1月30日召天者記念礼拝説教「苦難から天国へ」詩篇69:13〜18(69篇)
今日は召天者記念礼拝ということで、天国についてお話ししたいと思うのですが、天国というのは死んでから行く特別な所、ということも間違ってはいないのですが、聖書が私たちに教えていることは、天国は生きている今、ここに、私たちの内にすでに始まっている、ということも真理です。そのことを、私たちは信じる。それは信仰なのです。今日は、天国そのものではなくて、天国にいたる信仰とはどのような信仰なのか、ということをお話ししたいと思います。
先ほど、司会者に読んでいただきましたのは、詩篇の69篇の一部分です。今、礼拝では詩篇を順番に読み進めていますので、今日は69篇まで来ています。詩篇には全部で150の詩が集められています。様々な詩がありますが、一番多いのは、祈りと、そして賛美の詩です。祈りとは苦しい時に神様に助けを求める祈りです。私たちも、困ったときの神頼みという言葉もあるくらい、苦しい時には祈ります。祈っているうちに、心が落ち着いて、神様に心を向けると、神様だったらきっと助けてくださる、という信仰が生まれてくるのです。そして助けていただいたなら、神様に感謝して、救ってくださる神様を誉め称える。これが賛美です。クリスチャンになっても、誰の人生にも苦難の日があります。しかし信仰があるとき、苦悩の祈りはやがて賛美と感謝に変えられる。これが、聖書の教える天国の人生の秘訣です。
今日は、この詩篇69篇を通して、「苦難から天国へ」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「苦しみの人生」ということ。第二に「信仰による復活」、そして第三に「天国の約束」という順序で進めてまいります。
1.苦しみの人生(とキリスト預言?)
詩篇69篇は少し長めの詩ですので、全部読むと長くなります。先ほどは司会者に13節から朗読していただきましたが、その最初に「しかし」という言葉があります。「しかし」とは、その前に何かがあることを示していて、何があったのかというと、それが先ほどもお話しした苦難です。つまり、この詩篇69篇は、苦難の中での祈りです。14節に「私を泥沼から救い出して」と助けを求めていますが、この泥沼という言葉は、69篇の最初、1節と2節を見ますと、「水がのどまで入ってきた」ということや、「私は深い泥沼に沈み」と書かれています。実際に洪水のような災害に遭遇したのかもしれませんが、むしろ、自分が今体験している苦難を、大水や泥沼に例えて語っている、と考えたほうが良いでしょう。実際、4節まで読み進めますと、「私を憎む者」や「私を滅ぼそうとする者」が登場し、「偽り者」だと語っています。偽りを語って人を陥れるような人がいて、まるで泥沼のように、その悪意の中に入って出ることができない。人間関係が泥沼のようになる体験をしたことがある人もいるでしょう。
私たちの人生が天国とは言えない、まるで泥沼のような苦しみとなるのは、そこに悪意や敵意があり、偽りによってさらにおかしくなっていく。この悪意や偽りといった、罪こそが苦しみの原因だと聖書は教えているのです。
その苦しみを述べている中で、9節。
9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、
誰でも自分の利益、自分の家の利益を考えます。でも、それが強すぎますと、自分さえ儲かればよい、他者を食い尽くすようになるなら、それは相手に苦しみを与えます。これも聖書が教える、自己中心という罪の結果です。さらに21節。
21 彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。
喉が渇いたときに酢を飲んだら、ますます喉が痛くなります。苦しみに苦しみを加える。傷口に塩を塗る、という日本語の言葉を思い出します。これも苦しみです。弱っているときに助けてくれるのではなく苦しみを増し加えるような敵がいるのです。
ところで、今、拾い読みをしてきた、9節や21節の言葉、どこかで聞いたことがある、と思い出された方もおられるでしょう。どちらもイエス様の十字架に関連しています。イエス様を殺そうとした人たちの動機は、自分たちの利益が脅かされると考えて、自分のため、自分の家のために、彼らはイエス様を敵視して、やがて殺そうと考え始めていた。また渇いたときの酢というのは、まさに十字架にかけられたときに成就しました。この詩人も、何も悪いことをしていないのに、敵からあしざまに言われ、苦しめられた。それはイエス様が敵意を受けて、苦しめられながら十字架で死なれたときと重なっているのです。私たちが苦しむとき、イエス様の苦しみは、私よりももっと大変だったろうな。いいえ、その苦しみは私を罪から救うためだった、と。そう思いいたったとき、私たちは苦難の中でキリストに出会い、十字架の意味が分かるようになるのです。キリストと出会ったとき、その人の人生は苦しみから賛美へと変わり始めるのです。
