12月26日礼拝説教「今日も待ち望む」イザヤ64:4
序. 今年は厳しい一年でした。昨年は新型コロナの感染拡大が始まり、最初は詳しいことが分からないために、どのように対処するか、悩みながら、教会もかつて無かった形で礼拝を守ってきました。コロナ二年目となった今年は、だんだんと対処の方法が示され、まだ完全ではありませんが、教会の働きも前進してきましたが、忍耐も続きました。しかも、収まったかと思ったら再び押し寄せる波で、立ち向かう気力も弱くなり、安全な中に置かれていても不安や不満が心の中に湧き上がる。その意味では、それでも神様を信頼していけるか、信仰の戦いでもありました。その一年間、神様の御言葉が私たちを支え続けてくださいました。今年の教会の標語である御言葉、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」(イザヤ40:31)の通り、どれほど試練が何度も襲ってきても、神様を信じて、期待して待ち望み、祈り続けることを私たちは学ぶことができた一年でした。私たちは、この御言葉に何度も励まされ、力をいただいてきたことを思うときに、この御言葉は、神様が与えてくださった御言葉なんだ、と思わされます。
今日は、もう一度、今年の御言葉を心に留めつつ、おなじイザヤ書の64章4節の御言葉を取り上げて、ご一緒に「主を待ち望む」ことを考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「主の救いを待ち望んだイザヤ」、第二に「待ち望み続けた民」、そして第三に「私たちも待ち望み続ける」という順序で進めてまいります。
1.主の救いを待ち望んだイザヤ
イザヤという預言者のことを少しお話しさせていただきます。イザヤは紀元前8世紀、イスラエルは南北に分裂し、その南王国ユダで活動した預言者です。国はすでに滅びに向かっていた、その原因は人々の罪です。神様はイザヤにこう語れと命じられた。「あなたたちは聞いても悟ってはならない」。なんでこんなことを伝えるのかというと、彼らは既に不信仰のために神の言葉を聞こうとしなかった。聞いてもそれに逆らって逆のことをする天の邪鬼な彼らに対して、普通に語っても無駄になる。そこで「聞くな、聞いても悟るな」と言うことで、彼らが反発して聞くかもしれない。そんな最終手段のような預言を語るように言われたイザヤは、「主よ、いつまでですか」と問いかける。すると、「国が滅びるまで」と神様は教えられたのです。国の滅亡は確定している。その中でイザヤは神の言葉を伝えなければならない。試練の時代でした。
預言者たちは国の滅亡を予告しましが、もし、それを聞いて悔い改めるなら救われるのです。しかし、残念ながらイスラエルの民は預言者の言葉を信じないで、滅びに向かって進んで行く。それを見なければならない預言者たちの悲しみは、イザヤ書や、さらに後に時代のエレミヤ書を読むと知ることができます。イザヤは聞き入れてもらえなくても、神の言葉を語り続けますが、そのイザヤを励ましたのも御言葉でした。時には神様は奇跡を行って、神が共におられることを示してくださり、勇気づけてくださいました。その御言葉は、国の滅亡を超えたその先に、神様が救い主を送ってくださるとの預言、裁きの先に救いがあることを、イザヤは語り続けていったのです。
今年の御言葉であるイザヤ書40章31節、「主を待ち望む者は新しく力を得る」は、そのようなイザヤが体験したことです。長い試練の中で、また将来にはたとえ暗黒が待っていても、それでも主を期待して救いを待ち望む。そして神様は救い主を送ってくださる。そのことが、7章にはインマヌエル預言、9章には「ひとりのみどりごが生まれる」という有名なクリスマス預言、そして53章では十字架の預言と、まるでイザヤはイエス様を見たのではないか、と言われるほどに、彼は神様から救い主の到来を示されたのです。その救い主によって、やがて世の終わりが来て、世界が新しくされる、新天新地を語っているのが、イザヤ書65章です。今日、開かれました御言葉は、主を待ち望む信仰を語っています。
4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。
イザヤは預言の成就を全て目撃はできませんでしたが、神様の約束の御言葉を信じた彼に、神様は御言葉の成就を通して神の真実を示してくださった。だからイザヤは、あなた以外にこのような神はいません、と驚きと畏敬の念を告白しているのです。イザヤ以降の人々も、時代は違っても、神様を待ち望む者に神様が示してくださる真実を知って、同じ告白をしていったのではないでしょうか。
今日はこれ以上お話する時間はありませんが、イザヤ書を読むならば、信仰が励まされ、救い主のことを知ることができる。いいえ、今、私たちは、その救い主が来られたことを、毎年のクリスマスに確認し、私たちも信仰を確かなものとしていただけるのです。
