今、礼拝では毎週、詩篇を開いていますが、詩篇には昔の信仰者たちの賛美と祈りが書かれています。時代は変わっても、祈る思いには、何か通じるものがあることを感じます。祈りのスタイルは、時代や文化によって様々です。宗教や民族の違いもあります。イスラム教の方たちが、地面にひれ伏して祈る姿は有名です。新約聖書の時代にも、立ち上がって手を掲げて、天を仰いで祈る人もいました。静かに祈る人もいれば、声を上げて叫ぶようにして祈る人もいます。池の上教会が属しています日本ホーリネス教団も、50年前は大きな集会に行きますと、大声で祈る人が結構いました。最近は大人しくなったのかもしれません。実際に叫ぶことはないとしても、神様に対して叫ぶような思いで祈る、必死で叫び求める、ということはあるかもしれません。それは、どうしても何かをしてほしい、というときでしょう。何かの苦しみの中にいる人が、その苦しみから救って欲しいと叫び求めることは、自然な心だと思います。何かが欲しい、自分の願いをかなえて欲しい、という場合もあるでしょう。もちろん、何を求めるかが問われます。
先ほど朗読していただいた詩篇61篇は、比較的短めの詩篇ですが、1節から神様に叫びつつ祈っています。この詩篇を通して、私たちは何を叫び求めるのか、考えてまいります。いつものように三つのポイントに分けて、第一に「高き岩の救い」、二番目に「神がくださる地」、そして最後に「王の治める国」という順序で進めてまいります。
1.高き岩の救い(1〜4節)
この詩人がどんな困難の中にいたのかは、詳しくは書かれていません。3節に「敵」という言葉が出てきますので、何らかの敵に苦しめられていたらしい。でも、具体的に誰にどんなことをされたのかはわかりません。当時のことですから、文字通り、武器を持った敵がいたのかもしれません。若き日のダビデは、羊飼いをしていて獣と戦ったと語っていますから、敵とは猛獣かもしれない。日本では、武器を持った敵も獣も、ほとんど遭遇することはありませんが、災害の多い国です。台風や地震で、例えば洪水が押し寄せてくる。そんなとき、高いところに避難するよりほか、助かる道は無い。この詩人も、敵に囲まれたとき、高い岩の上に逃げた経験があったのでしょう。1節からもう一度読みます。
1 神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
彼が叫び求めた祈りは、高い岩の上に導いてください、ということでした。どんな濁流でも、また猛獣でも、高い岩の上に登れば、必ず助かる。相手が人間の敵ですと、自分が昇ることができる岩なら、敵もよじ登ってくるかもしれません。ですから彼は、「私の及びがたいほど高い岩の上」と語っているのです。自分も登ることが難しいほどに高い、いいえ、人間の力では及ばない高さなのです。そこに登らせてくださるのは、神様以外にはできない。それほどに高い岩なのです。
神様の力で、人間には及ばないほどの助けが与えられるなら、どんな困難があっても、それに打ち勝つことができるでしょう。例えば病気という困難の中にいるときに神様の奇跡によって癒される。新約聖書を読みますと、生まれつき目が見ない人が見えるようになった。一度も歩いたことがない人の足が強められて立ち上がることができるようになり、歩き出し、跳ね回り、踊りだした。これまでの彼には考えられないことです。神様には、そうすることができる力があることを私たちは信じています。でも必ず、いつでも、病気が癒されるか、また、どのように神様の御手が働かれるかは、これも人間にはわかりません。パウロは、彼自身も多くの人を癒したのですが、自分のことで、彼には肉体にとげがある、と語っていますが、おそらく目の病気があっただろうと学者たちは考えています。その病気が癒されたなら、もっとキリストを伝えることができる、だから癒してください、とパウロは必死に祈った。けれども、彼は癒されない。そのとき、「弱さの中に恵みがある」と彼は教えられた。確かに、たとえ病が癒されないとしても、その中で神様の恵みを知ることもあります。でも、できるなら癒されて元気になりたいのが正直な思いです。
