今日も詩篇を開いてまいります。詩篇の150の詩のうち一番多いのは、「歎きの歌」とも呼ばれる、苦悩の時の祈りです。しかし、その祈りは途中で賛美に変わっていきます。どこから賛美に変わっていくかを読み取ることは、私たちも、どうしたら嘆きの中から賛美や感謝の心に変わることができるか、という秘訣を学ぶことにつながります。その、歎きから賛美に変わるきっかけは様々ですが、そこには詩人の信仰があります。どれほど苦悩の中にいても、「しかし私は神様を信頼します」と告白することで、この心が変わっていくのです。でも、そんなこと言ったって、苦しいときには簡単に神様を信頼できないかもしれません。そのときに必要なのは、人間の力や信仰では足らない。やはり、そこにこそ神様の助けが必要なのです。ですから、嘆きの祈りが賛美に変えられるのは、その人の信仰が素晴らしいからではなくて、神様が逆転させてくださる。私たちは、人間の作った歌である詩篇の中にも、神様の不思議な働きが隠されていることを見出していく。それが詩篇を読むときに目指すところなのです。
今朝は、「神による逆転」と題して、詩篇64篇より、いつものように三つのポイントに沿って、御言葉を取り次がせていただきます。第一に「高慢な心」ということ、第二に「神の裁き」、そして第三に「私はどちらか」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.高慢な心
1節からもう一度、少しずつ見てまいりましょう。
1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
祈りの最初は、私の祈りの声を聞いてください、と神様に訴えるところから始まることが詩篇にはよくあります。もちろん、神様は聞いておられるはずですが、それでも「聞いてください」と訴えるのは、それほど切羽詰まっている状況だからです。ただ、聞いてくださいという思いが強すぎて、具体的な助けを求めるのは、心が落ち着いてからになるので、本題に入るのに時間がかかることもあります。しかし、この詩篇では、すぐに「恐るべき敵から、私のいのちを守ってください」と具体的に助けを求めています。それは、もう神様への信頼があるからではないかと思います。「恐るべき敵」、2節では「悪を行う者ども」とか、「不法を行う者ら」と語っているように、敵に苦しめられ、命までも狙われている、という状況です。その敵の攻撃は、2節では「はかりごと」と書かれているように、隠れてひそかに悪事を計画し、それが突然に実行されて、「騒ぎ」と訳されているように、ある日突然に大騒動になる。
悪い噂や批判の言葉というのは、大抵、本人の知らないところで始まり、それが本人にも知られるようになるころは、大きな騒ぎとなって簡単には火消しをすることができないほどになることがあります。それは、言葉による攻撃とも言える。3節で、「舌」とか「苦い言葉」と書かれているような、言葉の罪、というと、人を騙す偽りの言葉、という場合もありますが、この詩篇の場合は、人を陥れたり辱めるような、悪口や批判も含まっているようです。見えないところから言葉の攻撃が始まり、気が付かないうちに広まり、ある日突然に自分に害が及んでくる。この急な攻撃ということを、弓矢に例えています。3節の後半から。
苦いことばの矢を放っています。
4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
「全き人」とは、正しい人で、誰からも非難されるようなところがない人です。でも、イエス様でさえ悪く言われたくらいですから、どんなに正しい人でも、何かしら悪く言われることはある。それも隠れたところから、不意に攻撃されるのです。この卑怯なやり方をしながら、敵は「恐れません」と言っているのは、神を恐れないということです。神を恐れないとは、してはいけない罪を平気でする人のことです。この敵の、神を恐れない様子が、5節、6節に描かれています。5節。
5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。
「悪事に凝る」と言っています。趣味など、自分の好きなことには、100パーセントどころか、120パーセントの力でも惜しまずに行うのが「凝る」ということでしょうか。悪事に凝るとは、それが好きだからです。一人ではなく仲間と語り合う。悪いことのために協力してくる。しかも、罠をかける。これだけでも、なんと酷い奴らだろうと思うのですが、その彼らの言葉です。「だれに、見破ることができよう」。つまり誰にも見破られないほどに完璧な罠だ、というのです。しかし、本当は、すべてのことをご存じであり、すべてを見ておられる神様がおられるのに、その神様を認めていないのです。神を神として認めない、それは神に対する高慢な姿勢です。この高慢の罪。神様が最もお嫌いなさる罪だと私は思います。そうならないように気を付けなければいけません。高慢ですと、神様の声でさえも軽んじて聞こうとしない。その結果、悔い改めることもしないので、結果は裁かれるしかないのです。6節。
6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
自分のたくらみが上手くいったとおごり高ぶっています。どうして上手くいったか。それは、人の心は深いからだと言っています。でも、心の奥底に隠して悪事を企んでも、神様は見ておられるのではないでしょうか。その神様が、この高慢な者にどのような裁きを下されるかを、二番目に見てまいります。
2.神の裁き
旧約聖書では、神様の裁きの方法として、しばしば、「目には目を」の原則が用いられます。簡単に言えば、他者を騙そうとするものは、やがて自分が騙されて自滅する。剣で殺そうとする者は、自分も剣で滅ぼされる。この詩篇では、高慢な者たちは、彼らが誇っていることが打ち砕かれて、誇りを失い、辱めを受けるようになる。それが神の裁きとなります。7節。
7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
