2022年01月09日

1月9日礼拝説教「祝福の目的」詩篇67篇1〜7節(67篇)

1月9日礼拝説教「祝福の目的」詩篇67篇1〜7節(67篇)
先週の主日礼拝は、元旦礼拝に続けて今年の標語である「キリストのからだを建て上げる」ということをお話しさせていただきました。今日からは再び詩篇から御言葉を取り次がせていただきます。詩篇は全部で150の詩がありますので、一つ一つを順番に取り上げていきますと、三年くらいかかってしまいます。そこで、詩篇は五つに分けることができて、それぞれ、第一巻、第二巻となっていき、最後が第五巻となっているのですが、昨年は第二巻、数字で言いますと、詩篇42篇から始まります。それよりも前は第一巻で、1篇から41篇までは一昨年に開かせていただきました。第二巻は72篇までですので、今年の最初は、72篇まで、あと一ヶ月半ほど、詩篇をご一緒に味わってまいりたいと思います。
今日は詩篇67篇から祝福ということをお話しします。今年の標語は「キリストのからだを建て上げる」ということですが、私たちはイエス様の十字架によって救われたときから、キリストのものとされ、キリストの体の一部分としていただき、イエス様が共にいてくださる。それが祝福のもといです。教会が健全に成長し充実するなら、そこに集っている私たちの礼拝が祝され、信仰生活も充実し、祝福されます。キリストのからだを建て上げることが祝福につながるのは、ちょうど、私たちの肉体が鍛え上げられ、健康になるなら、生活も充実し、仕事にも頑張れるのと同じです。でも、自分の祝福だけを求めて、キリストのからだをおろそかにするなら、祝福も崩れてしまいます。そこで、改めて祝福ということをご一緒に考えてまいります。
いつものように三つのポイントで、第一に「神を知るため」、第二に「神を讃えるため」、そして第三に「神を畏れるため」という順序で進めてまいります。
1.神を知るため(1〜2節)
もう一度、1節から読みます。
1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。
この節は前半と後半に分かれていて、「どうか」という言葉から前半は神様に祝福をもとめていることが分かります。単なる祝福ではない。神様の憐れみによる祝福です。本当なら私たちは神様に祝福を要求などできません。そのことを弁えているからこそ、この詩人は憐れみを求めている。憐れみというと「かわいそう」というイメージがありますが、神様の祝福の前では、私たちは祝福なしでは倒れてしまう存在だと認める謙遜な姿勢だから、神様も憐れみの思いで祝福してくださるのです。ちょうど、山上の教えの冒頭で「貧しい者は幸い」と言っているのは、貧しいからこそ神の助けと祝福を求めるしかない。だから神様はその人を幸いにしてくださるのです。
後半は「御顔を私たちの上に照り輝かして」と語っていて、祝福を違う言葉で表現しています。神様の顔は、時には神の怒りを表し、時には神の好意ある視線を示します。もちろん、ここでは神の好意、すなわち祝福に結びつく意味で、神の御顔の光が私たちの上に輝くように祈っているのです。この祝福の求め方は、民数記にも使われています。祝祷と言いますと、礼拝の最後、頌栄で神様を崇めたあと、牧師が神様に祝福を求める祈りが祝祷で、多くの牧師が三位一体の神による祝福を祈ります。これは(開かなくて結構ですが)コリント人への手紙第二の一番最後でパウロが用いている祝福の祈りです。でも、これだけが祝祷ではなく、民数記6章の終わりには、祭司アロンがイスラエルの民の祝福を求めた祈りが登場します。このアロンの祝祷の中で、神の御顔の光を求める言葉が使われている。それくらい、旧約時代の人々にも知られていた祝福の言葉なのです。ちょうど光が太陽から届いて寒い季節には暖かくしてくれる。これも、祝福が神様からやってくることを表しています。
私たちは神様に祝福を求めて祈るのですが、でも、何のために祝福を求めるのでしょうか。その目的が大切です。例え良いものであっても悪い目的で求めるなら、神様は与えてくださらない。ではこの詩篇では何が目的か。目的の第一が2節に記されています。
2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