2.待ち望み続けた民
二つ目のことをお話ししてまいります。イザヤが預言したことは、残念ながら実現して、イスラエルは滅亡します。北王国イスラエルはイザヤの生きている間にアッスリア帝国に滅ぼされ、辛うじて残った南王国ユダはイザヤの死後、バビロン帝国に滅ぼされます。人々はバビロンに捕虜として連れて行かれる。これをバビロン捕囚と言います。国が滅んで初めて、彼らは預言者たちが言ったことが真実であったと悟るのです。イザヤ書を読み返していくと、御言葉の通りにバビロンによって滅ぼされたことが分かります。しかし、もし神様の言葉の通りに国が滅んだというのなら、神様がさらに将来について語られた預言の言葉も成就するはずだ。やがてバビロン捕囚から解放され、ユダヤの地に戻って神殿を再建し、その後、ペルシャ、ギリシア、ローマ帝国と支配者は移っていきます。旧約聖書最後のマラキ書の時代から新約聖書が始まるまでの数百年を中間時代と言いますが、その間も御言葉は成就していく。ですから、人々は、やがて神様が送ってくださると書かれている救い主、ヘブル語ではメシア、ギリシア語ではキリストが来てくださるのを待ち望むようになりました。
池の上教会の会堂の建物に入って、一階のロビーを進んで行きますと、池のところにロウソクが立っています。四本のロウソクに意味があるのですが、一週ごとに一本ずつ点されて、クリスマスの日に完成する。ただ、25日は集会もありませんでしたので、クリスマス礼拝の日に、四本目に火がともされます。一本ずつロウソクの炎が増えていくのを見て、クリスマスが近づくのを感じるわけです。これはユダヤの民が救い主を待ち望んだことを表しているともいえるのですが、実際の歴史では、彼らは何年経ったら救い主が来られるかは分からない。ですから忍耐しながら待ち続けていったのです。それでも「主を待ち望む者は新しい力を得る」とのイザヤ書の言葉の通り、どんなに迫害があっても、主を待ち望み、主が送ってくださる救い主を待ち望むとき、心に勇気が与えられ、迫害にも耐え忍ぶことができたのでした。
そのような、救い主を待ち望んだ人々が、新約聖書にも登場します。ルカの福音書の1章と2章に登場する人たち、祭司のザカリヤは天使の言葉で救い主のおいでが近いことを知りました。シメオンという敬虔な信仰者は、イスラエルの慰められること、すなわち預言の通りに救い主が来てくださることを待ち望んでいたのですが、聖霊によって必ずキリストと会えると示され、神殿で幼子のイエス様を見ることができたのです。他にも救い主を待ち望んでいた人たちがいました。
待ち望む信仰は、イエス様の誕生によって完成したから、それで終わりではなく、新約聖書時代の教会は、こんどは天に昇られたイエス様がもう一度おいでくださる、すなわち再臨を待ち望むようになります。彼らも多くの迫害を受けましたが、主を待ち望んで信仰を守り通したのでした。この再臨の主を待ち望む信仰は、今の私たちにも引き継がれています。信仰告白として使徒信条を唱えますが、復活されたイエス様が天に昇り、父の右の座につかれ、「かしこより来りて」というのが再臨のことです。「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」とあるように、最後の審判をくだす王としてきてくださり、全ての争いを終わりにし、悪を滅ぼしてくださる時が来る。その日を待ち望みつつ、私たちも「主を待ち望む」のです。三つ目のことをお話ししたいと思います。
3.私たちも待ち望み続ける
旧約時代の信仰者は、救い主の来られることと、世の終わりを預言され、その日を待ち望んだ。新約時代になって、キリストが来てくださりましたが、世の終わりの再臨はまだですから、それを待ち望む信仰があります。そして今の私たちも、再臨の前にいることは同じです。個人個人で言いますと、私たちがイエス様を信じて罪を赦され救っていただいたとき、私の心にもイエス様が来てくださった。そして再臨の時には顔と顔を合わせてお目にかかるのですが、もう一つ、再臨の前に地上の人生が終わる日が先に来るかもしれません。ですから私たちは天国を待ち望んでもいる。天国が先か再臨が先かは人間には分かりませんが、主にお会いできることは同じです。ですから私たちも主を待ち望んで生きていくのです。
それは死ぬときのことだけではありません。試練が続き、気持ちが弱くなることもあります。しかし、詩篇の詩人たちのように、「しかし私は主を信じます」と祈り、主が助けてくださることを確信するとき、まだ現実には困難があっても、必ず救ってくださる神様を褒め称えることができる。これが詩篇を通して学ぶことができる信仰です。この一年間、教会も、また一人一人も様々な試練を通ってきましたが、でも信仰を持って祈り続けた。「しかし、主を待ち望む者は新しい力を得る」との約束を信じて、祈り続けていきたい。この信仰が強められ、成長した一年だったことを感謝します。
まとめ.
