2021年12月05日

12月5日礼拝説教「恵みの雨が注がれる」詩篇65:9〜13(65篇)

12月5日礼拝説教「恵みの雨が注がれる」詩篇65:9〜13(65篇)
序.何日も雨が降らないと草木もしおれてしまいます。そんな時に雨が降ると、その雨は「恵みの雨」と呼ばれます。私たちの心が乾いて力を失うときに、神様は恵みの雨を注いで潤してくださり、成長させてくださり、収穫へと導いてくださいます。でも、私たちにとっての恵みの雨とは、どんなものでしょうか。何が私たちの心に必要なのでしょうか。神様は私たちの必要を一番ご存じです。私たちは時には本当は必要ではないものを求めたり、他のもので心を満たそうとして上手くいかないことがあります。今日は詩篇65篇を通して神様の豊かな祝福、豊かな恵みの雨について、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてお話しします。第一に「神に近づけられる恵み」、第二に「恐れと喜びのしるし」、そして第三に「豊かな祝福を備える神」という順序で進めてまいります。
1.神に近づけられる恵み(1〜4節)
さて、この詩篇第65篇は少しユニークな詩篇です。150ある詩篇の多くは祈りと賛美です。この65篇は祈りよりも賛美だと思うのですが、普通は賛美の詩は、「私は主をほめたたえます」という賛美の宣告や、「さあ、みんなも一緒に主を賛美しよう」という賛美の呼びかけから始まるものです。例えば、次の詩篇66篇は「全地よ。神に向かって喜び叫べ」と、全地というのは全世界に住む人々への呼びかけであり、喜び叫べ、と命令の形で賛美へと招いている。ところがこの65篇は少し違っています。1節。
1 神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。
神様の御前には静けさがある、というのは、一体、どういうことだろうか。わかりにくいですが、この新改訳は、それでも分かりやすく翻訳しています。もともとのヘブル語では、「神よ、あなたにとって、沈黙は賛美です」と書かれていて、でも「沈黙は賛美」というと何だか理解できないので、それぞれの日本語訳は工夫して分かりやすくしています。でも、沈黙は賛美だというのは、とても大切なことを語っていると思うのです。
この沈黙という名詞を動詞として使うと「黙る」という言葉で、ほかの詩篇を見ると、例えば、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」という箇所があります(詩篇62:1)。黙って待つ。神を待ち望むというのは、苦難の中で神様を信じて待つことであり、それは祈りです。黙って祈る。これは何となく分かります。祈りの言葉が尽きて、最後は声にならない祈りとなることがあります。まさに、黙って祈るのです。そして、私たちがつべこべ言わずに、黙って神様を信頼して見上げるとき、神様が素晴らしい御業を見せてくださり、神様の栄光をあがめて賛美をする。詩篇の、有名な言葉で、「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ」、これは文語訳聖書です。いろいろな思いで心がいっぱいになっていると、神様に目を向けることができなくなります。でも、自分の主張や願いはいったん取り下げて、黙って神様に委ねたとき、神様が働いてくださることを知るのです。
旧約聖書、ヨブ記に登場するヨブという人は、正しい人でしたが、大変な苦難を受けて悩みます。彼は友人と論争して、なぜ、自分が苦しむのかを知ろうとしますが、誰にも分りません。最後にヨブが沈黙したとき、神様がヨブに初めて語り掛けてくださった。その時、ヨブの悩みは悩みではなくなり、失っていた祝福が戻ってきて、神様の御名があがめられるのです。
1節最後の「誓いを果たす」というのも、旧約の祈りでは、最後に誓いを立てて、祈りが聞かれたときには神様を賛美するのです。これも祈りの結果です。この祈りの経験が2節へとつながります。2節。
2 祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
3 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

