2021年08月15日

礼拝説教「偽りに打ち勝つ」(詩篇52:1〜9)詩篇52篇

礼拝説教「偽りに打ち勝つ」(詩篇52:1〜9)詩篇52篇
詩篇の多くは1節の前に表題と呼ばれる小さな字の部分があります。表題については難しい問題もあって、普段はあまり触れないようにしているのですが、時には詩を理解するヒントとなることが書かれています。今日の詩篇の表題には、ダビデの生涯に起きた一つの事件が書かれています。サムエル記第一の21章を見ますと、サウル王に命を狙われて逃亡中のダビデが、祭司のアヒメレクを尋ねたことがあります。逃亡中でしたので食料をめぐんでもらうためでしたが、事情を知らないアヒメレクは王の部下であったダビデの頼みに快く答えてくれました。ところがそこにドエグというサウルの部下がいて、ダビデが来たことをサウルに報告します。それを聞いたサウルはアヒメレクが自分に背いてダビデの味方をしたと言って怒り、祭司アヒメレクの一族を殺してしまいます。ドエグがどのように報告したのでしょうか。言い方が問題です。事実を少しゆがめて語り、その結果、サウルの怒りを引き起こした。もし正確に伝えれば、少なくともサウルの殺意はダビデには向くものの、祭司アヒメレクには向かなかったはずです。その意味でドエグの言葉がアヒメレクの一族を殺したのです。
今日は、言葉による罪、とくに偽りということを考えつつ、三つのことをお話ししてまいります。第一に「悪の偽り」、第二に「神の裁き」、そして第三に「恵みへの信頼」という順序で御言葉を取り次がせていただきます。
1.悪の偽り(1〜4節)
表題には名前が出てきますが、詩の本文には個人名はあまり使われません。ですから、ダビデやドエグの問題だけでなく、全ての人のことが語られています。1節。
1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。
勇士というのは、直訳では「強い」という言葉で、「力ある者」と訳されることもあります。力とは、戦いの力なら「勇士」となりますが、政治的な権力、金銭的な財力も力です。力のある人は大きな働きをしますが、それが成功したとき、自分の業績を誇ります。しかし、それは神様のことを念頭に入れていない点で悪となるのです。1節の後半、新改訳第三版の「神の恵みは、いつも、あるのだ」という言葉は、前半と上手く繋がっていないように感じ、理解しにくい。そこで他の翻訳では、「神の慈しみは絶えることがない」、つまり、いつもあるというのは、無くなることがない、ということです。でも、それが悪を誇ることとどう繋がるのでしょうか。
私たちが一所懸命に働いて成果を上げたとき、それが自分の力だと誇りたい。でも、そのように力を出して働けたことは、神様の恵みでもあったのです。もし状況が悪ければ、体調が不良なら、おもわぬアクシデントがあったら、失敗していたかもしれない。ですから誇るのは、神様を誇るべきであって、自分を誇るのは助けてくださった神様を無視しているのです。人間は、上手くいったときは自分が偉い、上手くいかないと人や神様のせいにして文句を言う、という傾向があります。そこに罪があるのです。
ドエグは偽りを含んだ言葉で祭司殺害の原因となりましたが、私たちの言葉の中に偽りがあると、それは他者を欺き、誰かに破滅をもたらすような結果になりかねない。それでも、2節から4節に語られている悪者は、「欺き」があり、悪や偽りを「愛している」。皆さんの中で嘘をつくのが大好きで、人を欺すことに喜びを感じる、という方はおられないと思います。でも、自分の利益のために真実の一部を隠したり、自己保身のために言い訳をするとき、私たちも善よりも悪を選んでしまうのです。特に神様の前に自分の罪を誤魔化すなら、それは滅びに至る道を歩むことになってしまいます。2節で「お前の舌は破滅を」と書いていますが、破滅と同じ言葉が7節にも使われていて、人を滅ぼすような偽りを語るなら、それがいつか自分に返ってくる。「人を呪わば穴二つ」という格言がありますが、そのとおりです。この「破滅」は「欲望」という意味もあります。欲望にかられて生きると、その欲望によって身を持ち崩してしまう。そんなことになっては大変ですが、でも、自分にはそんな罪は無い、と思われるでしょうか。
(先週お送りしました原稿では、退修会がすでに終わったように書いてしまったのですが、一週、二週先のことを考えながら原稿を書いていますので私が勘違いをしてしまいました。)退修会ではダビデのことを学ぶ予定なのですが、ダビデは決して完全無欠な信仰者ではなく、彼は時には人間くさい、いえ、実際、人間ですから失敗もたくさんあった。ダビデがサウルに命を狙われたとき、祭司アヒメレクのところに行ったためにアヒメレク一族が大変な目にあう。それはダビデが神様に頼らずに人に頼った結果でもあります。しかもダビデはアヒメレクに正直に語らず、ごまかしを語っている。ダビデ自分も「欺く者」となっていたのです。この詩篇が敵を悪し様に言うだけでしたら、そんなこと誰でもできます。でも自分の中にも偽りがある、と気がつくことが、「義を語る」ということなのです。
2.神の裁き(5〜7節)
二つ目に、神の裁きということをお話しします。旧約聖書は神様の厳しい側面を隠さずに語ります。義なる神様は悪を裁いて滅ぼすお方です。新約時代においては、十字架の贖いの故に、神様は悔い改めを待っていてくださるのですが、罪への裁きが無くなったわけではありません。ですから今の私たちも裁きの言葉を真剣に受け止めることが大切です。5節。
