2021年12月19日

12月19日クリスマス礼拝説教「どこにおられますか」マタイ2:2(マタイ2:1〜11)

12月19日クリスマス礼拝説教「どこにおられますか」マタイ2:2(マタイ2:1〜11)
クリスマスを前にした一ヶ月ほどの期間をアドベントといって、クリスマスへと準備が行われます。飾り付けもその一つです。今年は教会堂の玄関に聖家族の人形が飾られていますが、肝心のイエス様がいない。「あれ、イエス様、どこに行ってしまったの」と不思議に思われた方もいらっしゃったでしょう。アドベントはイエス様の誕生を待ち望む時なので、クリスマスになって初めてイエス様の人形が登場する、ということです。
今日はクリスマス礼拝ですので、今年のクリスマスはどこからお話ししようかと考えていたのですが、マタイの福音書の2章、特に2節の言葉です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」。救い主はどこにおられ、どういうお方なのか。ご一緒に考えてまいりましょう。
いつものように三つに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「世界を救う王」ということ。第二に「恐れと不信の人々」、そして第三に「救い主に会う喜び」という順序で進めてまいります。
1.世界を救う王(1章、2:1〜2)
新約聖書には四つの福音書があって、それぞれが特徴を持ってキリストを描いています。マタイの福音書のクリスマスは、旧約聖書との結びつきが特徴の一つです。開かなくて結構ですが、1章は、まず系図から始まり、初めて新約聖書を読もうと思う人にはカタカナばかり続くページは読む気を削いでしまうかもしれませんが、この系図は旧約聖書を読んできた人にはイスラエルの歴史を振り返るもので、旧約聖書の歴史に予告されてきた救い主の誕生であることを表しています。そして1章の後半は、旧約の預言者の言葉、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言者イザヤの言葉が引用され、神様が預言された救い主であることを記しています。そして、今日、お話しします、2章の最初の部分にも、6節ですが、預言者ミカの言葉が出てきます。
この預言された救い主のことは旧約聖書を通してイスラエルの民に知らされていましたが、神様は全世界の神ですから、他の民族にも知らせようとされ、聖書の神様を良く知らない人たちのために、特別な方法を用いられた。それが2章1節に出てくる「東方の博士たち」です。彼らは、おそらく占星術のような学問、現代で言うところの天文学のようなことを学んでいたのでしょう。(聖書は占いやまじないを禁じていますが、聖書を知らない彼らのために、神様は彼らの学びを使って教えてくださったのでしょう。)彼らは特別な星を見いだして、それがユダヤで王が生まれることを意味すると知りました。ただの王ではありません。世界中のあちこちの国に王はいます。でも星に示されるくらいですから、特別な王であり、全世界に影響が及ぶ王です。ですから、この博士たちは王に会うためにわざわざ旅をしてきたのです。
「ユダヤ人の王として生まれた」というのも不思議な表現です。王の子供たちのうちの誰かが後を継ぐというのではなく、生まれた時から王だということです。赤ちゃんであっても王なのです。それほどに特別なお方なので、博士たちは「拝みにまいりました」と言います。これは礼拝を意味します。イスラエルでは人間を礼拝することはしません。神様だけです。王様は神様が国を治めるために遣わした存在ですから、普通以上の尊敬を表すので、その前にひれ伏すということもするでしょう。彼らは聖書のことを良く知らなかったでしょうが、私たちはすでに旧新約聖書を与えられていますから、この特別な王とは、神の御子である救い主、私たちの主であり王であるお方だと知っています。ですからなおさらこのお方を礼拝します。
クリスマスという言葉の意味は、キリストを礼拝することです。私たちの楽しみのために過ごすことはおまけであって、一番大切なことはイエス様を礼拝し、イエス様の前にひれ伏して、イエス様の僕となることです。イエス様は私の王です。このお方を中心としてクリスマスを祝いましょう。
2.恐れと不信の人々(2:3〜8)
二つ目のことをお話しします。東方の博士たちが素晴らしいニュースを伝えたのですが、エルサレムの人々は恐れ惑ったと書かれています。恐れて動揺したのはなぜか。ヘロデ大王は自分の地位を脅かす存在が登場したことを恐れます。彼は家族であっても自分の邪魔になる者は殺してしまうような恐ろしい王でした。エルサレムの人々も恐れた。それは、違う王様が登場することで政治が混乱するからかも知れませんが、ヘロデ王にこびへつらい、甘い汁を吸っていた者たちは自分の利益が脅かされます。彼らは素晴らしいニュースを聞いても喜ばなかったのです。
「どこで生まれたのですか」という疑問に答えたのは、祭司長や律法学者たち、旧約聖書の専門家でした。彼らには知識がありました。ミカ書に書かれている預言を即座に答えた。救い主はベツレヘムで生まれます。でも彼らは知識はあっても信仰が無かった。ですから、神様が預言された言葉を知っていても、その言葉に従って、生まれたお方に従おう、会いに行こう、とはしなかったのです。
クリスマスを本当の意味で祝うには、自分の地位や利益だけを考える自己中心ではダメです。不信仰でもいけません。世の中でも多くの人がクリスマスを祝いますが、でもそこに利己主義や快楽が伴うとき、本物のクリスマスにはならないのです。一時的に楽しむことはできても、終われば空しくなる。イエス様を私の王として心にお迎えするとき、神様からの喜びが与えられるのです。自己中心な生き方、それを聖書は罪だと教えますが、その罪から救うために来てくださったイエス様を王として心に迎えたとき、自分が中心ではなく、キリストが中心となります。このお方を信頼して従う者となりましょう。
3.救い主に会う喜び(2:9〜11)
三つ目のことをお話しします。9節から少し読ませていただきます。
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