2.信仰による復活(29節)
二つ目のことをお話しします。この苦悩の中で、最初に話しました13節の「しかし」があって、どれだけ苦しみが大きくても、「私はあなたに祈ります」と神様への信頼の言葉。また16節でも、「あなたの恵みはまことに深いのです」と信仰を表明しているのです。苦悩の祈りの中に信仰が始まっている。この信仰の故に、最後には29節の後半。
29 神よ。御救いが私を高くあげてくださるように。
泥沼に陥っていた自分を、神様が泥沼から救い出すだけでなく、高くあげて神の栄光を示してくださる。「大水の底」という言葉も14節で使われています。泥や水が苦しみを象徴しているなら、大水の底とは死の世界です。旧約聖書では地の下に死の世界があると人々は考えていました。その死の世界から神様は救い出してくださり、高く上げてくださるのです。
イエス様は敵によって苦しめられ、ついには十字架につけられてしまった。普通なら、そこでおしまいです。自分を苦しめた者を呪って死ぬかもしれない。でもイエス様はその十字架の上で、まるで父なる神様から見捨てられたかのような苦悩を味わいながら、最後には「父よ、私の魂をあなたに委ねます」と言って息を引き取られた。最後まで信頼の心を失わなかった。だから父なる神様も決して見捨てないで、死の世界から引き上げてくださり、復活させてくださったのです。神様への信頼、それが信仰です。
天国も、信仰によります。イエス様をよみがえらせた父なる神様が、イエス様を信じ従う私たちを見捨てるはずがない。きっと死んだ後も助けてくださる。復活されたイエス様が、その後、天に昇られたように、私たちのことも天に引き上げて、神様が治めておられる国、神の国、それが天国です。その天国に私たちを受け入れてくださる。これは神様を信頼しているからこそ、そう言うことができる。本当にそんなことができるのか。それは、イエス・キリストを死者の中から引き上げる力のある神様だからできるはずだ。イエス様の復活を信じるから天国を信じるのです。
3.天国の約束(36節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。少し専門的な話をしますと、詩篇の書かれた旧約聖書の時代には、正確には、まだ復活ということは分かっていなかった。新約聖書の時代になったころには復活という理解ができるようになったのですが、旧約時代には、死んだあとはよくわからないけれど、死んでも、神様ならどうにかしてくださることができる、と信じていた。ですから、この詩篇の中に描かれていることも、具体的には復活そのものではなく、でも彼らの信仰は復活へと向かうものだった、ということです。では、彼らは何を見ていたのか、と言いますと、それは国の復活です。詩篇は数百年間の間に積み重ねられてきた、信仰者たちの祈りと賛美です。その歴史の中で、一度イスラエルは滅亡します。戦争に負けて人々は捕虜となってバビロン帝国に連れていかれ、このまま民族としても消えていく運命でした。しかしイザヤをはじめとする預言者たちが、イスラエルは罪のために亡びるときが来るけれども、連れていかれた外国から、いつの日か戻ってくる、と預言した。その言葉を彼らは信じて、とうとうエルサレムに帰ることができた。死んだも同然の国が復活したのです。36節。
36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。
主のしもべとは、神様に従う信仰者たちです。御名とは神様のことを指していて、神様を愛し、信頼する者たちです。彼らは地を受け継ぎ、そこにいつまでも住むことができる。これは、やがて天国の約束となっていくのです。「地を受け継ぐ」というのは、直接的には約束の地、カナンの地のことですが、同じ言葉が新約聖書にもつながっています。
マタイの福音書の5章に「山上の垂訓」というのは古い言い方で、山上の教えとか山上の説教とも言いますが、マタイ5章3節から。
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
有名な言葉で、天の御国は天国のことです。さらに5節に
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
地上においては地を受け継ぎ、地上の人生が終わったら、それは天の御国に行くことができる。これが新約聖書で明らかにされたことです。
ここで、心の貧しい者とは何でしょう。簡単に言うと、自分の足らなさを知っている人です。苦難に遭ったとき、自分ではどうすることもできないと知っている。だから、神様に祈るのです。自分でどうにかできると思っているうちはなかなか解決せず、むしろ泥沼に陥っていきます。でも神様に祈るとき、詩篇の祈りのように、祈りはやがて賛美、それは天国の賛美に変えられていくのです。ですから祈る人は天国に一番近いのです。
まとめ.