5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。
ここで神様が欺く者に語っているのですが、実際に神様はこのように罪を罰するお方なのですが、同時に、ここは詩を語っている詩人が、神様は必ずこうされるはずだ、と信じていることの告白でもあります。つまり、神様は悪を打ち砕き、滅ぼすお方だから、悪を離れなければならない、と語っているのです。旧約聖書では「義」という言葉は裁きを表すと共に、救いを意味します。悪人が裁かれるからこそ、悪によって苦しめられる者には神の裁きが救いとなるからです。
このことを信じているから、悪人を羨ましく思ったり、自分も影響されて偽りを語るようになるのではなくて、むしろ悪人が一時的に成功しても、それはすぐに無くなってしまう繁栄であり、悪を行うのは愚かなことだ、と確信している。それが6節。
6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。
恐れとは、神様の厳粛な裁きを見て恐ろしく感じると共に、神様への尊敬の思い、畏敬の念を持つことです。そして「笑う」とは悪い者たちがしていることが如何に間違っている、愚かな行為であるか、それを嘲け笑うということです。そして7節。
7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」
ここに偽りの悪に生きる者がどのような者であるかを述べています。まず、「神を力とせず」。力とは避け所と訳されることもあり、どちらも神様を頼りとすることです。この悪人は、神様ではなく自分の豊かさ、自分の力に頼る。でも、人間の力は脆いものです。いつか弱くなり倒れるときが来る。それなのにこの人は「おのれの悪に強がる」。自分は大丈夫だと強がっているのです。この言葉は他の翻訳では、「破滅のわざを勝ち誇る」、直訳すると、「滅びを強くする」。神様を信頼することを忘れるなら、その結果、滅びに至ることをますます強めてしまう。
偽りの生き方は、滅びに至ると聖書は告げています。嘘を嘘で塗り固める、と言いますが、偽りは最後には大きな失敗となる。だから、私たちは神様の前に真実でなければなりません。それは自分の罪、自分の弱さをありのままに認め、神様の助けを仰ぐことです。神様の恵みに生かしていただくこと、それが三つ目のポイントです。
3.恵みへの信頼(8〜9節)
8節を読みます。
8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
ここには、7節までの悪人、欺く者と反対に、神様に信頼する人の姿が描かれています。生い茂るオリーブの木のようだ、と言うのは、詩篇の最初、1篇の3節で「水路のそばに植わった木のようだ」を思い出させます。
(私の妻は植物が好きで、今、住んでいるところでも鉢植えの植物がいくつもありますが、その中にオリーブの木があります。それを植えたのと同じ頃に、教会の前の花壇にもオリーブの木が植えられ、最初はそちらのほうが小さかったのですが、地植えのほうが根を張りやすいのか、どんどんと大きくなりました。)水路のほとりの木がいつも水分を吸い上げて生い茂るように、神の家にあるオリーブ。オリーブやイチジクやブドウの木はイスラエルの象徴とも言われますが、神の家で恵みの水をいつも受けているオリーブの木です。
8節後半は、もっと具体的に語っています。「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」と。この神様への変わることのない信頼の結果が、9節です。
9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。
とこしえまでも、言い換えれば、いつでも感謝する。「あなたが、こうしてくださった」というのは、原文では「何を」ということが書かれていません。何であっても良いのです。良いことでも、悪いと思われるようなことでも、神様がしてくださったことを恵みとして感謝する。有名な、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことを感謝しなさい」という聖句に通じる言葉です。さらに「聖徒たち」、共に神様を信じる人たちです。その人たちと一緒に神様の慈しみ深い御名。御名とは神様ご自身のことです。恵みに満ちた神様を待ち望む、期待して信頼して待つのです。例え、現実は厳しい状況でも、神様を信頼するのです。
最初にお話ししたダビデは、さらに逃げ続け、荒野をさまよいます。でも、この荒野の体験がダビデの信仰を成長させ、彼の器を広げ、やがて王として相応しい者になっていく。苦難の時期が将来への準備となったのです。彼は荒野で苦しい生活を続け、何度も絶体絶命の危機に陥りつつ、でも神様を信頼し、神様に祈ったのです。それが詩篇を通して証しされています。
私たちも今、困難の中におります。でも、だからこそ、神様への信頼、すなわち信仰が成長し、信仰に根ざした生き方が強められ、さらに神様を信頼する者となる。必ず神様が私たちを、今も守っていてくださり、顧みてくださる。今の困難が将来の祝福の備えとなり、天国では永遠の幸いがある。今年の御言葉、「主を待ち望む者は新しく力を得る」の通り、神様に期待をして信頼し続けましょう。
まとめ.
