2021年11月28日

11月28日礼拝説教「神による逆転」(詩篇64:1〜10)

11月28日礼拝説教「神による逆転」(詩篇64:1〜10)
今日も詩篇を開いてまいります。詩篇の150の詩のうち一番多いのは、「歎きの歌」とも呼ばれる、苦悩の時の祈りです。しかし、その祈りは途中で賛美に変わっていきます。どこから賛美に変わっていくかを読み取ることは、私たちも、どうしたら嘆きの中から賛美や感謝の心に変わることができるか、という秘訣を学ぶことにつながります。その、歎きから賛美に変わるきっかけは様々ですが、そこには詩人の信仰があります。どれほど苦悩の中にいても、「しかし私は神様を信頼します」と告白することで、この心が変わっていくのです。でも、そんなこと言ったって、苦しいときには簡単に神様を信頼できないかもしれません。そのときに必要なのは、人間の力や信仰では足らない。やはり、そこにこそ神様の助けが必要なのです。ですから、嘆きの祈りが賛美に変えられるのは、その人の信仰が素晴らしいからではなくて、神様が逆転させてくださる。私たちは、人間の作った歌である詩篇の中にも、神様の不思議な働きが隠されていることを見出していく。それが詩篇を読むときに目指すところなのです。
今朝は、「神による逆転」と題して、詩篇64篇より、いつものように三つのポイントに沿って、御言葉を取り次がせていただきます。第一に「高慢な心」ということ、第二に「神の裁き」、そして第三に「私はどちらか」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.高慢な心
1節からもう一度、少しずつ見てまいりましょう。
1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
祈りの最初は、私の祈りの声を聞いてください、と神様に訴えるところから始まることが詩篇にはよくあります。もちろん、神様は聞いておられるはずですが、それでも「聞いてください」と訴えるのは、それほど切羽詰まっている状況だからです。ただ、聞いてくださいという思いが強すぎて、具体的な助けを求めるのは、心が落ち着いてからになるので、本題に入るのに時間がかかることもあります。しかし、この詩篇では、すぐに「恐るべき敵から、私のいのちを守ってください」と具体的に助けを求めています。それは、もう神様への信頼があるからではないかと思います。「恐るべき敵」、2節では「悪を行う者ども」とか、「不法を行う者ら」と語っているように、敵に苦しめられ、命までも狙われている、という状況です。その敵の攻撃は、2節では「はかりごと」と書かれているように、隠れてひそかに悪事を計画し、それが突然に実行されて、「騒ぎ」と訳されているように、ある日突然に大騒動になる。
悪い噂や批判の言葉というのは、大抵、本人の知らないところで始まり、それが本人にも知られるようになるころは、大きな騒ぎとなって簡単には火消しをすることができないほどになることがあります。それは、言葉による攻撃とも言える。3節で、「舌」とか「苦い言葉」と書かれているような、言葉の罪、というと、人を騙す偽りの言葉、という場合もありますが、この詩篇の場合は、人を陥れたり辱めるような、悪口や批判も含まっているようです。見えないところから言葉の攻撃が始まり、気が付かないうちに広まり、ある日突然に自分に害が及んでくる。この急な攻撃ということを、弓矢に例えています。3節の後半から。
苦いことばの矢を放っています。
4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