今年の標語は今週で終わり、来週からは新しい一年、新しい御言葉を掲げていくことになります。でも、御言葉は無くなるのではなく、時代を超えて真実です。イザヤの時代にも、その後の歴史でも、また教会の時代になっても今日に至るまで、「主を待ち望む者は新しい力を得る」との約束を信じて、多くの信仰者たちが励まされ、立ち上がり、新しくされてきた。私たちも、これからどんな時代になろうとも、それほど問題が押し寄せてきても、主を信じて、主に期待して、待ち望み、祈り続けていきましょう。
2021年12月26日
12月26日礼拝説教「今日も待ち望む」イザヤ64:4
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2021年12月19日
12月19日クリスマス礼拝説教「どこにおられますか」マタイ2:2(マタイ2:1〜11)
12月19日クリスマス礼拝説教「どこにおられますか」マタイ2:2(マタイ2:1〜11)
クリスマスを前にした一ヶ月ほどの期間をアドベントといって、クリスマスへと準備が行われます。飾り付けもその一つです。今年は教会堂の玄関に聖家族の人形が飾られていますが、肝心のイエス様がいない。「あれ、イエス様、どこに行ってしまったの」と不思議に思われた方もいらっしゃったでしょう。アドベントはイエス様の誕生を待ち望む時なので、クリスマスになって初めてイエス様の人形が登場する、ということです。
今日はクリスマス礼拝ですので、今年のクリスマスはどこからお話ししようかと考えていたのですが、マタイの福音書の2章、特に2節の言葉です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」。救い主はどこにおられ、どういうお方なのか。ご一緒に考えてまいりましょう。
いつものように三つに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「世界を救う王」ということ。第二に「恐れと不信の人々」、そして第三に「救い主に会う喜び」という順序で進めてまいります。
1.世界を救う王(1章、2:1〜2)
新約聖書には四つの福音書があって、それぞれが特徴を持ってキリストを描いています。マタイの福音書のクリスマスは、旧約聖書との結びつきが特徴の一つです。開かなくて結構ですが、1章は、まず系図から始まり、初めて新約聖書を読もうと思う人にはカタカナばかり続くページは読む気を削いでしまうかもしれませんが、この系図は旧約聖書を読んできた人にはイスラエルの歴史を振り返るもので、旧約聖書の歴史に予告されてきた救い主の誕生であることを表しています。そして1章の後半は、旧約の預言者の言葉、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言者イザヤの言葉が引用され、神様が預言された救い主であることを記しています。そして、今日、お話しします、2章の最初の部分にも、6節ですが、預言者ミカの言葉が出てきます。
この預言された救い主のことは旧約聖書を通してイスラエルの民に知らされていましたが、神様は全世界の神ですから、他の民族にも知らせようとされ、聖書の神様を良く知らない人たちのために、特別な方法を用いられた。それが2章1節に出てくる「東方の博士たち」です。彼らは、おそらく占星術のような学問、現代で言うところの天文学のようなことを学んでいたのでしょう。(聖書は占いやまじないを禁じていますが、聖書を知らない彼らのために、神様は彼らの学びを使って教えてくださったのでしょう。)彼らは特別な星を見いだして、それがユダヤで王が生まれることを意味すると知りました。ただの王ではありません。世界中のあちこちの国に王はいます。でも星に示されるくらいですから、特別な王であり、全世界に影響が及ぶ王です。ですから、この博士たちは王に会うためにわざわざ旅をしてきたのです。
「ユダヤ人の王として生まれた」というのも不思議な表現です。王の子供たちのうちの誰かが後を継ぐというのではなく、生まれた時から王だということです。赤ちゃんであっても王なのです。それほどに特別なお方なので、博士たちは「拝みにまいりました」と言います。これは礼拝を意味します。イスラエルでは人間を礼拝することはしません。神様だけです。王様は神様が国を治めるために遣わした存在ですから、普通以上の尊敬を表すので、その前にひれ伏すということもするでしょう。彼らは聖書のことを良く知らなかったでしょうが、私たちはすでに旧新約聖書を与えられていますから、この特別な王とは、神の御子である救い主、私たちの主であり王であるお方だと知っています。ですからなおさらこのお方を礼拝します。
クリスマスという言葉の意味は、キリストを礼拝することです。私たちの楽しみのために過ごすことはおまけであって、一番大切なことはイエス様を礼拝し、イエス様の前にひれ伏して、イエス様の僕となることです。イエス様は私の王です。このお方を中心としてクリスマスを祝いましょう。
2.恐れと不信の人々(2:3〜8)
二つ目のことをお話しします。東方の博士たちが素晴らしいニュースを伝えたのですが、エルサレムの人々は恐れ惑ったと書かれています。恐れて動揺したのはなぜか。ヘロデ大王は自分の地位を脅かす存在が登場したことを恐れます。彼は家族であっても自分の邪魔になる者は殺してしまうような恐ろしい王でした。エルサレムの人々も恐れた。それは、違う王様が登場することで政治が混乱するからかも知れませんが、ヘロデ王にこびへつらい、甘い汁を吸っていた者たちは自分の利益が脅かされます。彼らは素晴らしいニュースを聞いても喜ばなかったのです。
「どこで生まれたのですか」という疑問に答えたのは、祭司長や律法学者たち、旧約聖書の専門家でした。彼らには知識がありました。ミカ書に書かれている預言を即座に答えた。救い主はベツレヘムで生まれます。でも彼らは知識はあっても信仰が無かった。ですから、神様が預言された言葉を知っていても、その言葉に従って、生まれたお方に従おう、会いに行こう、とはしなかったのです。
クリスマスを本当の意味で祝うには、自分の地位や利益だけを考える自己中心ではダメです。不信仰でもいけません。世の中でも多くの人がクリスマスを祝いますが、でもそこに利己主義や快楽が伴うとき、本物のクリスマスにはならないのです。一時的に楽しむことはできても、終われば空しくなる。イエス様を私の王として心にお迎えするとき、神様からの喜びが与えられるのです。自己中心な生き方、それを聖書は罪だと教えますが、その罪から救うために来てくださったイエス様を王として心に迎えたとき、自分が中心ではなく、キリストが中心となります。このお方を信頼して従う者となりましょう。
3.救い主に会う喜び(2:9〜11)
三つ目のことをお話しします。9節から少し読ませていただきます。
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
何週間、何ヶ月もかけて旅をするのも大きな犠牲を払ってでも、博士たちはキリストを求めて来た。神様も救いを求める者には助けをくださいます。星の動きを通して、ついにイエス様のところに導かれたのです。イエス様に会う前から、彼らは神様が自分たちを導いてくださったこと、その星を見て喜んだ。そして実際に王なる幼子を見て、どれほど喜んだでしょう。いいえ、思わず、その前にひれ伏した。喜び以上に、聖なる思いを感じた。掛け買いの無い体験です。彼らは宝物を献げました。全財産かはわかりませんが、自分たちの持っている最高のものを献げた。それは、神様が大きなプレゼントを与えてくださったからです。
今日は第二礼拝で洗礼式を行います。教会にとって大きな喜びです。受洗者たちにとっても喜びの日です。でも、今日だけが喜びではありません。今日に至るまで、神様が導いてきてくださった。子供たちをこのご家族に生まれさせてくださり、一緒に教会へと導いてくださいました。また何人ものクリスチャン(JKのスタッフ)を通してイエス様のことを教わることができたのも神様の導きです。そして、これからも同じ神様の導きに従って歩んでいただきたいと願っています。
でも、一番素晴らしいプレゼントは、イエス様ご自身です。私を救うためにこの世に来てくださった神の御子です。私の罪を赦すために十字架にかかってくださり、私たちに新しい命、永遠の命を与えるために復活されたお方です。このお方が私たちに与えられたクリスマスの恵みであることを忘れないでいただきたい。そして、博士たちがしたように、私たちも主にお会いできたことを喜び、自分の一番大切な自分自身をお献げして、他の楽しいこと以上の、神様からの喜びに満たされる者とならせていただきましょう。
まとめ.