召天者記念礼拝では、亡くなられた方々の写真をかざり、最近はプロジェクターで映すようになっています。懐かしい方々です。でも、過去の人なのではなく、未来に天国でまた会える。だから私たちも希望を持って生きる。その秘訣は、つらい時、苦しい時、悲しい時でも、神様を信頼して祈りつつ歩むことです。私たちも天国で神様に感謝し、神様を褒めたたえる者となることを信じていきましょう。
2022年01月30日
1月30日召天者記念礼拝説教「苦難から天国へ」詩篇69:13〜18(69篇)
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2022年01月23日
1月23日礼拝説教「忘れない」申命記8:2〜8
1月23日礼拝説教「忘れない」申命記8:2〜8
今日は信徒による証し礼拝ということで、牧師からの説教は無しの予定でしたが、新型コロナの感染拡大の中、万が一のことを考えて短いメッセージを用意させていただきました。(実際、最初に証しを頼んだ方がやむを得ない事情で出席できなくなり、急遽、ピンチヒッターをお願いした経緯があります。)また証し者が原稿を一週間前に準備することは大変ですので、郵送された印刷物を用いて礼拝を守っておられる方々のためにも説教原稿が必要だということに気がつかされたこともあります。ですので、インターネット礼拝では読まれないかもしれませんが、短いお勧めをさせていただきます。
今日のお証しについては、コロナ禍にある恵みについてお話いただくようにお願いしました。まだコロナが終わったわけではありません。むしろ、第6波がいつ収まるか分からない。でも、必ず波は静まる時が来ることも私たちは知っています。いつか、どのような形でも、今の状況が終わって以前のように、あるいは新しい形になっていったとき、教会では、コロナが終わって良かったということで、これまでのことが無かったかのように忘れてしまうのではなく、その中で神様が与えてくださった恵み、神様が良くしてくださったことを何一つ忘れないために、記録にとり、一人一人の証しを書いていただいて、後代の方たちに証しを残したい。そして神様の御名が崇められることを願っています。
今日、朗読しました聖書の箇所は、申命記です。これはエジプトから救い出されたイスラエルの民が、でも彼らの罪のために40年間荒野をさまようことになってしまった。その40年の最後にモーセが人々に語ったメッセージが申命記です。2節に
2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
旅の記録を忘れない。それはどこを通ってきたかという地理的なことだけでなく、どこででも、またいつでも、神様の恵みがあったことを忘れない、ということです。荒野ですから水も無い、食べ物もない。ですから人々は神様に不平を言って逆らいました。でも神様は彼らが生きることができるように、必要なものを与えてくださった。時には岩から水が出ました。天からのパンと呼ばれるマナを与えてくださったことが3節に書かれています。
3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたに分からせるためであった。
この3節の後半にある、「人はパンのみで生きるにあらず」という言葉は、それだけが有名になっていますが、その前後も大切だということは言うまでもありません。そして、4節。
4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
四十年間の途中では気がついていなかった。マナのことは毎日繰り返されますから記憶にありましたが、着物や靴のことはなかなか気がつかなかったのでしょう。地味で小さな、でも素晴らしい奇跡です。神様の守りは、気がつかないところにもあるのです。
神様の恵みというと、わかりやすい、目立つところに目が行きがちですが、本当は水面下の氷ではありませんが、もっとたくさんある。自分では気がつかないことを、他の人の証しを聞いて、そういえば私も、と思い当たるのです。コロナ禍の二年間、大変なこと、不便なこと、たくさんありました。その中で、私たちもイスラエルの民と同じで、不平不満が口に出さないまでも心に浮かんだかもしれません。でも、こうして今、自分があるのは、神様の恵みと守りがあったから。そのことを忘れないために、小さな恵みも思いおこしていきたいのです。
5節の、「主があなたを訓練される」という言葉は、私たちが味わう苦難は全て主の訓練であるとか、コロナ禍を与えたのは神様であり、訓練だった、と簡単に言うことではありません。でも、同じ出来事を体験しながら、ある人は嫌なことばかりが記憶に残るかもしれないし、ある人は良かったことを思い出せるかもしれない。どのように受け止めるか、です。苦しかったことも訓練ですし、良かったことも、それを自分の功績にするのではなくて神様に感謝することを忘れないための良いことだと考えるなら、良いことも訓練です。神様は私たちがどこを歩む時にも、その道で共にいてくださり、必要なことを備えておられ、さらに私たちが成長し、教会が建てあげられていくように計画していてくださるのです。ですから、今はまだ途中ですが、コロナ禍にあっても神様の導きを信じて、感謝と信頼をささげましょう。神様がモーセに率いられたイスラエルを約束された良い地に導き入れてくださったように、神様は私たちも祝福の地へと招いていてくださる。ですから、今の毎日の旅路を、無駄にせず、信仰をもって進んで行きましょう。