「全き人」とは、正しい人で、誰からも非難されるようなところがない人です。でも、イエス様でさえ悪く言われたくらいですから、どんなに正しい人でも、何かしら悪く言われることはある。それも隠れたところから、不意に攻撃されるのです。この卑怯なやり方をしながら、敵は「恐れません」と言っているのは、神を恐れないということです。神を恐れないとは、してはいけない罪を平気でする人のことです。この敵の、神を恐れない様子が、5節、6節に描かれています。5節。
5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。
「悪事に凝る」と言っています。趣味など、自分の好きなことには、100パーセントどころか、120パーセントの力でも惜しまずに行うのが「凝る」ということでしょうか。悪事に凝るとは、それが好きだからです。一人ではなく仲間と語り合う。悪いことのために協力してくる。しかも、罠をかける。これだけでも、なんと酷い奴らだろうと思うのですが、その彼らの言葉です。「だれに、見破ることができよう」。つまり誰にも見破られないほどに完璧な罠だ、というのです。しかし、本当は、すべてのことをご存じであり、すべてを見ておられる神様がおられるのに、その神様を認めていないのです。神を神として認めない、それは神に対する高慢な姿勢です。この高慢の罪。神様が最もお嫌いなさる罪だと私は思います。そうならないように気を付けなければいけません。高慢ですと、神様の声でさえも軽んじて聞こうとしない。その結果、悔い改めることもしないので、結果は裁かれるしかないのです。6節。
6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
自分のたくらみが上手くいったとおごり高ぶっています。どうして上手くいったか。それは、人の心は深いからだと言っています。でも、心の奥底に隠して悪事を企んでも、神様は見ておられるのではないでしょうか。その神様が、この高慢な者にどのような裁きを下されるかを、二番目に見てまいります。
2.神の裁き
旧約聖書では、神様の裁きの方法として、しばしば、「目には目を」の原則が用いられます。簡単に言えば、他者を騙そうとするものは、やがて自分が騙されて自滅する。剣で殺そうとする者は、自分も剣で滅ぼされる。この詩篇では、高慢な者たちは、彼らが誇っていることが打ち砕かれて、誇りを失い、辱めを受けるようになる。それが神の裁きとなります。7節。
7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
ここで意図的に、神様の御業を弓矢に例えています。敵が隠れて、不意に攻撃をしかけるという卑怯なやり方で詩人の命を取ろうとした。では、神様も卑怯なやり方を使うのでしょうか。そうではない、と思います。この7節で、神様は確かに矢を射かけるという攻撃をしていますが、弓矢自身は卑怯な武器ではありません。でも、彼らの方が「不意に傷つく」と書いているのはどういうことかというと。神様は予告をなさいます。彼らが罪を犯し続けるなら、神の裁きが来るぞ、と預言者たちは人々に神様からの警告をしている。でも高慢な者たちは、自分の悪は誰にも知られていない、と考えて、神様の警告を聞こうとしない。だから、ついに神様の裁きの日が来たときに、彼らは急に傷つけられた、と文句を言うのです。(ちょうど、ノアの洪水も、神様はノアに予告し、ノアは船を造ることで人々に証ししたのに、彼らは神様の警告に応答して悔い改めることをしなかった。だから、急に洪水がやってきた、ということをイエス様がルカの福音書の中で語っています。)
あるいは、8節。
8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
自分の舌、つまり自分で語った言葉が、みずからの躓きとなった。この言葉は、偽りの罪かもしれないし、高慢な言葉かもしれない。それまで大きなことを言っていたのが、神様によってその計画は砕かれて、上手くいったと誇っていたのが、人々から嘲られるようになってしまうのです。こうして高慢な者たちは蔑まれるようになり、彼らに苦しめられていた人々は命を救われる。神様の働きによって、立場が逆転し、悪が裁かれ、神様に頼る者たちが救われるという、あるべき姿となるのです。これが神による逆転の結果です。
この悪人たちに起きた出来事を見たときに、人々は、これは神の裁きだと悟って、神様を畏れるようになり、悪からは離れるようになる。それが9節の言葉です。
9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