ネイティビティの人形では、赤ちゃんイエス様はクリスマスに登場しますが、もちろん、もうイエス様はこの世に来てくださった。その意味ではクリスマスの出来事は過去です。でも、もう終わってしまったこと、自分とは無関係なことではありません。イエス様を信じる人の心の中にイエス様が共にいてくださいます。「そのお方はどこにおいでになりますか」。イエス様は共にいてくださいます。では、私はどこにいるでしょうか。私は、イエス様を心にお迎えして、心から礼拝を献げているでしょうか。クリスマスにもう一度、イエス様を王としてお迎えする、イエス様の前にひれ伏す者となりましょう。
クリスマスを前にした一ヶ月ほどの期間をアドベントといって、クリスマスへと準備が行われます。飾り付けもその一つです。今年は教会堂の玄関に聖家族の人形が飾られていますが、肝心のイエス様がいない。「あれ、イエス様、どこに行ってしまったの」と不思議に思われた方もいらっしゃったでしょう。アドベントはイエス様の誕生を待ち望む時なので、クリスマスになって初めてイエス様の人形が登場する、ということです。
今日はクリスマス礼拝ですので、今年のクリスマスはどこからお話ししようかと考えていたのですが、マタイの福音書の2章、特に2節の言葉です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」。救い主はどこにおられ、どういうお方なのか。ご一緒に考えてまいりましょう。
いつものように三つに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「世界を救う王」ということ。第二に「恐れと不信の人々」、そして第三に「救い主に会う喜び」という順序で進めてまいります。
1.世界を救う王(1章、2:1〜2)
新約聖書には四つの福音書があって、それぞれが特徴を持ってキリストを描いています。マタイの福音書のクリスマスは、旧約聖書との結びつきが特徴の一つです。開かなくて結構ですが、1章は、まず系図から始まり、初めて新約聖書を読もうと思う人にはカタカナばかり続くページは読む気を削いでしまうかもしれませんが、この系図は旧約聖書を読んできた人にはイスラエルの歴史を振り返るもので、旧約聖書の歴史に予告されてきた救い主の誕生であることを表しています。そして1章の後半は、旧約の預言者の言葉、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言者イザヤの言葉が引用され、神様が預言された救い主であることを記しています。そして、今日、お話しします、2章の最初の部分にも、6節ですが、預言者ミカの言葉が出てきます。
この預言された救い主のことは旧約聖書を通してイスラエルの民に知らされていましたが、神様は全世界の神ですから、他の民族にも知らせようとされ、聖書の神様を良く知らない人たちのために、特別な方法を用いられた。それが2章1節に出てくる「東方の博士たち」です。彼らは、おそらく占星術のような学問、現代で言うところの天文学のようなことを学んでいたのでしょう。(聖書は占いやまじないを禁じていますが、聖書を知らない彼らのために、神様は彼らの学びを使って教えてくださったのでしょう。)彼らは特別な星を見いだして、それがユダヤで王が生まれることを意味すると知りました。ただの王ではありません。世界中のあちこちの国に王はいます。でも星に示されるくらいですから、特別な王であり、全世界に影響が及ぶ王です。ですから、この博士たちは王に会うためにわざわざ旅をしてきたのです。
「ユダヤ人の王として生まれた」というのも不思議な表現です。王の子供たちのうちの誰かが後を継ぐというのではなく、生まれた時から王だということです。赤ちゃんであっても王なのです。それほどに特別なお方なので、博士たちは「拝みにまいりました」と言います。これは礼拝を意味します。イスラエルでは人間を礼拝することはしません。神様だけです。王様は神様が国を治めるために遣わした存在ですから、普通以上の尊敬を表すので、その前にひれ伏すということもするでしょう。彼らは聖書のことを良く知らなかったでしょうが、私たちはすでに旧新約聖書を与えられていますから、この特別な王とは、神の御子である救い主、私たちの主であり王であるお方だと知っています。ですからなおさらこのお方を礼拝します。
クリスマスという言葉の意味は、キリストを礼拝することです。私たちの楽しみのために過ごすことはおまけであって、一番大切なことはイエス様を礼拝し、イエス様の前にひれ伏して、イエス様の僕となることです。イエス様は私の王です。このお方を中心としてクリスマスを祝いましょう。
2.恐れと不信の人々(2:3〜8)
二つ目のことをお話しします。東方の博士たちが素晴らしいニュースを伝えたのですが、エルサレムの人々は恐れ惑ったと書かれています。恐れて動揺したのはなぜか。ヘロデ大王は自分の地位を脅かす存在が登場したことを恐れます。彼は家族であっても自分の邪魔になる者は殺してしまうような恐ろしい王でした。エルサレムの人々も恐れた。それは、違う王様が登場することで政治が混乱するからかも知れませんが、ヘロデ王にこびへつらい、甘い汁を吸っていた者たちは自分の利益が脅かされます。彼らは素晴らしいニュースを聞いても喜ばなかったのです。
「どこで生まれたのですか」という疑問に答えたのは、祭司長や律法学者たち、旧約聖書の専門家でした。彼らには知識がありました。ミカ書に書かれている預言を即座に答えた。救い主はベツレヘムで生まれます。でも彼らは知識はあっても信仰が無かった。ですから、神様が預言された言葉を知っていても、その言葉に従って、生まれたお方に従おう、会いに行こう、とはしなかったのです。