今日は信徒による証し礼拝ということで、牧師からの説教は無しの予定でしたが、新型コロナの感染拡大の中、万が一のことを考えて短いメッセージを用意させていただきました。(実際、最初に証しを頼んだ方がやむを得ない事情で出席できなくなり、急遽、ピンチヒッターをお願いした経緯があります。)また証し者が原稿を一週間前に準備することは大変ですので、郵送された印刷物を用いて礼拝を守っておられる方々のためにも説教原稿が必要だということに気がつかされたこともあります。ですので、インターネット礼拝では読まれないかもしれませんが、短いお勧めをさせていただきます。
今日のお証しについては、コロナ禍にある恵みについてお話いただくようにお願いしました。まだコロナが終わったわけではありません。むしろ、第6波がいつ収まるか分からない。でも、必ず波は静まる時が来ることも私たちは知っています。いつか、どのような形でも、今の状況が終わって以前のように、あるいは新しい形になっていったとき、教会では、コロナが終わって良かったということで、これまでのことが無かったかのように忘れてしまうのではなく、その中で神様が与えてくださった恵み、神様が良くしてくださったことを何一つ忘れないために、記録にとり、一人一人の証しを書いていただいて、後代の方たちに証しを残したい。そして神様の御名が崇められることを願っています。
今日、朗読しました聖書の箇所は、申命記です。これはエジプトから救い出されたイスラエルの民が、でも彼らの罪のために40年間荒野をさまようことになってしまった。その40年の最後にモーセが人々に語ったメッセージが申命記です。2節に
2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
旅の記録を忘れない。それはどこを通ってきたかという地理的なことだけでなく、どこででも、またいつでも、神様の恵みがあったことを忘れない、ということです。荒野ですから水も無い、食べ物もない。ですから人々は神様に不平を言って逆らいました。でも神様は彼らが生きることができるように、必要なものを与えてくださった。時には岩から水が出ました。天からのパンと呼ばれるマナを与えてくださったことが3節に書かれています。
3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたに分からせるためであった。
この3節の後半にある、「人はパンのみで生きるにあらず」という言葉は、それだけが有名になっていますが、その前後も大切だということは言うまでもありません。そして、4節。
4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
四十年間の途中では気がついていなかった。マナのことは毎日繰り返されますから記憶にありましたが、着物や靴のことはなかなか気がつかなかったのでしょう。地味で小さな、でも素晴らしい奇跡です。神様の守りは、気がつかないところにもあるのです。
神様の恵みというと、わかりやすい、目立つところに目が行きがちですが、本当は水面下の氷ではありませんが、もっとたくさんある。自分では気がつかないことを、他の人の証しを聞いて、そういえば私も、と思い当たるのです。コロナ禍の二年間、大変なこと、不便なこと、たくさんありました。その中で、私たちもイスラエルの民と同じで、不平不満が口に出さないまでも心に浮かんだかもしれません。でも、こうして今、自分があるのは、神様の恵みと守りがあったから。そのことを忘れないために、小さな恵みも思いおこしていきたいのです。
5節の、「主があなたを訓練される」という言葉は、私たちが味わう苦難は全て主の訓練であるとか、コロナ禍を与えたのは神様であり、訓練だった、と簡単に言うことではありません。でも、同じ出来事を体験しながら、ある人は嫌なことばかりが記憶に残るかもしれないし、ある人は良かったことを思い出せるかもしれない。どのように受け止めるか、です。苦しかったことも訓練ですし、良かったことも、それを自分の功績にするのではなくて神様に感謝することを忘れないための良いことだと考えるなら、良いことも訓練です。神様は私たちがどこを歩む時にも、その道で共にいてくださり、必要なことを備えておられ、さらに私たちが成長し、教会が建てあげられていくように計画していてくださるのです。ですから、今はまだ途中ですが、コロナ禍にあっても神様の導きを信じて、感謝と信頼をささげましょう。神様がモーセに率いられたイスラエルを約束された良い地に導き入れてくださったように、神様は私たちも祝福の地へと招いていてくださる。ですから、今の毎日の旅路を、無駄にせず、信仰をもって進んで行きましょう。
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2022年01月16日