他にも、仕事の困難、人間関係の悩み、など、様々な苦難に囲まれることがあります。人とぶつかり、周囲から批判され、どうしようもなくなったとき、詩篇の中には鳥のように山に逃げたい、という祈りもあります。高い岩の上に登ったら、誰ともぶつかることはなくなる。自分に敵対する人が遠くに行ったら良いのに。仕事が大成功して、大儲けが出来たら。様々な「高い岩」を私たちは願います。でも、ずっと高いところにいたままでは決してないのです。いつかはまた地上に戻らなければならないときが来る。そして、また、新たな困難が来るのです。
詩人は気が付きます。3節。
3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。
4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。
高い岩以上に確かな救いは、神様ご自身がともにいてくださることです。どれほど敵が押し寄せてきても、神様が共にいてくださり、私を翼の陰に守ってくださる。敵がいなくなるのではない、押し寄せる大水が消え去るのではない。でも神様がいてくださる。それが、「神はわれらの避け所」なのです。旧約時代の人々にとって、神様が共にいてくださり、イスラエルの真ん中に住んでくださることの象徴が幕屋、後の神殿でした。神の幕屋に住むことこそが心からの願いとなったのです。
私たちは何を求めましょうか。今ある問題が解決する以上に、神様が私の味方となってともにいてくださる。決して私を見捨てない。これこそが私たちの第一の願いなのです。
2.神がくださる地(3〜5節)
さて、高い岩にせよ、神の幕屋に住むことにせよ、結局は、いつかはそこから離れなければならないのなら、同じことです。でも、神様が共にいてくださり、助けてくださることを、苦難の中にいる神の民は求めて祈りました。その祈りに応えて、神様がくださったのが、5節です。
5 まことに、神よ。あなたは私の誓いを聞き入れ、御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。
誓いとは、詩篇の時代には祈りの最後に誓いを立てましたので、祈りのことを誓いと言っています。また、祈る彼自身も、「御名を恐れる」と書かれているように、神様を畏れ敬う人でしたから、自分勝手な祈りをすることもない。ですから神様は「受け継ぐ地を私にくださいました」。受け継ぐ地は、古い口語訳聖書では「嗣業」という言い方をしました。嗣業とは神様がくださった土地です。地とは住む場所、働く場所、すなわち普段の生活の場所です。神様は彼らに土地を与えてくださった。それが出エジプト記以来、イスラエルにとって大切な恵みでした。
では、自分の受け継ぐ地に戻ったら、神様から離れ、高い岩ではなく人の多い平地にいることになるのでしょうか。この受け継ぐ地は、神様が彼らに与えた土地ですが、本当は神様のものです。それを預かっているのですから大切にしなければならない。大切なことは、嗣業も神様の土地だということです。
ソロモン王が神殿を立てたときの祈りが列王記や歴代誌に書かれていますが、その中でソロモンは、この神殿でさえ神様をお入れすることはできない。天地でさえ神様には小さすぎる。それほど大いなるお方です。ですから、神様から預かった地に住むとき、そこは神様が共におられる場所だと知るのです。住んでいる土地の中心にある場所が神殿、神の幕屋です。ですから、私の生活の中心も神様だということを表すためにも、私たちは一週間の初めの日に神様の前に進み出て礼拝をささげ、また日曜日だけでなく、いつでも、共にいてくださる神様に悩み苦しみを打ち明けて祈るのです。これが、私たちの嗣業です。
私たちのためには、受け継ぐ地として、神様は教会を与えてくださいました。教会とは、建物ではありません。教会堂を中心とする生活のすべてです。主にある兄弟姉妹との交わり、聖徒の交わりも教会です。それはクリスチャンでない人を排斥するのではなく、やがてその人たちも救われて神の民となることを祈りつつ待つ。ですから、その人たちも教会の一部となっていく。そして、離れていても、兄弟姉妹とは祈りによってつながっています。現代は便利なことに、直接は会えないときでも、メールなどの新しい方法でつながって言葉をやり取りすることもできる。顔を見ることもできる。コロナ禍にあって、祈りや、また礼拝でさえ、離れていることで妨げられることはないことを私たちは学びました。この交わり、教会のつながり、それは神様とのつながりに結びついている。ですから、どんな状況でも、いつでも、私たちは教会につながり、神様と共に住むことができるのです。