クリスマスを本当の意味で祝うには、自分の地位や利益だけを考える自己中心ではダメです。不信仰でもいけません。世の中でも多くの人がクリスマスを祝いますが、でもそこに利己主義や快楽が伴うとき、本物のクリスマスにはならないのです。一時的に楽しむことはできても、終われば空しくなる。イエス様を私の王として心にお迎えするとき、神様からの喜びが与えられるのです。自己中心な生き方、それを聖書は罪だと教えますが、その罪から救うために来てくださったイエス様を王として心に迎えたとき、自分が中心ではなく、キリストが中心となります。このお方を信頼して従う者となりましょう。
3.救い主に会う喜び(2:9〜11)
三つ目のことをお話しします。9節から少し読ませていただきます。
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
何週間、何ヶ月もかけて旅をするのも大きな犠牲を払ってでも、博士たちはキリストを求めて来た。神様も救いを求める者には助けをくださいます。星の動きを通して、ついにイエス様のところに導かれたのです。イエス様に会う前から、彼らは神様が自分たちを導いてくださったこと、その星を見て喜んだ。そして実際に王なる幼子を見て、どれほど喜んだでしょう。いいえ、思わず、その前にひれ伏した。喜び以上に、聖なる思いを感じた。掛け買いの無い体験です。彼らは宝物を献げました。全財産かはわかりませんが、自分たちの持っている最高のものを献げた。それは、神様が大きなプレゼントを与えてくださったからです。
今日は第二礼拝で洗礼式を行います。教会にとって大きな喜びです。受洗者たちにとっても喜びの日です。でも、今日だけが喜びではありません。今日に至るまで、神様が導いてきてくださった。子供たちをこのご家族に生まれさせてくださり、一緒に教会へと導いてくださいました。また何人ものクリスチャン(JKのスタッフ)を通してイエス様のことを教わることができたのも神様の導きです。そして、これからも同じ神様の導きに従って歩んでいただきたいと願っています。
でも、一番素晴らしいプレゼントは、イエス様ご自身です。私を救うためにこの世に来てくださった神の御子です。私の罪を赦すために十字架にかかってくださり、私たちに新しい命、永遠の命を与えるために復活されたお方です。このお方が私たちに与えられたクリスマスの恵みであることを忘れないでいただきたい。そして、博士たちがしたように、私たちも主にお会いできたことを喜び、自分の一番大切な自分自身をお献げして、他の楽しいこと以上の、神様からの喜びに満たされる者とならせていただきましょう。
まとめ.
ネイティビティの人形では、赤ちゃんイエス様はクリスマスに登場しますが、もちろん、もうイエス様はこの世に来てくださった。その意味ではクリスマスの出来事は過去です。でも、もう終わってしまったこと、自分とは無関係なことではありません。イエス様を信じる人の心の中にイエス様が共にいてくださいます。「そのお方はどこにおいでになりますか」。イエス様は共にいてくださいます。では、私はどこにいるでしょうか。私は、イエス様を心にお迎えして、心から礼拝を献げているでしょうか。クリスマスにもう一度、イエス様を王としてお迎えする、イエス様の前にひれ伏す者となりましょう。
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2021年12月12日
12月12日礼拝説教「全地に広まる救い」詩篇66:1〜6(66篇)
12月12日礼拝説教「全地に広まる救い」詩篇66:1〜6(66篇)
詩篇には、嘆きの祈りと呼ばれる、苦しいときに救いを求める祈りが数多くあります。でも、その祈りが聞き届けられて、神様からの救い、御救いが与えられ、感謝と賛美へと変えられて行きます。変えられたからこそ、苦しいときの祈りを記念として書き残していったのです。そして、それは個人的な記念だけでとどまらず、苦悩の中にいる他の人々もこの祈りに教えられ励まされ、やがて御救いに与り、また次の人、次の世代への御救いは広まって行ったのです。
今日は詩篇66篇を通して、「全地に広まる救い」と題しまして、いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、「御救いの歴史」ということ、第二に「御救いの証し」、そして第三に「御救いの知らせ」という順序で進めてまいります。
1.御救いの歴史(1〜12節)
先ほど、1節から6節を読んでいただきましたが、もう一度、1節から見て参ります。1節。
1 全地よ。神に向かって喜び叫べ。
2 御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。
この最初の部分は、この詩篇が圧倒的な賛美、喜びと栄光に満ちた賛美であることを語っています。全地よ、と言っているのは、イスラエルだけでなく全世界の人々への呼びかけです。どうして、それほどに神様を賛美しているのか。3節。
3 神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。
「あなたのみわざは、なんと恐ろしい」、古い翻訳では「恐るべきかな」と書かれています。怖いというよりも、恐るべき、偉大だということです。恐るべき御業とは具体的には何のことか。二種類ありまして、一つは、先週も詩篇65篇で触れましたが、詩篇65篇の5節から6節で、天地創造の御業が語られています。もう一つが、この詩篇で語られている出エジプトの救いです。5節と6節を読みます。
5 さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
海を変えて渇いた地とすることは、出エジプトの最初に紅海が分かれて海を渡ったことで、川の中を歩いて渡るとは、出エジプトの最後に、せき止められたヨルダン川を歩いて渡って約束の地に入ったことです。その間や前後にも多くのことがありましたが、エジプトでの奴隷の苦しみから救われ、荒野を通ってカナンの地が与えられた。これを一言で言うと、出エジプトの救い、ということです。