1月16日礼拝説教「力ある神を賛美しよう」詩篇68:1〜4(68篇)
1月16日礼拝説教「力ある神を賛美しよう」詩篇68:1〜4(68篇)
今、詩篇を順番にお話ししておりますが、礼拝だけでなく、他の集会でも詩篇を開いています。家庭集会の一元会では、私が池の上教会に赴任するより前から毎月一回、詩篇を一つずつ学んできて、あと少しで最後まで行きそうです。祈祷会でも最初のころに詩篇を開いて、こちらは毎週ですから3年ほどで最後まで行きました。そして、水曜日のグレース会では月に一回か二回、聖書講義で詩篇を学んでいるところで、先月、第二巻最後の第72篇を終えたところです。この聖書講義では礼拝ではお話しするのが難しい学問的なことも少し含めながら、その詩篇全体を学んでいます。その時、いくつもの日本語訳を見比べることもあり、古い翻訳と最近の翻訳とで違いがある場合は少なくありません。どちらが正しいということではなく、詩篇は様々な読み方ができるほどに内容が豊かであるということだと思います。今日、取り上げています詩篇68篇は、教会で使っています新改訳第三版では、1節の最初は、「神よ。立ち上がってください」となっていて、神様にお願いしている、すなわち祈りの言葉となっています。ところが、一番新しい聖書協会共同訳では「神は立ち上がり、敵を散らす」と、お願いというよりも、神様がそうしてくださる、という事実を語っている。その事実に基づいて神様への賛美が始まっていく。新改訳2017でも同じような訳です。祈りなのか、賛美なのか。実は、原文のヘブル語は不思議な文法を使っていて、事実とも願いとも、どちらにも訳すことができる。今日は最初から難しい話をしてしまい、すみません。でも、祈りか、賛美か、というのはとても大切なことです。詩篇に含まれている150の詩の多くは祈りです。苦しい時に神様に嘆きつつ、救いを求めて祈る。でも、その祈りは、やがて信仰となり、神様がその祈りに応えてくださって救われたとき、感謝と賛美の歌となっていく。後から最初の祈りを振り返ると、願いの言葉だと思って語ったことは、「立ち上がってください」が、最後には本当に神が立ち上がってくださり、救ってくださったのだとわかるようになる。ですから祈りの言葉であるし、賛美の言葉にもなっていく。とても不思議なことですが、信仰とはそういうことです。
これ以上、このことを話していますと、本論に入れませんので、今日は、4節で「神に向かって歌い、御名をほめ歌え」とあるように、「力ある神を賛美しよう」という題で、いつものように三つのポイントで。第一に「救いの神を賛美しよう」、第二に「礼拝の神を賛美しよう」、そして最後に「世界に賛美を呼びかけよう」という順番で進めてまいります。
1.救いの神を賛美しよう(1〜14節)
さて、68篇は比較的長い詩篇ですので、全部を細かく説明することはしませんが、大きく分けて、1節から14節は、神様がしてくださったことをふまえて賛美の言葉を述べています。先ほども少し触れましたが、1節から2節は願いの言葉であり、事実でもありますが、神様が立ち上がって敵を追い払ってくださることが語られています。神様は救いの神様です。当時の国々は敵によって苦しめられることが度々あり、その敵の力から救ってくださるのが神様の御力です。救いは敵国の軍隊からの救いだけではありません。5節。
5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
神様はみなしごややもめといった社会的な弱者を守ってくださるお方です。孤独な人に暖かい家庭を与え、戦争で負けて捕虜となった人たちを助け出してくださる。読みませんが、7節、8節は出エジプトのことをイメージして語っています。9節、10節はヨシュア記の時代に約束の地が与えられたこと。12節も敵の王たちからの救いです。また雨を降らせ、豊かな収穫を与えることも含まれているかもしれない。神様の救いは一度だけエジプトの奴隷だったところから救い出してくださっただけでなく、イスラエルの歴史において何度も救ってくださった。救いの神様なのです。
例をあげたらきりがないでしょう。むしろ、後は、この詩篇を読んだ私たちが考えるのです。神様は様々なことから私たちを救い、守り、助けてきてくださった。それを、心の内側にしまい込むのではなく、証しし、賛美と感謝をささげることで、他の人たちにも救いの神様を知ってもらうのです。神様は私たちをも、どんな問題があっても、どんな困難に襲われても、神様は私たちを救うことがおできになる。祈って助けを求めたなら、必ず祈りに応えて、嘆きを賛美に変えてくださるのです。このことを、私たちも証ししましょう。祈りは賛美に変えられるからです。
2.礼拝の神を賛美しよう(15〜31節)
二つ目のことをお話ししてまいります。14節と15節には地名が書かれていて、16節。
16 峰々の連なる山々。なぜ、おまえたちは神がその住まいとして望まれたあの山を、ねたみ見るのか。まことに、主はとこしえに住まわれる。