もちろん、だからと言って、もう教会堂に来る必要がなくなるのではありません。教会での礼拝、聖徒の交わりは、生活の中心です。そこがぼやけてしまうと、日曜日だけの信仰となってしまったり、やむを得ず教会堂に行くことができないことを気に病んでしまう。いいえ、自分の生活の中心は神様1であり、神様との交わりであり、教会と兄弟姉妹との交わりであることを忘れないなら、神様が最善を行ってくださる、いや、もうしていてくださるのです。
イスラエルの歴史を見ると、この中心が崩れ、礼拝が偶像礼拝になってしまい、祈りがご利益だけを求めるようになり、せっかくの嗣業での祝福が失われてしまったのです。ただ、信仰者たちは、神様を畏れ敬って生活を続け、礼拝を心から求めた。それが詩篇の祈りなのです。
3.王の治める国(6〜7節)
さて、詩篇61篇にもどり、6節を読みます。
6 どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。
7 彼が、神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。
ここで、突然に、王様のための祈りが始まります。でも、当時の人々にとっては、神様が遣わしてくださったのが王様ですから、神様への祈りの中で王様のことを祈るのは、自然なことでした。王様が神様に従う正しい王であるなら、受け継いだ地での生活も守られます。中心である信仰生活、神殿や祈りを守るのも王様の働きです。王様が神様に逆らう悪い王になったとき、祝福が失われ、神殿は破壊され、人々は捕囚に連れていかれてしまった。もう信仰の中心は壊れてしまったのです。そうならないために、良い王様の治世が長く続くことを祈るのです。長寿だけでなく、7節では、王座、すなわち治世が続くことを願い、その王様に「恵みとまこと」を授けてください、と祈っています。
牧師は王様ではありませんが、でも信徒の方々が牧師のために祈ってくださっているから、神様がその働きを続けることができるのです。一番、王様に必要なのは「恵みとまこと」だと語っています。恵み、すなわち、神様の無償の愛が注がれ、まこと、つまり神様の真実と正義によって王様が国を正しく治めることが祈られているのです。しかし、人間の王様には限界がある。失敗をしてしまうこともあり、不信仰になって神様に背き、国を滅びに向かわせてしまう。でも、イスラエルには王の王である神様がおられる。
私たちには、イエス様がおられます。教会の主であり頭であるお方、それがキリストです。このお方は最初から「恵みとまことに満ちていた」とヨハネの福音書に書かれています。今もイエス様は教会の王として、御言葉によって私たちを救いに導き、道を間違いそうになったときにも、御言葉によって正し、私たちを治めていてくださるのです。そして御言葉によって私たちを日々養い、高き岩である天国にまで導いていてくださるのです。そして御言葉が成就して、神様の御心がなされるとき、神様は人間が及ばないほどのことをしてくださる。私たちは救いを求めます。罪からの救いが一番重要ですが、ほかにも様々な助けを求めます。でも、何かから助けてくださることや、私が罪から救われることだけでとどまるのではありません。さらに豊かに祝福を注ぎ、私たちもアブラハムのように祝福の基となる。そのとき、私を通して主の栄光が明らかにされる。いつかそうなるではなく、今も、そして日々、主が王として教会を治め、私を治め、世界を支配してくださる、世界の主となってくださることを願うのです。
まとめ.
主の祈りの中で、「御国が来ますように」と祈ります。それは神の国が実現して、神様が王として支配されることです。そして、天でもそうであるように、地でも、御心がなされる。この祈りを日々続け、何かの助けや救いや祝福以上に、キリストの御国が来ますように、特に私自身がイエス様に従うものとなりますように、と祈り続けましょう。詩人が叫ぶように祈ったように、私たちも必死の祈りによって、「御国が来ますように」と祈りましょう。
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