詩篇の祈りは、時には長い間祈り続けることもあった。諦めそうになるとき、人々を励ましたのは、かつての救いの出来事です。エジプトから救い出してくださった力ある神様は、きっと今の苦しみからの救い出してくださる。この信仰が詩篇の祈りの中でも何度も語られています。専門用語では「救いの回顧」と言います。他にも様々な過去の救いを思い出して祈るのですが、特に出エジプトのことが何度も語られていることがわかります。
確かに大きな苦難は、簡単には解決せずに、長い年月が必要です。その間、神様の救いを待ち望んで祈り続けるのは、過去の救いを思い出して、その神様を信頼することによります。今も、何年も苦難の中におかれていても、荒野の40年間を導き続けてくださったお方を信頼して、祈り続け、待ち望み続けるのです。その信仰を、私たちも持たせていただきたい。出エジプトだけでない。私たちを救うために御子イエス様をこの世に遣わしてくださり、十字架と復活によって私たちを罪から救ってくださった。これは出エジプト以上に重大な救いの御業。それが私たちにも与えられたことを覚えて、待ち望む祈りをし続けましょう。
2.御救いの証し(13〜20節)
二つ目のことに移ります。12節から読みます。
12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
13 私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。
12節で「火の中、水の中」というのは、火の中を通ったのはダニエル書の出来事くらいですが、戦争の炎かもしれません。水の中は、やはり出エジプトを指します。豊かな所とは約束の地です。ここまでは「私たちは」と、私たち、専門用語では、民族あるいは共同体と言います。ところが13節以降は、「私たち」ではなく「私」となります。
詩篇150の詩は、大きく分けると、嘆きの歌と呼ばれる苦悩の中の祈りと、感謝と賛美の歌とに分けられますが、さらに、そのどちらも、主語が「私たち」となっている、民族の祈りや民族の賛美と、主語が「私」となっている、個人の嘆き、個人の賛美、と分けることができます。最初は民族の救いを教えられます。イスラエルはエジプトから救っていただいた民だから、この神様を賛美する。しかし、この「民族の信仰」ですと、だんだんと人任せで、いい加減になってしまう。そこで、時にはみんなが間違った道、偶像礼拝に走ったとしても、私はこの神様を信じますという、個人の祈りや賛美が必要です。この66篇は、前半が民族の賛美で、後半は個人の賛美、という大変に珍しい形になっています。
少し難しい話になってしまいましたが、最初は民族の信仰として信じていた神様を、やがて成長して行く中で「私の救い」と、信仰が明確になっていく。それは私たちにもそういう部分があります。最初に教会に来るときは、多くの人は誰かに誘われてきて、自分は信じていないけれども、信じている人たちを見て、自分もそうなりたいと漠然と考える。それが、あるとき、自分自身がこの神様を信じ、キリストを心にお迎えする。そこから個人の救いとなっていくのです。どのように、それが変化していくのでしょうか。
13節の「私の誓いを果たします」とありますが、この誓いとは、嘆きの詩篇にも出てくる、「もし、この祈りが聞かれて救われたら、その時には神様に捧げます」という誓いで、祈りが応えられたとき、神様に捧げるのは、賛美と献身です。献身や感謝を込めて、当時は動物の犠牲を捧げることもよくありましたが、特に、賛美を捧げました。賛美を捧げるときに、過去の御救いを思い起こして信仰が励まされ、苦難が長く続いても忍耐して祈り続ける信仰が備わっていきます。賛美を通して成長する信仰により、忍耐の末に御救いが与えられるのです。
しかし、この詩篇は、助けていただいた出来事そのものについては語っていません。むしろ、19節。
19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
20 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。
この人は、神様が祈りを聞き入れて、応えてくださったことを語っています。ただ単に、困ったことから助けられた、ということですと、助かった出来事だけに目が向いて、助けてくださったお方を忘れがちです。でも、苦しい中で祈り続けて、神様に心を何度も向ける。そのような祈りの末に御救いが与えられると、まず神様に感謝したい、そして救われたのは、神様の恵みであることがはっきりとわかるのです。
苦しいときに祈るのは辛いでしょう。でも、神様に心を向けて祈り続けるとき、私たちはもっと神様に近づけられ、神様の恵みを知る者となり、救いが確かな信仰となることができるのです。
3.御救いの知らせ(ルカ2章)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。もう一箇所、聖書を読みます。お聞きください。ルカの福音書2章10節、11節。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
有名なクリスマスのメッセージです。天使が「この民全体」と言ったのは、個人的な救い以上に、民全体に与えられる喜びです。それは民全体が苦難の中で祈っていたからです。旧約聖書が終わり新約聖書の時代が始まるまでの間の時代、中間時代と呼ばれますが、その間、信仰深いユダヤ人たちは迫害を受けました。時には殉教する者たちも多かった。そしてローマ帝国に支配され、苦しめられていた人々が旧約聖書に預言された救い主、メシアを待ち望んで祈り続けていたのです。ですから天使たちは「この民全体」と言って、一番底辺で苦しめられていた羊飼いたちにまず救い主の知らせを告げたのです。