日本語の語順ではどうしても最後になってしまいますが、原文では最初に目的を述べて、1節の祝福を求める祈りの目的を明らかにしています。それが「知られるため」です。誰が何を知るのか。「地の上に」と書かれていますが、これは地面のことを言っているのではなく、地に住む人々で、原文では「この地」と書かれているは、おそらく神の民イスラエルのことを指している。でもイスラエルだけではない。後半では「すべての国々」となって、全世界の国々までも含んでいます。この67篇は、比較的短い詩篇ですが、全世界の救いを願うなどスケールの大きな祈りです。世界中の国々の人が神様を知るため。知識として知っているということではなく、神が憐れみに富んだお方であって、異邦人にも祝福を注いでくださるお方だと知って欲しい。自分が体験して知っている神様を、全世界の国々にも知って欲しい。それが作者の願いであり、また、この言葉を聖書に書き残させた神様の御心なのです。
また、神様を知るとは、2節に「あなたの道」、すなわち神様が示してくださる生き方であり、それは「あなたの御救い」、救いの道です。世界中の人が救いの道を知るため。それが祝福の目的なのです。創世記でアブラハムが祝福されたときも、アブラハムを通して世界中の人が祝福されるためという目的がありました。こう考えると、神様からの祝福というのは、祝福されたら財産が増えるとか、良いことがあると言った、自分の満足や貪欲のだけなのではないことが分かります。自分だけでなく世界に祝福が及び、この神様のことが知られるためです。
今年の教会の標語も、キリストのからだ、すなわち教会を建て上げる、ということです。自分だけの救いではなく、他の人のためであり、それは教会を通してなされていきます。また、この池の上教会だけの祝福ではなく、そこに関わるお一人お一人を通して、世界中に福音が広められるため。そのために、私たちは神様に祝福を求めていくのです。
2.神を讃えるため(3〜6節)
二つ目の祈りが、3節です。
3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。
同じ言葉が5節にも繰り返されています。二回繰り返されてるのは、それが大事なことだからです。神様を知った諸国の民が、この神様を褒めたたえて賛美するため。また、4節には「喜び」という言葉も二度出てきます。喜んで賛美する。これが祝福の目的でもあるのです。
賛美とは何か。コロナ禍にあって、教会で賛美歌を歌うのにも制限をしなければならない状況が続きました。喜びをもって賛美をすることが、どれほど素晴らしい恵みだったのか、あらためて感じました。しかし、心には賛美の思いがあり、聖歌の歌詞を味わうことで、ただ一つの歌を歌うということ以上に、神様への信仰の告白や、感謝の思いなど、賛美を味わうことも学びました。さらに、賛美は私たちの信仰の、また生活の姿勢です。神様を神様として崇めること。この姿勢を抜きに歌っても、それは神様を賛美しているのではなく、自分のために歌う。自分の楽しみや満足が目的なら、それは賛美ではない。同じ姿勢が、私たちの生活にも求められています。自分のための生き方ではなく、私たちの人生を通して神様の御名があがめられるため、です。
4節の「喜び」も、そこには神様が公正、すなわち正義をもって世界の民をさばき、導く。神様が世界を正しく治めてくださる喜びであり、自分の思い通りになる喜びではない。これも自己中心ではなく神様をあがめる生き方です。3節と同じ賛美の言葉が5節に繰り返されたあと、6節では
6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。
地の産物は、農業における作物も、また牧畜における羊やヤギが増えることも含んでいるでしょう。この収穫の豊かさは、誰もが求める祝福の分かりやすい表れですが、それも賛美へのプロセスです。農業を行う人々は、時には日照りがあって、神様に助けを求めて祈ります。その祈りが聞き届けられて、雨が降って、収穫が与えられたとき、その人たちは感謝をもって神様を賛美する。やがて、その信仰が成長して、まだ収穫の時は来ていなくても、必ず豊かな実りが与えられる。それは神様が私たちを愛し、御顔の光を照らし、祝福していてくださる、と信じているからです。
私たちも日照りの時がある。雨が降らなくて悩む日々があります。賛美歌を思う存分歌えないことも、楽しい交わりが持てないときにも、でも私たちは神様が私たちを祝福していてくださることを信頼して、賛美と感謝の思いを忘れない。そして、神様から豊かな恵みの雨を注いでいただける日が来ることを信じて、神様に期待をして待ち望みつつ、祈る。いいえ、そのように信仰をもって祈るようになったことも、大きな感謝です。神様を心から賛美する。それが祝福の目的です。