ここで意図的に、神様の御業を弓矢に例えています。敵が隠れて、不意に攻撃をしかけるという卑怯なやり方で詩人の命を取ろうとした。では、神様も卑怯なやり方を使うのでしょうか。そうではない、と思います。この7節で、神様は確かに矢を射かけるという攻撃をしていますが、弓矢自身は卑怯な武器ではありません。でも、彼らの方が「不意に傷つく」と書いているのはどういうことかというと。神様は予告をなさいます。彼らが罪を犯し続けるなら、神の裁きが来るぞ、と預言者たちは人々に神様からの警告をしている。でも高慢な者たちは、自分の悪は誰にも知られていない、と考えて、神様の警告を聞こうとしない。だから、ついに神様の裁きの日が来たときに、彼らは急に傷つけられた、と文句を言うのです。(ちょうど、ノアの洪水も、神様はノアに予告し、ノアは船を造ることで人々に証ししたのに、彼らは神様の警告に応答して悔い改めることをしなかった。だから、急に洪水がやってきた、ということをイエス様がルカの福音書の中で語っています。)
あるいは、8節。
8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
自分の舌、つまり自分で語った言葉が、みずからの躓きとなった。この言葉は、偽りの罪かもしれないし、高慢な言葉かもしれない。それまで大きなことを言っていたのが、神様によってその計画は砕かれて、上手くいったと誇っていたのが、人々から嘲られるようになってしまうのです。こうして高慢な者たちは蔑まれるようになり、彼らに苦しめられていた人々は命を救われる。神様の働きによって、立場が逆転し、悪が裁かれ、神様に頼る者たちが救われるという、あるべき姿となるのです。これが神による逆転の結果です。
この悪人たちに起きた出来事を見たときに、人々は、これは神の裁きだと悟って、神様を畏れるようになり、悪からは離れるようになる。それが9節の言葉です。
9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
神様の御業を認めたとき、人々は、悪事を働く者たちを怖がるのではなく、神様を畏れ敬う者となり、さらには、もう誰かを恐れて黙るのではなく、むしろ、堂々と神様の御業を語り伝えるようになるのです。このことが文字通りに成就した例が、『使徒の働き』の2章で、ペンテコステの日に、それまでユダヤ人たちを恐れていた弟子たちが、聖霊を受けて、変えられ、隠れていたのが、堂々とキリストを証しするようになった。これも神による逆転です。私たちの人生も、同じではないでしょうか。恐れや不安、あるいは罪の中で沈んでいた者が、罪を赦され、救いに与り、人生が変えられて、神様を証しし、賛美する者となるのです。しかし、そのために、一つ、大切なことがあります。
3.私はどちらか
最後に、10節に触れたいと思います。
10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
この新改訳の文章ですと、正しい者は主にあって喜ぶ、と言っている。ところが、小林和夫先生は、この動詞は命令形として読むことができる、と解説しています。実際、この箇所の文章を分析すると、命令的な意味をして読むほうが良いように見えます。つまり、正しい者は主にあって喜びなさい、ということです。正しい者、つまり神様によって救われて、罪が赦されて、義なる者と認められた人のことです。そのような人は、きっと喜ぶようになるでしょう。でも、本当になれるんだろうか、というようなあやふやなことを語っているのではなく、「救われた者よ、喜びなさい」と命令している、そのように励ましておられるのです。今はまだ敵がいるのかもしれない。でも、神様は「いつも喜んでいなさい」と命じておられる。条件が良くなったら誰でも喜べる。でも、神様は、たとえ厳しい状態のままでも、必ず神様が救ってくださると信頼して、主にあって喜ぶ、主が共にいてくださるから信じて喜ぶのです。この信仰による応答、それが私たちのなすべきことです。
さらに神様はチャレンジしておられる。10節の最後は、「誇ることができるでしょう」。これも、いつかそうなるかもしれない、というような曖昧なことを言っているのではなくて、「誇りなさい」とはっきりと命じている。ただ、気を付けなければならないのは、10節の前半で「主にあって」と語っているので、後半では「主にあって」という言葉は省略されている、ということです。主にあって誇りなさい、それは主を誇りとして賛美することです。この「主にあって」を忘れますと、誇るのに、自分を誇るようになる。この「誇りなさい」という動詞は、自分に対して使うなら、高慢な自慢となる。でも、神様に対して使う時は、ハレルヤと同じ意味で、主を賛美する、ずっと賛美し続ける、という意味になります。
難しい話をしてすみません。でも、あなたは、自分の計画が実現することを喜び、自分の自慢をするのでしょうか。それでは、最初に出てきた高慢な者と同じです。それとも、神様を褒めたたえ、神様を喜ぶ。神様を神様として敬い、他の何か、自分の願いが叶うことよりも、神様ご自身のことを喜ぶのでしょうか。もし、自分の中にも高慢な思いがあって、神様に従うよりも自分を中心として行きたいと願っていることに気が付いたなら、10節の真ん中で「主に身を避けます」と語っているように、その罪から救われるためにも、神様に救いを求めて、神様のところに逃げ込む。そして、神様の前に自分の心の奥底に隠れて、誰も知らないと思っているような、自分の罪を神様の前に言い表して、悔い改める。その時、神様はどんな者でも救いの恵みに入れてくださるのです。神様の逆転の御業は、ほかの誰かではなく、敵が打ち破られることでもなく、それ以上に、私自身が変えられること、それが最大の逆転劇ではないでしょうか。あなたの人生も神様によって大逆転、神様が勝利をとってくださるのです。
まとめ.
神様は私たちが高慢や自己中心の罪から救われることを願っておられます。苦難の中にいる人が神様を賛美する者に変えられることも恵みです。でも、そこで終わってしまうのではなく、さらに私たちが神様のものとされ、救いの恵みを証しする者となることを願っておられるのです。教会の暦では、今秋からアドベント、クリスマスを待ち望む時期です。私たちを救うために神の御子が天から下ってきてくださり、謙って人間の姿となり、十字架にまでついて私を救ってくださった。罪人を救って、神の子としてくださる、神の逆転の御業が実現したのがクリスマスです。だから私たちも高慢な思いを捨てて、神様のもとに遜りましょう。
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