神様の御業を認めたとき、人々は、悪事を働く者たちを怖がるのではなく、神様を畏れ敬う者となり、さらには、もう誰かを恐れて黙るのではなく、むしろ、堂々と神様の御業を語り伝えるようになるのです。このことが文字通りに成就した例が、『使徒の働き』の2章で、ペンテコステの日に、それまでユダヤ人たちを恐れていた弟子たちが、聖霊を受けて、変えられ、隠れていたのが、堂々とキリストを証しするようになった。これも神による逆転です。私たちの人生も、同じではないでしょうか。恐れや不安、あるいは罪の中で沈んでいた者が、罪を赦され、救いに与り、人生が変えられて、神様を証しし、賛美する者となるのです。しかし、そのために、一つ、大切なことがあります。
3.私はどちらか
最後に、10節に触れたいと思います。
10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
この新改訳の文章ですと、正しい者は主にあって喜ぶ、と言っている。ところが、小林和夫先生は、この動詞は命令形として読むことができる、と解説しています。実際、この箇所の文章を分析すると、命令的な意味をして読むほうが良いように見えます。つまり、正しい者は主にあって喜びなさい、ということです。正しい者、つまり神様によって救われて、罪が赦されて、義なる者と認められた人のことです。そのような人は、きっと喜ぶようになるでしょう。でも、本当になれるんだろうか、というようなあやふやなことを語っているのではなく、「救われた者よ、喜びなさい」と命令している、そのように励ましておられるのです。今はまだ敵がいるのかもしれない。でも、神様は「いつも喜んでいなさい」と命じておられる。条件が良くなったら誰でも喜べる。でも、神様は、たとえ厳しい状態のままでも、必ず神様が救ってくださると信頼して、主にあって喜ぶ、主が共にいてくださるから信じて喜ぶのです。この信仰による応答、それが私たちのなすべきことです。
さらに神様はチャレンジしておられる。10節の最後は、「誇ることができるでしょう」。これも、いつかそうなるかもしれない、というような曖昧なことを言っているのではなくて、「誇りなさい」とはっきりと命じている。ただ、気を付けなければならないのは、10節の前半で「主にあって」と語っているので、後半では「主にあって」という言葉は省略されている、ということです。主にあって誇りなさい、それは主を誇りとして賛美することです。この「主にあって」を忘れますと、誇るのに、自分を誇るようになる。この「誇りなさい」という動詞は、自分に対して使うなら、高慢な自慢となる。でも、神様に対して使う時は、ハレルヤと同じ意味で、主を賛美する、ずっと賛美し続ける、という意味になります。
難しい話をしてすみません。でも、あなたは、自分の計画が実現することを喜び、自分の自慢をするのでしょうか。それでは、最初に出てきた高慢な者と同じです。それとも、神様を褒めたたえ、神様を喜ぶ。神様を神様として敬い、他の何か、自分の願いが叶うことよりも、神様ご自身のことを喜ぶのでしょうか。もし、自分の中にも高慢な思いがあって、神様に従うよりも自分を中心として行きたいと願っていることに気が付いたなら、10節の真ん中で「主に身を避けます」と語っているように、その罪から救われるためにも、神様に救いを求めて、神様のところに逃げ込む。そして、神様の前に自分の心の奥底に隠れて、誰も知らないと思っているような、自分の罪を神様の前に言い表して、悔い改める。その時、神様はどんな者でも救いの恵みに入れてくださるのです。神様の逆転の御業は、ほかの誰かではなく、敵が打ち破られることでもなく、それ以上に、私自身が変えられること、それが最大の逆転劇ではないでしょうか。あなたの人生も神様によって大逆転、神様が勝利をとってくださるのです。
まとめ.
神様は私たちが高慢や自己中心の罪から救われることを願っておられます。苦難の中にいる人が神様を賛美する者に変えられることも恵みです。でも、そこで終わってしまうのではなく、さらに私たちが神様のものとされ、救いの恵みを証しする者となることを願っておられるのです。教会の暦では、今秋からアドベント、クリスマスを待ち望む時期です。私たちを救うために神の御子が天から下ってきてくださり、謙って人間の姿となり、十字架にまでついて私を救ってくださった。罪人を救って、神の子としてくださる、神の逆転の御業が実現したのがクリスマスです。だから私たちも高慢な思いを捨てて、神様のもとに遜りましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年11月21日