3.神を畏れるため(7節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。三つ目の、祝福の目的は、7節。
7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
ここにも「地の果て果て」、すなわち世界中の人が、みな神様を恐れるように。全世界が神を畏れることが三つ目の目的です。
神様を恐れるとは、怖がることではありません。神様に背を向けて、神様の御心に背く罪を犯していると、神様が御顔をこちらに向けるときに怖くなります。でも、その罪が赦された、救いをいただいた者には、恐怖ではなく、その神様をあがめて賛美をし、神様の御心に従って正しく生きることを願う。それが神を畏れることです。畏れ敬うのです。
神様を畏れ敬うという、神様とのあるべき関係が、自分だけでなく、周囲の人にも及ぶようになり、世界中に広められていく。これが祝福の目的です。
世界中の人々が神を畏れ、罪から離れて正しい道を歩む。それは素晴らしい世界です。でも、世界が神様を知って畏れる前に、自分自身は神を畏れ敬っているでしょうか。神様はすでに私たちを祝福して、御救いに与らせてくださいました。その救いへの感謝と賛美が心にあふれているでしょうか。また神様の道を教えるために御言葉を通して語り掛けてくださる。最初に祝福の祈り、祝祷のことを話しましたが、御子の恵みと、父なる神の愛、そして聖霊の交わり。この聖霊の交わりとは、聖霊が私たちの心に来てくださり、御言葉を語り掛けてくださる交わりです。この交わりが与えられているこそ、御言葉を通して神様の御心を教えていただけること。これって、何よりも素晴らしい祝福ではないでしょうか。たとえ全世界の富を手に入れても、御心が分からないために滅びに向かってしまうなら、それは神様の祝福ではありません。どれほど困難があっても、御言葉を通して神様の御旨を知るなら、不安ではありません。この神様の祝福をもう既にいただいている。何よりも御子を与えてくださり、救ってくださった。この神様を私たち自身が心から畏れ敬おうではありませんか。
まとめ.
祝福に満ちた生活を聖書は教えています。またこの詩篇のように、祝福を求めて祈ります。その聖書の御言葉を教わり、また一人ではなく二人または三人、それ以上の兄弟姉妹と心を合わせて祈ることができる。それが教会ではないでしょうか。そして毎週、まず神様を畏れ敬い、感謝と賛美をささげるために、私たちは礼拝から一週間をスタートします。この年、毎週の礼拝を大切にし、キリストの体である教会を建て上げていく、祝福に満ちた歩みをしていきましょう。
タグ:詩篇
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2022年01月02日

1月2日礼拝説教「ひとりひとりの賜物を」第一コリント12:27(12章)

1月2日礼拝説教「ひとりひとりの賜物を」第一コリント12:27(12章)
昨日の元旦礼拝では、今年の教会の標語として、エペソ書の御言葉から「キリストのからだを立て上げる」ということをお話しさせていただきました。私たちが主に仕え、互いに仕え合う。それが教会です。どのように仕えるか。私には何ができるか、を考えるヒントが、賜物ということです。そこで今日は賜物ということをご一緒に考えてまいりたいと思います。その賜物を生かして、主に仕えていくのですが、ただ、賜物というと才能と混同しやすいかもしれません。才能は、それを用いて社会のためにも用いることができますし、自分のため、自分の利益や名声のために用いることもできます。でも神様からの賜物とは、主に仕え、教会に仕えるために用いられるものです。才能のある人の、その才能を通して主に仕えるなら、それは賜物と考えることもできます。でも、どれほど才能があっても、自分のために生きるなら、それはまだ賜物とは言えない。教会の一員となってから示される賜物もあります。必要に迫られて、賜物が与えられることもあります。今年は、教会を建て上げるということを考え、また実践するなかで、賜物についても学んでいただきたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「大切なひとりひとり」ということ。第二に、「いたわり仕える教会」、そして第三に「愛の賜物」という順序で進めてまいります。
1.大切なひとりひとり