この知らせは、羊飼いたちからベツレヘムの町の人々、やがてイスラエル全体、そして全世界へと伝えられて行き、全地の全ての人に御救いの恵みが告げられて行くのです。それがクリスマスのメッセージです。その知らせは、多くの人に語り伝えるだけでなく、一人一人を通して次の人に伝えられる方法で、二千年間、広まっていったのです。
私たちも、その知らせを受けた者です。いいえ、聞いただけでなく、それを信じる時に、その人も御救いを受け、罪から救われて、永遠の命が与えられ、苦しみから喜びへと変えられるのです。その喜びを持って、自分の救いを証しするとき、私たちも次の人にこの知らせを手渡すことができるのです。今は、コロナ禍にあって、たくさんの人を招くことができない。これまでの方法が難しい。でも、一人が一人に証しすることはできます。直接会えなくても、手紙や電話や、最近はインターネットも用いることができ、離れていても伝えることができる。地道かも知れませんが、基本です。一人が一人に伝えるとき、救いを手渡すことができるのです。
まとめ.
苦しみの中で神様に祈り、神様との交わりを持った体験を、信仰者がお互いに証ししあうとき、お互いが励まされます。苦難の中でも信仰を持って歩み続ける力が与えられます。これも素晴らしい証しです。詩篇の詩人たちが賛美と祈りを書き伝えて信仰の証しを人々に、また後の時代の人にも伝えたように、また新約時代の人々が救いの証しを世界中に語り伝えて行ったように、私たちも救いの恵みを語り伝えていきましょう。それが全地へと救いが広められる、一歩となるのです。
詩篇には、嘆きの祈りと呼ばれる、苦しいときに救いを求める祈りが数多くあります。でも、その祈りが聞き届けられて、神様からの救い、御救いが与えられ、感謝と賛美へと変えられて行きます。変えられたからこそ、苦しいときの祈りを記念として書き残していったのです。そして、それは個人的な記念だけでとどまらず、苦悩の中にいる他の人々もこの祈りに教えられ励まされ、やがて御救いに与り、また次の人、次の世代への御救いは広まって行ったのです。
今日は詩篇66篇を通して、「全地に広まる救い」と題しまして、いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、「御救いの歴史」ということ、第二に「御救いの証し」、そして第三に「御救いの知らせ」という順序で進めてまいります。
1.御救いの歴史(1〜12節)
先ほど、1節から6節を読んでいただきましたが、もう一度、1節から見て参ります。1節。
1 全地よ。神に向かって喜び叫べ。
2 御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。
この最初の部分は、この詩篇が圧倒的な賛美、喜びと栄光に満ちた賛美であることを語っています。全地よ、と言っているのは、イスラエルだけでなく全世界の人々への呼びかけです。どうして、それほどに神様を賛美しているのか。3節。
3 神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。
「あなたのみわざは、なんと恐ろしい」、古い翻訳では「恐るべきかな」と書かれています。怖いというよりも、恐るべき、偉大だということです。恐るべき御業とは具体的には何のことか。二種類ありまして、一つは、先週も詩篇65篇で触れましたが、詩篇65篇の5節から6節で、天地創造の御業が語られています。もう一つが、この詩篇で語られている出エジプトの救いです。5節と6節を読みます。
5 さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。
6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
海を変えて渇いた地とすることは、出エジプトの最初に紅海が分かれて海を渡ったことで、川の中を歩いて渡るとは、出エジプトの最後に、せき止められたヨルダン川を歩いて渡って約束の地に入ったことです。その間や前後にも多くのことがありましたが、エジプトでの奴隷の苦しみから救われ、荒野を通ってカナンの地が与えられた。これを一言で言うと、出エジプトの救い、ということです。
詩篇の祈りは、時には長い間祈り続けることもあった。諦めそうになるとき、人々を励ましたのは、かつての救いの出来事です。エジプトから救い出してくださった力ある神様は、きっと今の苦しみからの救い出してくださる。この信仰が詩篇の祈りの中でも何度も語られています。専門用語では「救いの回顧」と言います。他にも様々な過去の救いを思い出して祈るのですが、特に出エジプトのことが何度も語られていることがわかります。
確かに大きな苦難は、簡単には解決せずに、長い年月が必要です。その間、神様の救いを待ち望んで祈り続けるのは、過去の救いを思い出して、その神様を信頼することによります。今も、何年も苦難の中におかれていても、荒野の40年間を導き続けてくださったお方を信頼して、祈り続け、待ち望み続けるのです。その信仰を、私たちも持たせていただきたい。出エジプトだけでない。私たちを救うために御子イエス様をこの世に遣わしてくださり、十字架と復活によって私たちを罪から救ってくださった。これは出エジプト以上に重大な救いの御業。それが私たちにも与えられたことを覚えて、待ち望む祈りをし続けましょう。
2.御救いの証し(13〜20節)
二つ目のことに移ります。12節から読みます。
12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
13 私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。
12節で「火の中、水の中」というのは、火の中を通ったのはダニエル書の出来事くらいですが、戦争の炎かもしれません。水の中は、やはり出エジプトを指します。豊かな所とは約束の地です。ここまでは「私たちは」と、私たち、専門用語では、民族あるいは共同体と言います。ところが13節以降は、「私たち」ではなく「私」となります。