今日はお休み

今日は教会の創立記念・献堂記念の特別礼拝のため、外部講師が御用をしてくださいました。
私の説教原稿はありません。
posted by ちよざき at 15:28| Comment(0) | 日記

2021年11月14日

11月14日礼拝説教「心が渇いたときに」(詩篇63:1〜11)

11月14日礼拝説教「心が渇いたときに」(詩篇63:1〜11)
喉が渇いたことは誰でも経験があるでしょう。夏の炎天下で運動をしたら喉が渇きます。私が中高生の頃は、まだまだ古いやり方があって、部活動などで運動をしているときは、あまり水を飲むことができない。休憩時間になって漸く飲むことができるのですが、それまでは喉も口の中もカラカラです。また飲みたいだけ飲むと良くないと言って叱られたものです。今では、そんなことをしたら脱水症状になって倒れてしまいます。昔はそんな知識もなかった。おかげさまで、あまり水を飲まないでも我慢できるようになってしまいました。最近は、健康のために、以前に比べると水を良く飲むようになりました。
夏に、クーラーの効いた室内にいますと、渇きを感じなくなることがありますが、実際には空気が乾燥して水分は失われていますので、こまめに水分補給することが必要です。また年齢と共に渇きに気がつきにくくなるとも言われます。喉が渇く以前に、体が渇いて水分を必要としていることに気がつかないということは危険なことです。
水分補給の話はさておき、私たちは心の渇きに敏感でしょうか。なぜ、心が渇くのか。あれこれ試してみても、本当に心の渇きを癒やすことはできない。私たちは神様に対して心が渇くのです。私には神様が必要です。それに気がつかないで、心が渇いていても平気になってしまっていたら、魂の健康は危険な状態になります。
今日は詩篇63篇より「心が渇いたときに」と題してメッセージを取り次がせていただいます。いつものように、三つのポイントで。第一に「求める者を満たす神」、第二に「すがる者を救う神」、そして第三に「正しくする王なる神」という順序で進めてまいります。
1.求める者を満たす神(1〜6節)
1節をもう一度読みます。
1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
なぜ、この詩人は渇いているのか。「神よ。あなたは私の神」と始まっていますが、この人と神様との関係がいかに強く結びついているかがわかります。「私の神」、他の人はどうでも良いということではありませんが、反対に、みんなの神様、あの人たちの神様で、自分はあまり神様に近くない、というのも困ります。私の神と呼べるほどに神様と共に歩んできた。それが、何かがあって神様との関係が切れてしまった。だから心が渇くのです。
この神様を知らないときに、人は心が飢え渇きます。その渇きを癒やそうとして、様々なものを求めます。人間関係や、やりがいある仕事、金銭や欲しいモノ。でも、それらは手に入っても満足が続かないで、また他のモノを求める。本当の満足は、神様を知ることによって得られるものです。生ける神様との生きた関係。それが私たちに必要なのです。
昨年来、コロナ禍のために、この教会堂での礼拝に出席できない方々がおられます。どれほど教会での礼拝に渇いておられることでしょう。もちろんインターネットなどを通して御言葉に触れておられるでしょう。でも、御言葉の恵みをいただくと、ますます神様にもっと近づきたくなるのではないでしょうか。先日も一年半ぶりで教会に来てくださった方がおられます。お迎えした私たちも喜び、その方も喜んでおらえる。本当に嬉しかったことです。
この詩人は、気を失いそうになるほどに神様との交わりに渇いているのです。だから神様を尋ね求めて祈っているのです。そして、イエス様の教えに「求めよ、さらば与えられん」とありますが、これは欲しいものは何でも手に入れることができる、という欲望を叶える約束ではなく、私たちが神様を慕い求めるなら、必ず神様は私たちの心に臨んでくださり、神様を知ることができるように導いてくださる。2節の後半で
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
聖所とは祈りの家です。神様を求めて祈る。すると、3節。
3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
神の恵みはいのちにも勝る、とはどういうことでしょう。命は、自分の命のことだと考えると、自分の命よりも神様の恵みが大切だ、といえるでしょう。いいや、やっぱり自分の命が一番大切だ。多くの人はそう考えます。しかし、もし自分の命が長く続けたとしても、神様の恵みから見放されたら、どうでしょうか。それは絶望の日々です。神様の恵みが注がれているなら、たとえ地上の命が終わるときが来ても、永遠のいのち、天国へと入れていただける。だから神の恵みは命よりも何よりも勝る。それほど神様と共にいること、神様からの恵みをいただくことが大切なのです。
このことを具体的に体験しているのが、5節、6節です。
5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
6 ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