今年の標語は「キリストのからだを建て上げる」。それは教会についてです。教会というと、自分には関係ないと思われるでしょうか。教会は一人一人の集まりであり、その一人が大切な存在だ、ということを聖書は教えています。イエス様の有名なたとえ話で、「九十九匹の羊と一匹の羊」があります。たった一匹の羊を探し出すまで、羊飼いは諦めずに探し回ります。神様の目には、誰一人無視される存在はなく、聖霊は一人一人の心を宮としてくださる。それは神様がその人を導くためです。どのように導くかと言いますと、教会は聖霊が下って始められたものですから、聖霊はその人を教会に導き、教会でほかのクリスチャンと出会わせてくださる。そして、聖書も聖霊の霊感によって書かれたので、聖書を分からせてくださり、また信じる決心へと導いてくださる。信じて救われた後も、その人が聖霊に満たされて主の栄光を表すようにと成長させてくださる。どうして、こんなにも丁寧に導かれるか。それは神様がその一人を愛しておられるからです。
たった一人で救われて、成長することはありません。その一人にとっても教会は必要な場所です。そこでその人の持ち味が生かされ、すなわち賜物が用いられる。ちょうど一人の人間が生まれ、育つのに家が必要なように、私たちのためにも神の家である教会があり、そこで信仰がはぐくまれ、やがて神様に仕える働きができるようになっていく。それが奉仕であり、そこに賜物が活躍する。もし、自分のことだけ、自分の利益だけを求めるのなら、賜物は生かされず、信仰の成長もストップします。もし、私たちが「お互いに」という言葉を覚えて、お互いに仕え合い、お互いに支え合うなら、それぞれの賜物が組み合わされ、補い合って、教会の中で花を咲かせ、実が結ばれるのです。教会の一員、キリストのからだと部分部分として、私たちは生かされるのです。
2.いたわり仕える教会
聖書の中で教会について学ぶのに最も素晴らしいのは、一つはエペソ書で、昨日、4章をお話ししました。もう一つが、このコリント人への手紙第一の12章です。どちらも「からだ」、私たちの肉体である体を例えとして教会のことを教えています。この12章の前半でも、賜物ということを話す中で、様々な賜物があることを、体の中にも様々な器官があるという例えで教えています。人間の体のどの部分も必要な役割があり、大事な存在ですから、不必要な人などいないのです。体の器官の中で強いと考えている部分。例えば足や手は強い力を発揮します。でも、剣道で竹刀を握るのに、小指が無いとしっかりと握りしめることが出来ないように、弱いと思っている器官も重要な役目があり、キリストのからだである教会も、小さな存在が無くてはならない存在であって、神様から賜物が与えられていて、その賜物を用いて主のお役に立つことができ、もし力不足なら神様は助けてくれる人を備えてくださり、周りの人たちに助けられながら成長し、今度は自分も誰かを助けるようになっていくのです。
また、26節。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
体の一か所が痛みを覚えるとき、全身が苦しみます。足の小指を箪笥の角にぶつけるという体験をしたことがあるでしょうか。小指一本ですが、全身で身もだえするくらいに痛みがからだを走ります。教会でも、誰かが痛み、苦しむとき、その苦しみは他の兄弟姉妹にも伝わっていき、たくさんの方が心に痛みを感じて、神様にその方の助けを願って祈るのです。またできることがあれば手を差し伸べてくださる方がきっとおられる。そのように支え合うことが教会のあり方です。
昨今は、入院をしますと家族でもお見舞いに行けないことがあります。でも、教会では、シロアムの会の方たちが祈っておられ、ハガキを送ってくださっています。その励ましのハガキが嬉しかったと感謝の報告をいただくことは一度や二度ではありません。
私たちは、誰かのために何かができます。何もできないと考えているかたも、神様に祈ることはできます。小さなことでも仕える思いでするならば、神様がその小さな働きを用いてくださるのです。そして、誰かと一緒に神様のための働きをします。大きな働きでなくても良いのです。奉仕といっても、人前に立つような目立つ奉仕だけでなく、陰にある奉仕に忠実な方々がおられるから、この教会は多くの方々の賜物と奉仕に支えられて、これからも素晴らしい主の御業を共にさせていただくのです。その時、老若男女、様々な人が力を合わせ、できることを通して奉仕している姿を見るとき、新しく来た方も、やがて自分も神様が用いてくださることを想って、この教会に加わりたいと思ってくださり、いつの日か、この教会の一員となってくださるのです。