詩篇150の詩は、大きく分けると、嘆きの歌と呼ばれる苦悩の中の祈りと、感謝と賛美の歌とに分けられますが、さらに、そのどちらも、主語が「私たち」となっている、民族の祈りや民族の賛美と、主語が「私」となっている、個人の嘆き、個人の賛美、と分けることができます。最初は民族の救いを教えられます。イスラエルはエジプトから救っていただいた民だから、この神様を賛美する。しかし、この「民族の信仰」ですと、だんだんと人任せで、いい加減になってしまう。そこで、時にはみんなが間違った道、偶像礼拝に走ったとしても、私はこの神様を信じますという、個人の祈りや賛美が必要です。この66篇は、前半が民族の賛美で、後半は個人の賛美、という大変に珍しい形になっています。
少し難しい話になってしまいましたが、最初は民族の信仰として信じていた神様を、やがて成長して行く中で「私の救い」と、信仰が明確になっていく。それは私たちにもそういう部分があります。最初に教会に来るときは、多くの人は誰かに誘われてきて、自分は信じていないけれども、信じている人たちを見て、自分もそうなりたいと漠然と考える。それが、あるとき、自分自身がこの神様を信じ、キリストを心にお迎えする。そこから個人の救いとなっていくのです。どのように、それが変化していくのでしょうか。
13節の「私の誓いを果たします」とありますが、この誓いとは、嘆きの詩篇にも出てくる、「もし、この祈りが聞かれて救われたら、その時には神様に捧げます」という誓いで、祈りが応えられたとき、神様に捧げるのは、賛美と献身です。献身や感謝を込めて、当時は動物の犠牲を捧げることもよくありましたが、特に、賛美を捧げました。賛美を捧げるときに、過去の御救いを思い起こして信仰が励まされ、苦難が長く続いても忍耐して祈り続ける信仰が備わっていきます。賛美を通して成長する信仰により、忍耐の末に御救いが与えられるのです。
しかし、この詩篇は、助けていただいた出来事そのものについては語っていません。むしろ、19節。
19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
20 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。
この人は、神様が祈りを聞き入れて、応えてくださったことを語っています。ただ単に、困ったことから助けられた、ということですと、助かった出来事だけに目が向いて、助けてくださったお方を忘れがちです。でも、苦しい中で祈り続けて、神様に心を何度も向ける。そのような祈りの末に御救いが与えられると、まず神様に感謝したい、そして救われたのは、神様の恵みであることがはっきりとわかるのです。
苦しいときに祈るのは辛いでしょう。でも、神様に心を向けて祈り続けるとき、私たちはもっと神様に近づけられ、神様の恵みを知る者となり、救いが確かな信仰となることができるのです。
3.御救いの知らせ(ルカ2章)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。もう一箇所、聖書を読みます。お聞きください。ルカの福音書2章10節、11節。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
有名なクリスマスのメッセージです。天使が「この民全体」と言ったのは、個人的な救い以上に、民全体に与えられる喜びです。それは民全体が苦難の中で祈っていたからです。旧約聖書が終わり新約聖書の時代が始まるまでの間の時代、中間時代と呼ばれますが、その間、信仰深いユダヤ人たちは迫害を受けました。時には殉教する者たちも多かった。そしてローマ帝国に支配され、苦しめられていた人々が旧約聖書に預言された救い主、メシアを待ち望んで祈り続けていたのです。ですから天使たちは「この民全体」と言って、一番底辺で苦しめられていた羊飼いたちにまず救い主の知らせを告げたのです。
この知らせは、羊飼いたちからベツレヘムの町の人々、やがてイスラエル全体、そして全世界へと伝えられて行き、全地の全ての人に御救いの恵みが告げられて行くのです。それがクリスマスのメッセージです。その知らせは、多くの人に語り伝えるだけでなく、一人一人を通して次の人に伝えられる方法で、二千年間、広まっていったのです。
私たちも、その知らせを受けた者です。いいえ、聞いただけでなく、それを信じる時に、その人も御救いを受け、罪から救われて、永遠の命が与えられ、苦しみから喜びへと変えられるのです。その喜びを持って、自分の救いを証しするとき、私たちも次の人にこの知らせを手渡すことができるのです。今は、コロナ禍にあって、たくさんの人を招くことができない。これまでの方法が難しい。でも、一人が一人に証しすることはできます。直接会えなくても、手紙や電話や、最近はインターネットも用いることができ、離れていても伝えることができる。地道かも知れませんが、基本です。一人が一人に伝えるとき、救いを手渡すことができるのです。
まとめ.
苦しみの中で神様に祈り、神様との交わりを持った体験を、信仰者がお互いに証ししあうとき、お互いが励まされます。苦難の中でも信仰を持って歩み続ける力が与えられます。これも素晴らしい証しです。詩篇の詩人たちが賛美と祈りを書き伝えて信仰の証しを人々に、また後の時代の人にも伝えたように、また新約時代の人々が救いの証しを世界中に語り伝えて行ったように、私たちも救いの恵みを語り伝えていきましょう。それが全地へと救いが広められる、一歩となるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0)
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