床の上で、夜祈るのです。神様のことを思い出し、夜が更けるまで神様を思い、考えをむける。そのとき不思議なように心が満たされることを、脂肪と随、これはご馳走を意味する表現です。神様の恵みを数え上げ、神様の素晴らしさに心を寄せるとき、唇から賛美があふれ出るのです。
皆さん、私たちは、ここまで神様の恵みのご馳走を味わっているでしょうか。この恵みの水をしたい求めて、心が渇いているでしょうか。それとも、心の渇きに気がつきもしないで、平気になってしまってはいないでしょうか。心から神様への賛美の言葉が溢れてきているでしょうか。心の渇きを癒やすのは、御言葉と祈りですが、ただ聖書を読み、自分の願いが適うことを求めるのではなく、神様に心を向けることです。心が渇くとき、まず祈りましょう。
2.すがる者を救う神(7〜10節)
次に7節からに目を向けます。7節、8節。
7 あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。
8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

ここで詩人は、これまでの神の助けを思い出していたのでしょう。いろいろな危機を体験し、そのたびに神様が助けてくださった。御翼の陰、というのは母鳥が雛を翼の下にかくまう様子です。それは敵が攻撃してきたからです。また、すがる。神様に必死で助けを求める姿です。背中にすがるように、敵から守ってくれることを願っている。しかし、神様はその敵の手からこの人を何度も助けてくださったのだと思います。
その敵のことが具体的に語られているのが9節、 10節です。
9 しかし、私のいのちを求める者らは滅んでしまい、地の深い所に行くでしょう。
10 彼らは、剣の力に渡され、きつねのえじきとなるのです。