3.愛の賜物
さて賜物ということについて、もう少しお話ししたいと思います。12章には様々な賜物が列記されています。もちろん、ここにあるだけでなく、聖書全体ではもっと豊かな賜物の種類が掲げられているのですが、この第一コリント12章では、8節で知恵と知識という賜物が記されています。9節には信仰、これも聖霊の賜物で、もちろん、クリスチャンになった人はみなイエス様への信仰があるのですが、特に信仰の賜物とは、他の人なら信仰を諦めてしまうような試練の時でも、しっかりと信じ続け、信仰においても決してあきらめない信仰を持つ様になります。またその後には癒しの賜物、などなど、様々な賜物がその後も続きます。奇跡や預言は特別な働きのように感じます。反対に、ここには挙げられていませんが、もっと身近な賜物もあります。詳しいことまで知りたい方は、賜物セミナーといった学びの機会を捕えて学んでみてくださると良いと思います。
この手紙を書いた使徒パウロは、様々な賜物があるが、それを与えてくださった聖霊はただひとりのお方で、キリストのからだである教会の一体性ということを12章の後半で語っていったあと、31節。
31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
この、もっと優れた賜物、しかも、それは一部の人ではなく、熱心に求める人に与えられる賜物とは、何か。それが13章に書かれている愛です。有名な箇所ですが、13章の1節、2節。
1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

預言を語ったり、山を動かすような奇跡を起こす信仰があっても、愛がないなら、その力を自分のために用い、自分が称賛されることを求めるとき、神様の前には無価値なものとなってしまいます。愛こそが最高の賜物であり、それは誰もが熱心に祈り求めることができる。いいえ、そうしなさいとパウロは勧めているのです。最後には、13節。
13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。
信仰も聖霊が与えてくださる恵みです。希望も、昨年は「主を待ち望む」との標語で、神様に期待することを学びましたが、これも希望です。そして、一番が愛です。
愛とは互いの欠けている部分を補うものです。愛がないと、他者の欠点や失敗を責めて批判します。裁くのです。それではお互いを、そして教会を建て上げることはできません。愛によって相手の欠けを補い、失敗をかばう。その時、できない人の分を誰かが補うなら、また補ってもらったほうも感謝をし、助けられながら成長し、今度は自分が他の誰かを支える。こうしてキリストのからだが成長していくのです。
パウロはこのような愛を熱心に求めよと教えました。愛が無い賜物は腐っていきます。自分ができることをひけらかし、できない人を裁くような人は、周りから疎んじられ、自分の栄光を求めるなら神の栄光を隠してしまいます。しかし、愛は、特に神様から与えられた愛は、犠牲を伴っても、見返りを求めずに愛する愛です。ちょうど母親の愛、もちろん、父親の愛も同じだと思いますが、母親がそのような愛で子供を愛し、支えるから、その子が成長するように、神の愛によって誰かの欠けている部分を補うなら、まだ成長の途中のために十分な働きができない人も、助けられながら奉仕をすることができ、賜物が生かされるのです。これもキリストのからだが建て上げられていくことです。
自分は特別な賜物は無いから、奉仕もできないと考えている方も、どうでしょうか。愛によって誰かを励まし、助け、支える。愛の賜物をぜひ祈り求めて、できることを通して教会の働きに力を貸していただけないでしょうか。また、インターネットなどで礼拝を守っている方は、教会に行くことができないのだから、奉仕もできないのか、と言いますと、違うと思います。離れていても、弱さの中にある人に手紙を書いたり、電話をかけて励ますことができるかもしれません。他にも良いアイデアがあったら、教えてください。それも教会の役に立ちます。文字通り、何もできない体調の方も、心の中で祈り続けてください。信じて祈るとき、人間の力の足らないところに働いてくださるキリストが、100パーセント足らないなら100パーセントをイエス様が力を表してくださる。そう信じて祈っていただきたいと願います。
まとめ.