何週間、何ヶ月もかけて旅をするのも大きな犠牲を払ってでも、博士たちはキリストを求めて来た。神様も救いを求める者には助けをくださいます。星の動きを通して、ついにイエス様のところに導かれたのです。イエス様に会う前から、彼らは神様が自分たちを導いてくださったこと、その星を見て喜んだ。そして実際に王なる幼子を見て、どれほど喜んだでしょう。いいえ、思わず、その前にひれ伏した。喜び以上に、聖なる思いを感じた。掛け買いの無い体験です。彼らは宝物を献げました。全財産かはわかりませんが、自分たちの持っている最高のものを献げた。それは、神様が大きなプレゼントを与えてくださったからです。
今日は第二礼拝で洗礼式を行います。教会にとって大きな喜びです。受洗者たちにとっても喜びの日です。でも、今日だけが喜びではありません。今日に至るまで、神様が導いてきてくださった。子供たちをこのご家族に生まれさせてくださり、一緒に教会へと導いてくださいました。また何人ものクリスチャン(JKのスタッフ)を通してイエス様のことを教わることができたのも神様の導きです。そして、これからも同じ神様の導きに従って歩んでいただきたいと願っています。
でも、一番素晴らしいプレゼントは、イエス様ご自身です。私を救うためにこの世に来てくださった神の御子です。私の罪を赦すために十字架にかかってくださり、私たちに新しい命、永遠の命を与えるために復活されたお方です。このお方が私たちに与えられたクリスマスの恵みであることを忘れないでいただきたい。そして、博士たちがしたように、私たちも主にお会いできたことを喜び、自分の一番大切な自分自身をお献げして、他の楽しいこと以上の、神様からの喜びに満たされる者とならせていただきましょう。
まとめ.
ネイティビティの人形では、赤ちゃんイエス様はクリスマスに登場しますが、もちろん、もうイエス様はこの世に来てくださった。その意味ではクリスマスの出来事は過去です。でも、もう終わってしまったこと、自分とは無関係なことではありません。イエス様を信じる人の心の中にイエス様が共にいてくださいます。「そのお方はどこにおいでになりますか」。イエス様は共にいてくださいます。では、私はどこにいるでしょうか。私は、イエス様を心にお迎えして、心から礼拝を献げているでしょうか。クリスマスにもう一度、イエス様を王としてお迎えする、イエス様の前にひれ伏す者となりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教