他の山々とは違い、あの山、これはエルサレムのことです。神様はエルサレムに住んでくださる。特に神殿のあるシオンの丘のことです。ソロモン王が神殿を完成させたときに祈ったのは、人々が神殿に向かって神様に祈ったなら、その祈りを聞き入れてください、ということでした。また敵が攻撃してきても、神様に祈って、敵の手から救ってくださる。また捕囚から連れ戻してくださる。そのことが17節から23節くらいまで述べられています。24節。
24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。
25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。
この行列は、ダビデが敵を打ち破ってエルサレムに凱旋した行列とも考えることはできますが、むしろダビデが十戒の板の入った契約の箱を携えてエルサレムに登った時の行列を思い起こさせます。救いの神様を人々は個人的に好きな場所で祈りと賛美をささげただけでなく、イスラエルの十二部族が一つとなって神様を礼拝したのです。神様がしてくださった恵みの御業の数々も素晴らしいことですが、このお方を、小さな者が礼拝することこそが素晴らしい御業です。救われた者たちが礼拝をささげて神様への賛美の言葉を証しするとき、神の栄光はさらに広がっていくのです。
この詩篇がどのような事件の時に作られたかはわかりませんが、この後の時代の人々は、この詩篇に教えられ、まるでダビデの行列に付き従うかのように、各地から神様を礼拝するためにエルサレムへと向かう。それは神様が連れ出してくださったからであり、神の民が礼拝をささげるのも、神様が召し出されたからです。礼拝は人間のものではなく、神様のもので、私たちも礼拝に招かれている。27節には各部族のリーダーたちが行列に加わり、そして29節。
29 エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。
王たち、さらに31節では外国からも礼拝者が上ってくる。神様こそ、礼拝を受けるに相応しいお方です。私たちも、時代も国も違いますが、神様に召されて礼拝者となって、神の家に向かって日々歩み、兄弟姉妹と共に歩み、賛美をささげるものでありましょう。
3.世界に賛美を呼びかけよう(28〜35節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。29節でエルサレムの宮に向かって王たちが贈り物を携えてくる。それも礼拝のためですが、このことは、祈っても直ちに適えられるものではない。イザヤ書やミカ書でも、世界中の民や王たちがエルサレムに礼拝するために上ってくる日が来ることを預言していますが、それが文字通りに実現するのは世の終わり、終末の日の祝福を語っているのです。今はまだ全世界ではありませんが、私たち自身も世界中の民の一人として礼拝をささげている。では、どうしたら世界中の人々が救いの神を礼拝するようになるか。そのカギとなるのが、イエス様の宣教命令です。マタイの福音書28章19節。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
このイエス様の言葉が弟子たちによって実現していくのが、新約聖書の時代です。この命令であり約束でもある宣教命令に従う人達が世界中に、また遠くの人だけでなく近くの人にも証しが伝えられているのです。約束の御言葉とて、使徒の働き1章8節では
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」
このイエス様の命令であり約束のことばの通りに、ペンテコステの日から福音がエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤの全土、そして外国にも伝えられ、今、地の果てに住んでいる私たちも復活の証言を聞いているのです。ですから、今、私たちがこうしてここにいるのも、イエス様が命じられた言葉、神の計画のうちに私たちはいるのです。
このように詩篇から始まり、預言者たち、新約聖書と読み解いていくとき、今、私たちが神様を礼拝しているのは、単なる偶然ではない。人間の力でもない。神様が召し出し、救いの恵みに与らせてくださったからこそ、礼拝が捧げられている。神の計画の中に私たちもいるのです。そして、神様は私たちさえも用いて証しを広げさせ、また各国からの巡礼の行列に加えて礼拝をさせてくださり、今はコロナ禍という宣教の難しい状況にあっても、お一人お一人の証しが身近な人に伝えられ、またインターネットなどの新しい方法でさえも神様を用いることができるお方であって、世界宣教の足取りは決して止まってはいないのです。
この詩篇、68篇は、最初のほうで、敵に苦しめられている敗北者、あるいは社会的な弱者であった人たちが、祈りから感謝に変えられ、この救いの神をほめたたえる賛美者に変えられていく。この詩篇の言葉は今も真実なのです。32節。
32 この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。
この御言葉は世界中の人たちへの呼びかけです。賛美の呼びかけです。私たちも呼びかけられて、今、ここにいる。だから、これからも、今度は私たちが世界中の人たちに呼び掛けていく役目を与えられているのです。
まとめ.