教会には、今なお、悲しみの中におられる方たちがいます。苦しみ悩む人もいます。誰がその人を愛する人となるのでしょうか。誰が持っているもの、与えられた賜物で、その人を助けるのでしょうか。「良きサマリヤ人の譬え」を語られた後で、イエス様は話をしていた律法学者に、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。もうすでに誰かを愛し、祈っておられる方、またこれから誰かのために祈る志を与えられた方、一人一人の愛による祈りが教会を支え、建て上げていきます。一人一人の賜物を神様に用いていただき、お互いを支え合っていきましょう。
タグ:新年
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2022年01月01日

元旦礼拝説教「キリストのからだを建て上げるため」エペソ4:12後

元旦礼拝説教「キリストのからだを建て上げるため」エペソ4:12後
昨年は一昨年に続いてコロナ禍での生活となり、皆様おひとりおひとりも、そして池の上教会も、厳しい時を過ごしました。今年の初めに当たり、昨年末に御言葉を祈り求めております中で心に浮かんだのは、エペソ書4章12節、特にその後半です。「キリストのからだを建て上げるため」。キリストのからだとは教会のことです。ですから、教会を建て上げよう、ということでもあります。ただ、教会を建て上げるとは、教会堂という建物の建築ではありません。聖書がここで言っているのは、目に見える建物ではなく、今も生きておられるキリストの「からだ」としての働きを担っている教会です。私たちは神様に召され、集められた。それが教会です。教会を表すギリシア語、「エクレシア」は、呼び出された者、ということです。私たちは誰もが、その教会に導かれて救いの恵みに与り、教会で成長し、教会の一員として神様に仕えつつ、新しい人生を歩んでいくのです。そのようなお一人お一人がキリストを中心として集められ、一つとなって主なるキリストに仕える。それがキリストのからだなる教会です。今朝は、その教会を建て上げるとはどういうことかを、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
三つのポイントに分けてお話ししてまいります。第一に「『疲れる』から『仕える』へ」ということ。第二に「キリストを目指して」、そして第三に「結びつけられる愛」という順序で進めてまいります。
1.「疲れる」から「仕える」へ
先ほどもお話ししましたが、昨年末に新しい年の教会の標語として「教会」ということを考えていたとき、少し躊躇する思いがありました。と言いますのは、この2年間、私たちはコロナ禍にあって、時には疲れを覚えることもありました。コロナに感染した方やそのご家族の苦労は言うまでもなく、誰もが感染の不安を抱きつつ、手指の消毒やマスクに気を遣い、仲の良い友人と一緒に過ごすことも制限され、気晴らしに出かけることもままならない。例年の年末は、世の中では忘年会があって、忘れたいこともあって、でも今は集まることも遠慮する。教会も同じです。ですから誰もが体も心も疲れを覚えている。だから、教会というテーマを掲げて、さあ一緒に頑張ろう、と言うのは厳しくはないか、と考えもしました。でも、休みをとって分かることは、もちろん休むことで疲れた体や心が癒やされるのですが、休んだままでいると反対に動く力まで衰えてしまう。昨今は、病院で手術の後、昔ならしばらくは絶対安静だったのが、今は早くからリハビリを始めて、回復して動けるようにすることも大切になっているようです。教会もコロナ禍の疲れから癒やされるためにも、動き出すことが大切ですし、動くことで元気が沸いてくる部分もあるでしょう。
では、教会は、何をしたらよいのか。そもそも教会は何のために存在するのか。とても大事な問いです。たくさんのことがありますが、二つだけ。一つは、教会は互いに仕え合うためにあります。クリスチャンとはキリストの弟子です。キリストが弟子たちに教えたことは、互いに愛し合い、仕え合いなさい。愛するには相手が必要です。愛し合うには同じ立場の相手が必要です。同じキリストを信じて救われた私たちが、お互いに愛し合い、仕え合う場所、それが教会なのです。二つ目に、宣教です。復活のキリストを証しするためにイエス様は弟子たちを遣わし、聖霊を送って教会を誕生させ、一人では難しくても一緒にキリストを伝えるために協力する。そのために助け合うのが教会です。この互いに仕え合うことを具体的に行うのが、奉仕です。