9節の「私のいのちを求める者らは滅んでしまい」と訳されている言葉は、「彼らは滅ぼそうと私の命を求めている」と読むことも可能です。何が違うかと言いますと、新改訳の訳し方では、敵が滅んでしまうように祈っているのに対し、口語訳などの訳では、敵が私を滅ぼそうとしている。旧約聖書を読んで行きますと、無実の人を滅ぼそうとするような悪人は、神によって裁かれて滅ぼされる。ですから、敵も私を滅ぼそうとしており、その悪のために神様が彼らを滅ぼす。まあ、そんな悪い奴らは滅んでしまえ、と考えるのもわかります。しかし、一体、敵は何のために私の命を求めているのでしょうか。その原因は書かれていませんが、欲望のためかもしれません。この詩人を倒すことで、その財産を奪おうとする。ダビデの場合は、王座を奪うために息子たちが彼を倒そうとします。あるいは、妬みや怒りかもしれません。サウルがダビデの命を狙ったのは、妬みが始まりで、やがて怒りとなっていった。どのような理由であっても、命を狙った者は、やがて自分自身が滅ぼされる。10節の「きつねのえじき」とは、戦って剣で倒れた者を、狐、他の翻訳では山犬とかジャッカルとも訳されています。野生動物の餌食となってしまう。欲望や妬み・怒りが自分自身を滅ぼすのです。
でも、この欲望や妬み怒りは、私たちの中にもないでしょうか。そしてその思いがゆえに、相手を敵視して滅ぼそうとしてしまうようになってしまったら、それは滅びが忍び寄ってきます。でも欲望も、怒りや妬みも、誰の心にも起こりうることです。どうしたら、そのような滅びの原因から解放されるか。それは、神様との生きた交わりが必要です。自分の欲望に任せて何かを得ようとするよりも、神様との交わりの豊かさに満足するなら、他の何かは色あせて見えるようになります。神様の赦しの恵み、神の深い愛に心が満たされるなら、敵のことで怒ったり妬んだりすることがむなしくなります。滅びに向かってしまうような心、その心の奥にある罪から救われるのは、神様の交わりによるのです。
3.正しくする王なる神(11節)
最後に11節を読みます。
11 しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。偽りを言う者の口は封じられるからです。
ここで突然に王様に関する祈りが登場します。私たちにとっては、唐突に感じますが、当時の人々にとっては良い王様のために祈ることは大切なことでした。61篇でも同じことをお話ししたと思います。欲望に任せ人の命を狙う。そんな犯罪が無い社会にするためには、王様が正しい政治を行うことが不可欠でした。でも、神様が悪人を裁いてくださるとき、人間の王では裁ききれない者たちも神が裁いてくださる。だから王様が神様のことを喜ぶのです。また「神にかけて誓う」とは祈りのことです。祈りの中で、神様が必ず助けてくださると信頼して祈る。その信頼を誓いという形で祈って表しているのです。神様が必ず助けてくださると信頼して祈ったのに、そうならなかったら、信じて祈った者は恥を受けます。でも、祈った通りに神様が救ってくださったとき、人々は神様を誇ります。そのような民がいる国、正しい王様が治めている国。それが詩人が願っていることです。偽りを言う口が封じられる。どれだけ偽りの言葉が人間関係を破壊し、社会を揺るがすか。でも、偽り者は言葉巧みにごまかすでしょう。その偽りの言葉を神様が封じてくださる。
人間の社会は偽りに満ちています。口先では良いことを語っても、心の中は欲望や悪い思いがいっぱいで、それが他の人を滅ぼそうとする。それを正そうとしても、王様だって心の中までは見ることはできません。だから、王様も祈るのです。
王様のための祈りは、ダビデ王が作ったのか、あるいはダビデの家来がこのように祈ったのか。どちらも考えられるのですが、でもダビデ自身も王としての自分の足らなさを思い知ったとき、特に罪を犯して、王としては失格したとき、彼も神様にすがるようにして祈ったことでしょう。ダビデ王も、自分の上には王の王である神様がおられることを知っておりました。私たちも自分が王ではありません。私の王であり、主であるキリストがおられ、このお方が私たちの人生を導いていてくださるのです。そして、王が喜ぶとき、王に従う者たちも喜び、王様と共に王の王である神様を褒め称える。このような思いに至ったとき、もう、この詩人の心は渇ききってはいません。神様のなさることを思って満たされたことでしょう。そして、この詩篇を作って、他の人たち、特に同じように神様に従い、神様に祈る人たちにも、この恵みを知って欲しい、一緒に賛美を捧げたかったのだと思います。
この王なる神様が、私たちの王として、私たちを罪から救い、悪から、守り、恵みの雨を注ぎ、私たちが賛美と喜びに満たされるように導いておられる。私たちもこのお方を信頼して、困難な時、心が渇くときにこそ、神様に祈ろうではありませんか。
まとめ.
今、私たちは渇いているかもしれません。もっと兄弟姉妹との交わりがしたい。もっと神様を賛美したい。もうしばらくの辛抱です。でも、渇きの中にいるときこそ、神様に祈り、神様からの脂肪と髄、最高の恵みをいただいて欲しいのです。その恵みに至るのは、切なる祈りです。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」私たちもこの詩篇に心を合わせて祈り求めましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教