全ての肉なる者、つまり全ての人は祈りによって神様の前に進みでます。何のためか、それは罪の問題です。ちょっと失敗した、という風に思っているときは、自分の力で挽回すれば大丈夫だと考えます。でも、自分の罪が、実は神様の前で裁かれるなら、考えていた以上に重い罪であり、神様に滅ぼされてもしかたがない。そのように神様の前に自分の罪に絶望したとき、神様は私たちの罪を赦してくださる。もちろん、背後には十字架の贖いがあるのですが、ここはまだ旧約聖書の時代ですから、そこまでは語っていません。でも、昔の人も罪の問題で悩んだときに、神様の赦しの恵みを知ったのです。そして、赦されただけではない。さらに、4節。
4 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。
赦してくださる神様は、さらに私たちを選んで、近寄せてくださる。神様に背いていた私を、神の愛の対象として選んでくださり、近くに引き寄せてくださり、共に住んでくださる。それが「あなたの大庭、あなたの家」です。当時の人は、神殿が神の家だと考えていた。今は、教会でしょうか。でも、それは建物ではなく、神様が共にいてくださるという祝福です。神我らと共におられる。ヘブル語では「インマヌエル」と言って、イエス様の別名です。クリスマスは、神様の方から先に近づいてきてくださり、クリスマスに人間となってくださった神の御子が、やがて十字架で私たち全ての罪を背負ってくださり、私たちは赦された。このことを想う時、私たちも賛美が溢れてくるのです。他のこと、それがどんなに良いものであろうと、この赦しの恵み、インマヌエルの恵みに勝る恵みは無いのです。
2.恐れと喜びのしるし(5〜8節)
二つ目のことに移ります。5節は「私たちの救いの神よ」と呼び掛けていて、4節までの救いとつながっています。一節一節、詳しくお話ししていますと時間がかかりすぎますので、5節から8節を簡単にまとめたいと思います。
神様がなさる恐ろしい事柄とは、6節や7節で、山々を堅く建てられた天地創造の御業です。また海のとどろきを鎮めるという、神様が大自然を治めておられる、神の支配です。これはイスラエルだけでなく、また神様を信じているかどうかを問わず、すべての人が見ることができる、神様の恵みです。でも、神様の力を見て、それを神様がなさったことだと認めて、神様の偉大さの前に恐れおののく。それが、8節。
8 地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。あなたは、朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。
「しるし」という言葉は、聖書の中で特別な意味でつかわれる言葉です。神様が奇跡を行って、ご自身を示されたとき、それを神様がおられるしるし、つまり証拠として受け止めるなら、神様に従うようになる。でも、信じないなら、それは単なる偶然です。イエス様に対してしるしを求める人々に対して、イエス様がつれない返事をされることがありますが、それは彼らがイエス様を信じて従うつもりが全くなく、むしろ、ケチをつけてイエス様を陥れようと考えている。そんな人たちには何をして見せても無駄です。だから「しるし」は与えない。でも、信じたいと思っている人にはイエス様のなさる奇跡は、救い主であり御子である証拠なのです。ですから、ここでは、神様のなさることを信じるかが問われています。
神様の御業を見て、神様を畏れ敬うようになると、どうなるでしょうか。8節で、「あなたの数々のしるしを恐れます」。畏れ敬うということです。そのとき、「朝と夕べの起こるところ」とは、朝日が昇る東の果てから、夕日が沈む西の果てまで、全世界の人々が、高らかに歌う。この言葉は、直訳すると神様が彼らを喜ばせる。という意味です。大自然だけでなく、私たちの身の周りに起こる出来事を通して、神様を敬うなら、神様はその人を喜ばせてくださる。それは全世界の全ての人のために用意されている恵みです。それを受け取るのが信仰です。神様の恵みは、信じて受け止めるためにあるのです。
3.豊かな祝福を備える神(9〜13節)
最後に、9節から13節までを見てまいります。ここは牧歌的というか、農業や牧畜をする人たちの喜びがあふれています。9節。
9 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。
10 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。

乾燥した地域であるイスラエルでは、雨は貴重です。その雨は、神様が注いでくださるのであり、天の上には神の川と呼ばれるような豊かな水があり、その水を降らせて、田畑を潤し、穀物は生長します。さらに12節では、
12 荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています。
牧場にも雨が降って、羊たちが青々とした草を食べることができる。そして、13節がまとめです。
13 牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。
牧草地と穀物、と牧畜と農業、どちらも祝福されて、人々は「喜び叫び、歌っています」。何だか喜びにあふれている姿が目に浮かんでくるような描写です。これは、絵にかいた餅のようなものではなく、神様はすでに用意しておられるのです。雨を降らせる準備をし、草や穀物が伸びる下ごしらえをしていてくださる。人間は、その結果を受けるだけです。
この詩篇では、当時の人々に一番身近な農業と牧畜を描いていますが、今の私たちの働きも同じです。神様が様々なことを備えてくださる。仕事をする人も、その仕事ができるまで、生まれた子供が成長して教育を受けて、働くことができるようになる。また健康が守られ、家庭が守られて初めて、力いっぱい働ける。物を作る材料はどこから来たのか、神様が世界を治めて、すべてのものを備えてくださったのです。この神様の恵みに生かされている私たちも、「喜び叫び、歌って」いるでしょうか。
「恵みの雨」ということに、最初に触れましたが、恵みの雨を恵みと感じるのは、雨を待ち望んでいた人です。特に暑い夏に日照りが続いたときに、農業に携わる人には、まさに恵みの雨です。でも、その時に遊びに行こうと計画していた人は、雨が降って残念に思うかもしれません。私たちは、この一年半の間、ある人は教会に行くことができない。楽しい交わりが持てない。心が日照りのようになっていたのではないでしょうか。だから、久しぶりに教会で、神の家族である兄弟姉妹と会うことができて嬉しい。短い時間でも交わりができて嬉しい。以前なら、それが、それほど嬉しいこととは気が付いていなかったかもしれない。でも、試練の時を通ったからこそ、今ある恵みに気が付くことができたのではないでしょうか。
まとめ.
コンサートもクリスマスの行事も、まだ制限付きのような状況ですが、それでも、しばらくできていなかったことができることを、神様に感謝したい。恵みを当たり前のことと考えて、少しでも足らないことがあると文句を言うのでは残念です。恵みを恵みとして受け止めて、神様をあがめ、感謝をささげ、そして与えられたものを喜ぶ。このクリスマスが恵みに満ちた時となるために、神様はすでに備えておられます。私たちも心を備えて、感謝と喜びに満ちた、クリスマスを迎えましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教