開かれています御言葉、エペソ書4章12節後半の前にはこう書かれています。11節から。
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、

使徒や預言者というのは、今はあまりピンとこないかもしれませんが、牧師は分かります。つまりキリストが牧師を立てて、聖徒たち、これは全ての信徒のことです。牧師が聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせる。これでは牧師が信徒を働かせているかのようです。でも、これは奉仕の働きを無理やりにさせるということではなく、本当は、聖徒たちはキリストに仕える者なのですが、どのように仕えたら良いかわからない、上手く仕えることができない。私たちは救ってくださったお方を愛して、できることならお仕えしたいと願っているのに、それができないのは残念なことです。ですから旧約時代の預言者や新約時代の使徒たちのように、牧師や教師は聖書の御言葉を語って、神様の御言葉によって信仰を整え、神様の御心を学び、そうして、より良く仕えることができるようになるのです。こうして、力いっぱいキリストに仕えるとき、そこに喜びがあり、さらに元気なクリスチャンとして成長していくのです。
昨年は、確かにできないこともありましたが、できたこともあります。一昨年にはできなかった退修会やコンサートができました。JKの子供たちはすでに一昨年からインターネットを用いて賛美をささげ、聖書を学び、またキャンプや、中高生たちや青年たちは新しい活動も始めている。若い人たちだけではありません。先輩の信徒の方たちがインターネットを使って祈祷会や家庭集会を行っている。これも新しいことです。
今年は、さらに、できることを探して、これまで以上に神様に仕えて奉仕をすることで、お互いを助け合い、仕え合っていくとき、教会はますます成長し、力をつけていくのです。こうして教会を建て上げていく。これが今年の目標です。
2.キリストを目指して
二つ目のことをお話ししていきたいと思います。一昨年は出来なかったのが、一昨年の終わりのクリスマス礼拝で聖餐式を行い、昨年はイースターにも聖餐式を行いました。聖餐式は教会にとって重要なことです。もともとは毎週行っていたのですが、毎週行うのが難しい状況になって月に一回、あるいは年何回か、というようになりましたが、聖餐式を守ることは変わりません。どうして聖餐式か。イエス様がお命じになったからですが、この聖餐の中に重要な教えが込められているのです。
私たちは主イエス様の体としてパンを受け、血潮として盃を受ける。それは十字架のことを示しています。主のからだと血に与ることで、十字架の贖いによって救っていただいたことを思い起こして確認し、主が私たちの中に入って、自分のためではなくキリストのために生きる者となるのです。そして、「もはや我生くるにあらず、キリスト、我がうちにあって生くるなり」と書かれているように、キリストが私を通して生きておられ、働いておられる。ですからキリストの働きを私たちがさせていただくとき、キリストと同じ生き方へと変えられていく。これが私たちの究極的な目標である、キリストに似たものとなることです。そのことを13節はこう言っています。12節後半から。
キリストのからだを建て上げるためであり、
13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

15節にも
15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストに達する、それがキリストに似たものとなることです。
でも、聖餐式のパンと盃を受けるだけでキリストに似たものとなっていくのでしょうか。単なる儀式ではなく信仰によって行う式ですから、そこにも信仰が必要ですが、聖餐式のもっているもう一つの側面を、ヨハネの福音書が語っています。開きませんが、4つの福音書のうち、最初の三つは内容が似ていて、十字架の前の晩、「最後の晩餐」と呼ばれる食事のときにイエス様が聖餐式を定めたことが記されています。ところがヨハネは少し後から福音書を書いたので、他の三つが書いていることは、もう十分だと思って、他では書かれていない重要なことを書き残した。それは、最後の晩餐のとき、イエス様が弟子たちの足を洗った。洗足と呼ばれる出来事です。イエス様が弟子の足を洗ったのは、弟子たちもお互いに足を洗うため。それは僕となって仕えるということです。聖餐式は、神の御子であるイエス様が僕となって私たちの罪を背負って十字架についてくださったことを表し、ですからキリストの体と血を受けた私たちも、主がされたように互いに仕え合うものとなるのです。