この原稿を書いている先週末は第六波が始まったという人もいて、予断が許さない状況はまだ続きます。個人個人も、様々な困難や試練はこれからもあるでしょう。だからこそ、私たちは御言葉を信じ、力をいただき、神を見上げていきましょう。35節。
35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。
今、詩篇を順番にお話ししておりますが、礼拝だけでなく、他の集会でも詩篇を開いています。家庭集会の一元会では、私が池の上教会に赴任するより前から毎月一回、詩篇を一つずつ学んできて、あと少しで最後まで行きそうです。祈祷会でも最初のころに詩篇を開いて、こちらは毎週ですから3年ほどで最後まで行きました。そして、水曜日のグレース会では月に一回か二回、聖書講義で詩篇を学んでいるところで、先月、第二巻最後の第72篇を終えたところです。この聖書講義では礼拝ではお話しするのが難しい学問的なことも少し含めながら、その詩篇全体を学んでいます。その時、いくつもの日本語訳を見比べることもあり、古い翻訳と最近の翻訳とで違いがある場合は少なくありません。どちらが正しいということではなく、詩篇は様々な読み方ができるほどに内容が豊かであるということだと思います。今日、取り上げています詩篇68篇は、教会で使っています新改訳第三版では、1節の最初は、「神よ。立ち上がってください」となっていて、神様にお願いしている、すなわち祈りの言葉となっています。ところが、一番新しい聖書協会共同訳では「神は立ち上がり、敵を散らす」と、お願いというよりも、神様がそうしてくださる、という事実を語っている。その事実に基づいて神様への賛美が始まっていく。新改訳2017でも同じような訳です。祈りなのか、賛美なのか。実は、原文のヘブル語は不思議な文法を使っていて、事実とも願いとも、どちらにも訳すことができる。今日は最初から難しい話をしてしまい、すみません。でも、祈りか、賛美か、というのはとても大切なことです。詩篇に含まれている150の詩の多くは祈りです。苦しい時に神様に嘆きつつ、救いを求めて祈る。でも、その祈りは、やがて信仰となり、神様がその祈りに応えてくださって救われたとき、感謝と賛美の歌となっていく。後から最初の祈りを振り返ると、願いの言葉だと思って語ったことは、「立ち上がってください」が、最後には本当に神が立ち上がってくださり、救ってくださったのだとわかるようになる。ですから祈りの言葉であるし、賛美の言葉にもなっていく。とても不思議なことですが、信仰とはそういうことです。
これ以上、このことを話していますと、本論に入れませんので、今日は、4節で「神に向かって歌い、御名をほめ歌え」とあるように、「力ある神を賛美しよう」という題で、いつものように三つのポイントで。第一に「救いの神を賛美しよう」、第二に「礼拝の神を賛美しよう」、そして最後に「世界に賛美を呼びかけよう」という順番で進めてまいります。
1.救いの神を賛美しよう(1〜14節)
さて、68篇は比較的長い詩篇ですので、全部を細かく説明することはしませんが、大きく分けて、1節から14節は、神様がしてくださったことをふまえて賛美の言葉を述べています。先ほども少し触れましたが、1節から2節は願いの言葉であり、事実でもありますが、神様が立ち上がって敵を追い払ってくださることが語られています。神様は救いの神様です。当時の国々は敵によって苦しめられることが度々あり、その敵の力から救ってくださるのが神様の御力です。救いは敵国の軍隊からの救いだけではありません。5節。
5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
神様はみなしごややもめといった社会的な弱者を守ってくださるお方です。孤独な人に暖かい家庭を与え、戦争で負けて捕虜となった人たちを助け出してくださる。読みませんが、7節、8節は出エジプトのことをイメージして語っています。9節、10節はヨシュア記の時代に約束の地が与えられたこと。12節も敵の王たちからの救いです。また雨を降らせ、豊かな収穫を与えることも含まれているかもしれない。神様の救いは一度だけエジプトの奴隷だったところから救い出してくださっただけでなく、イスラエルの歴史において何度も救ってくださった。救いの神様なのです。
例をあげたらきりがないでしょう。むしろ、後は、この詩篇を読んだ私たちが考えるのです。神様は様々なことから私たちを救い、守り、助けてきてくださった。それを、心の内側にしまい込むのではなく、証しし、賛美と感謝をささげることで、他の人たちにも救いの神様を知ってもらうのです。神様は私たちをも、どんな問題があっても、どんな困難に襲われても、神様は私たちを救うことがおできになる。祈って助けを求めたなら、必ず祈りに応えて、嘆きを賛美に変えてくださるのです。このことを、私たちも証ししましょう。祈りは賛美に変えられるからです。
2.礼拝の神を賛美しよう(15〜31節)
二つ目のことをお話ししてまいります。14節と15節には地名が書かれていて、16節。
16 峰々の連なる山々。なぜ、おまえたちは神がその住まいとして望まれたあの山を、ねたみ見るのか。まことに、主はとこしえに住まわれる。
他の山々とは違い、あの山、これはエルサレムのことです。神様はエルサレムに住んでくださる。特に神殿のあるシオンの丘のことです。ソロモン王が神殿を完成させたときに祈ったのは、人々が神殿に向かって神様に祈ったなら、その祈りを聞き入れてください、ということでした。また敵が攻撃してきても、神様に祈って、敵の手から救ってくださる。また捕囚から連れ戻してくださる。そのことが17節から23節くらいまで述べられています。24節。
