総会を成り立たせるために必要なことです。でも、単に人数と言う数字があれば良いのではありません。本当は一人一人が神様に召され、呼び出された。そして人間が集まっただけでなく、教会がまず神様に召された存在です。この、召された、すなわち、神様に呼ばれた教会は何をするのか。2節。
2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々と共に、
まだ続きますが、ここに「キリストの御名を至る所で呼び求めている」と書かれている。教会は神様に召され、呼ばれた。だから私たちも他の人々と共に主の御名を呼び求めるのです。御名とはそのお方の本質です。ただイエス様と名前を呼ぶだけ、「主よ、主よ」というだけなのではなく、イエス様ご自身を求める。私たちは他の何かが欲しいのではなく、何よりも価値のある、キリストご自身を追い求めるのです。それが召された教会が目指すところです。世の中で価値あると言われるものを欲するだけなら、それは御利益信仰です。他の何かを得ても、キリストを失ったらクリスチャンは神様の前に無価値な存在です。キリストを追い求め、キリストの教えを学び、キリストの生き方を身に着け、キリストのものとされていく。そこに教会の、また私たちの目標があるのです。
2.私たちは聖とされている
二つ目のポイント。2節をもう一度読みます。
2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。
神様は、私たちを召された。でも召しただけで終わるのではなく、召されたものをさらに聖なる者となされるのです。聖なる、とは、清く正しくということも含めますが、もっと本質的には神のものとされる。自分勝手な生き方ではなく、神のために生きる、神様のものとされている。いつからでしょうか。それはイエス様が十字架で血潮を流してくださったのは私たちを罪から救うためですが、これを贖いと言います。贖いとは買い取ることでもあります。私たちは十字架によって救っていただいたときに、御子という代価によって買い取られて神様のものとされた。ですから救われた時から、実は聖なる者とされた。ただ、例えば、今は受験シーズンですが、試験に合格したらその学校に受け入れられますが、入学式という式をします。これは救われた人が洗礼式を受けるのに似ています。では入学式が終わったら、その学校の生徒として相応しい姿になるか。制服は着たけれども、まだ何も分かっていない。その学校で何年か学び、いろいろな経験を通して成長してようやく、その学校の生徒に相応しくなる。私たちは救われたときから聖徒にしていただいたのですが、まだ相応しいとはいえない。ですからキリストを追い求めて、日々聖さを身に着けていくのです。そして、自分が聖なる者となるだけでは、また自分だけ、自分中心です。聖なる者となって、救ってくださったキリストを証しする生き方となっていく。それが聖徒の目的です。
そんなことできるだろうか、と心配するかもしれません。この2節でも、パウロはコリント教会の人たちだけが頑張って聖徒になろうとするだけでなく、至る所、すなわち全世界の教会も一緒に呼び求めている。この池の上教会でも、一人の力ではなく、お互いに力を合わせる。そのとき、自分だけ、という生き方から解放され、お互いに仕える僕、イエス様のような姿になっていくのです。誰が共にいてくださるか。誰よりもイエス様ご自身が共にいてくださいます。そして主にある兄弟姉妹が一緒に歩んでくれる。
使徒信条の中で「聖徒の交わり」という言葉が出てきます。聖徒の交わりとは、キリストを中心として私たちが結びつき、キリストのからだの一員として力を合わせる。そのような交わりであって、楽しく一緒に過ごすことは、聖徒の交わりの結果です。お互いが聖なる者、神様のものとされるように力を合わせて教会を前進させていきましょう。
3.私たちは恵みと平安を祈る
三つ目のことをお話しして終わります。3節。
3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
ここも、挨拶の言葉です。当時のクリスチャンたちはお互いに挨拶をするときに、相手の上に神様からの恵みと平安があるように祈ったようです。それがただの挨拶で形だけの言葉となってしまったら残念です。なぜなら、神様は私たちに恵みを注ぎ、コロナ禍にあっても、どんな状況に陥っても、変わることのない平安を与えてくださる。平安は、旧約聖書では平和、シャロームのことです。ですから神様からの恵みと平安を願うことは大切なことであり、それが、ここでパウロがコリント教会の人たちのために祈っているように、教会全体の祈りなのです。
今、木曜夜の祈祷会はzoomを使ってインターネットを利用して行っています。遠く離れていても、また体調が悪い時も、画面越しに顔を合わせ、そして聖霊によって心を合わせて祈ることができます。そこで教会全体、特に弱さの中にいる方々のために祈ります。神様からの恵みと平安があるように祈るのです。祈祷会には参加できない方も、ぜひ、時間と場所は違っても、同じ祈りに加わっていただきたいと願います。
クリスチャンの祈りの大きな特徴は、自分のことを祈る以上に、他の人のため、特に兄弟姉妹のため、教会のために祈ることです。今も困難の中におられる聖徒たちのために、祈ってまいりましょう。
まとめ.
教会総会では昨年を振り返り、新しい一年を考えて、教会の歩みを確かなものとしていきます。でも、そこに祈りがなければ、人間の考えが優先し、御心から離れてしまいます。祈りによって神様を信頼して歩むときに、神様が私たちをご自分のものとしてくださり、正しい道へと導いてくださるのです。今年は、特に、キリストのからだである教会が、キリストのからだとしてあqるべき姿となれるように、祈ってまいりたいと願っています。
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