イエス様は弟子たちに仕えただけでなく、多くの人々のために働いて、救いの働きをされ、神の言葉を教えなさった。ですから、私たちも教会堂の中だけでなく、隣人に仕え、御言葉を語り伝える。それも私たちの奉仕です。どうしてイエス様は仕えることを教えたのか。人間はもともと仕えるよりも人の上に立って他者を思い通りにしたい。その自己中心が罪であり、問題を引き起こす原因だと聖書から私たちは学んでいます。自己中心や、自分が上になるのではなく、自分が僕となって仕えるとき、私たちは成長します。ふんぞりかえって、自分のやりたいようにしていたら、いつまでたっても成長しませんが、仕えることで困難な働きにも取り組み、自分の足らなさを教わり、ますます主に信頼するようになり、信仰も働きも前よりも強くなるのです。また宣教の働きに携わることで、自分も聖書を良く学ぶようになり、他者への愛を学び、こうして私たちは新しいものへと変えられていくのです。
私たちが主に仕え、教会の奉仕と宣教をするとき、お互いに助け合い仕え合うことを実践して、自分も成長し、教会も前進する。それがキリストのからだを建て上げることです。数が増えるということだけでなく、一人一人もキリストに似たものになるように、キリストを目指すことなのです。
3.結びつけられる愛
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。
キリストに似たものとなっていくと言っても、実際の教会はまだまだ足らないところがあります。教会に不満を覚える人もいるでしょう。その通りです。でも、それは教会に連なる一人一人、自分も足らない点がある。その足らない点を補うものが愛です。人の不足を裁くのではなく、それを愛によって補うとき、人間の足らないところにキリストが働いてくださり、豊かな恵みを示してくださるのです。その愛がキリストのからだの部分部分をつなぐものです。16節。
16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、供えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
ここにも、キリストのからだ全体が建てられていく。それは愛による結びつきがあるからです。いろいろな結びつきや組み合わせがあります。交わりもその一つ。ともに奉仕をすること。また一つの御言葉、心を合わせる祈り、キリストを主として信じる信仰。こういった様々なことで結びつき、その結び目によって愛し合うのです。
昨年来、教会の交わりは大きな打撃を受けています。愛餐会ができません。食事をしながらおしゃべりをすることが困難です。もし、その一つだけが結び目なら、教会はばらばらになります。でも、ほかの結びつき、共に祈ること、共に主に仕えること、離れていてもお互いのためにできることがあります。その結果、できない部分はできることで補って、結びつきを強めていくなら、前よりも強く結び合うのです。どんな試練もイエス様が乗り越えさせる力を与えてくださり、教会を、キリストのからだをさらに強めてくださるのです。
成長するのは教会全体でもあり、一人一人の成長でもあります。一人一人がキリストを目指して成長を求めていくとき。教会全体が力を合わせて、共に強められ、働きが進められ、その結果、教会がさらに建て上げられていく。このことを、今年は皆さんと共に目指していきたいのです。そのときに、自分のことだけを考えるなら、結びつきが弱まり、教会は衰えていきます。そうではなく、キリストが私たちを愛してくださった愛によって互いに愛し合い、支え合うのです。
まとめ.
さあ、一緒に教会を建て上げていきましょう。こう話しますと、自分には何もできない、と考える方もおられるかもしれない。でも、神様は必ずその人が何かをできるようにと力を与えてくださる。それが賜物ということで、たまものについては明日の主日礼拝でお話ししたいと思っています。
でも、何ができるかはわからなくても、一緒にキリストに仕える、その思いを持つことができるなら、後は、主が私たちに語って導いてくださいます。私たちは仕える思いをもう一度確かめていこうではありませんか。そして、一緒に教会を建て上げていきましょう。
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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教