24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。
25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。
この行列は、ダビデが敵を打ち破ってエルサレムに凱旋した行列とも考えることはできますが、むしろダビデが十戒の板の入った契約の箱を携えてエルサレムに登った時の行列を思い起こさせます。救いの神様を人々は個人的に好きな場所で祈りと賛美をささげただけでなく、イスラエルの十二部族が一つとなって神様を礼拝したのです。神様がしてくださった恵みの御業の数々も素晴らしいことですが、このお方を、小さな者が礼拝することこそが素晴らしい御業です。救われた者たちが礼拝をささげて神様への賛美の言葉を証しするとき、神の栄光はさらに広がっていくのです。
この詩篇がどのような事件の時に作られたかはわかりませんが、この後の時代の人々は、この詩篇に教えられ、まるでダビデの行列に付き従うかのように、各地から神様を礼拝するためにエルサレムへと向かう。それは神様が連れ出してくださったからであり、神の民が礼拝をささげるのも、神様が召し出されたからです。礼拝は人間のものではなく、神様のもので、私たちも礼拝に招かれている。27節には各部族のリーダーたちが行列に加わり、そして29節。
29 エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。
王たち、さらに31節では外国からも礼拝者が上ってくる。神様こそ、礼拝を受けるに相応しいお方です。私たちも、時代も国も違いますが、神様に召されて礼拝者となって、神の家に向かって日々歩み、兄弟姉妹と共に歩み、賛美をささげるものでありましょう。
3.世界に賛美を呼びかけよう(28〜35節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。29節でエルサレムの宮に向かって王たちが贈り物を携えてくる。それも礼拝のためですが、このことは、祈っても直ちに適えられるものではない。イザヤ書やミカ書でも、世界中の民や王たちがエルサレムに礼拝するために上ってくる日が来ることを預言していますが、それが文字通りに実現するのは世の終わり、終末の日の祝福を語っているのです。今はまだ全世界ではありませんが、私たち自身も世界中の民の一人として礼拝をささげている。では、どうしたら世界中の人々が救いの神を礼拝するようになるか。そのカギとなるのが、イエス様の宣教命令です。マタイの福音書28章19節。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
このイエス様の言葉が弟子たちによって実現していくのが、新約聖書の時代です。この命令であり約束でもある宣教命令に従う人達が世界中に、また遠くの人だけでなく近くの人にも証しが伝えられているのです。約束の御言葉とて、使徒の働き1章8節では
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」
このイエス様の命令であり約束のことばの通りに、ペンテコステの日から福音がエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤの全土、そして外国にも伝えられ、今、地の果てに住んでいる私たちも復活の証言を聞いているのです。ですから、今、私たちがこうしてここにいるのも、イエス様が命じられた言葉、神の計画のうちに私たちはいるのです。
このように詩篇から始まり、預言者たち、新約聖書と読み解いていくとき、今、私たちが神様を礼拝しているのは、単なる偶然ではない。人間の力でもない。神様が召し出し、救いの恵みに与らせてくださったからこそ、礼拝が捧げられている。神の計画の中に私たちもいるのです。そして、神様は私たちさえも用いて証しを広げさせ、また各国からの巡礼の行列に加えて礼拝をさせてくださり、今はコロナ禍という宣教の難しい状況にあっても、お一人お一人の証しが身近な人に伝えられ、またインターネットなどの新しい方法でさえも神様を用いることができるお方であって、世界宣教の足取りは決して止まってはいないのです。
この詩篇、68篇は、最初のほうで、敵に苦しめられている敗北者、あるいは社会的な弱者であった人たちが、祈りから感謝に変えられ、この救いの神をほめたたえる賛美者に変えられていく。この詩篇の言葉は今も真実なのです。32節。
32 この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。
この御言葉は世界中の人たちへの呼びかけです。賛美の呼びかけです。私たちも呼びかけられて、今、ここにいる。だから、これからも、今度は私たちが世界中の人たちに呼び掛けていく役目を与えられているのです。
まとめ.
この原稿を書いている先週末は第六波が始まったという人もいて、予断が許さない状況はまだ続きます。個人個人も、様々な困難や試練はこれからもあるでしょう。だからこそ、私たちは御言葉を信じ、力をいただき、神を見上げていきましょう。35節。
35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。
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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0)
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