今日は、終戦記念日です。偽りの言葉で国が敗戦し、そして戦後の復興も、神様の恵みに感謝するどころが、いつのまにか偽りの繁栄を誇るようになったとき、バブルがはじけ、国が傾いてしまった。今、私たちも偽りを誇るような生き方ではなく、神様の恵みに感謝する聖徒、すなわち神の恵みに応答する者として、神様の恵みを証しする生き方をしてまいりましょう。
タグ:詩篇
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2021年08月08日

礼拝説教「私をきよめてください」(51:1〜4)(詩篇51篇)

礼拝説教「私をきよめてください」(51:1〜4)(詩篇51篇)
今日の詩篇51篇も大変に有名な詩篇です。悔い改めの詩篇と呼ばれ、カトリック教会では懺悔の詩篇と呼ばれる七つの詩篇の一つですが、その中でもこの詩篇はダビデの犯した大きな罪、バテ・シェバ事件のことに関連して読まれています。その事件とは、ダビデ王が自分の家来の妻を奪い、その家来を殺してしまうと言う、恐ろしい罪ですが、ダビデが悔い改めたとき、神様は彼を赦された。罪の恐ろしさに対して、あまりにもあっさりと赦しているように思えるのですが、この詩篇はその時のダビデの心の中を表していると言われ、ダビデが自分の罪でどれほど苦しんだかが描かれています。では、この詩篇はダビデのこととして読んだら良いのか。そうではなくて、この詩篇で語られている罪の恐ろしさは、私のことでもある、あなたのことでもあるのです。私たちも神様の前に悔い改める必要があることを、この詩篇からご一緒に学んでまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「自分の罪を見つめる」ということ。第二に「神の御業を信頼する」、そして第三に「喜びをもって応答する」という順序で進めてまいります。
1.自分の罪を見つめる(1〜6節)
神様がダビデの罪を赦されたのは、その前にダビデが自分の罪を認めたからです。預言者ナタンが神様から遣わされて、一つの例え話をします。ある金持ちが客を持て成すために、隣の貧しい人が大切にしていたたった一匹の羊を奪って、それを調理して客をもてなした。この話を聞いたダビデは激怒して、「そんな男は死刑だ」と言ったとき、預言者は王様に言った、「あなたがその罪人です」。この譬えが示しているのは、家来の妻を奪った、自分の罪だと分かったダビデは、すぐに悔い改めました。もしダビデが、自分はそんなことはしていないとしらを切ったら、赦されることは無かったでしょう。自分の罪を認め、その罪が赦されないほどの大罪で、だから神の憐れみにすがるしかない、と神の前に謙った。そこから神様の赦しが始まります。
神様の恵みの中で最も大いなる恵みは、罪の赦しです。罪とは、神様への背きです。人間を尊い存在として造り、良い生き方をすることを期待した神様を裏切って、自分勝手な生き方をした。聖書を通して神様が示された御心に背いた。ですからどんな罪でも、それが他の人に対する罪でも、それは神様に対しても罪を犯しているのです。それは、魔が差したからとか、誘惑に弱かったから、といった言い訳は出来ません。もっと罪は根深いものです。それを示しているのが、この詩篇です。1節から。
1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
神に背いた罪は、神様の情けと憐れみによって、そして神様の恵みによってしか救っていただくことはできないのです。3節。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。
自分の罪は神様の前に言い逃れができないことを告白しているのです。そして5節。
5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
罪ある者として母は私を身ごもった、と訳されていますが、原文では「罪の中で母は私を身ごもった」となっていて、まるで母親が罪を犯した結果、身ごもったと読むことが出来ます。でも、これは母親の罪を述べているのではなくて、分かりやすく言えば、生まれる前から罪人です、という意味です。生まれた後の環境が悪かったから、悪い大人の影響でこうなった、と他者に責任をなすりつけるのではなく、生まれた時から、いいえ、生まれる前から自分という存在は罪に満ちていた、それほどの罪人だと認めているのです。
6節。
6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
神様は心の中をご覧になります。ダビデが王として選ばれた時、顔かたちを見るならダビデの兄たちも王に相応しかった。でも神様は心をご覧になってダビデを選んだ、と書かれています。私たちは、心の中を見られたら、どうでしょうか。私たちの心は罪で満ちているか、あるいは偽りを隠してるのではないか。どうしたら神に喜ばれるような真実な心となることが出来るでしょうか。人間には出来ません、どうしたら良いか分かりません。だから神様からの知恵を教えてください、と願っているのです。
人間の心は自分を偽ります。他者の失敗は批判しても、自分の罪は認めたくなくて、言い逃れをし正当化をして、どうにか誤魔化そうとする。それを180度方向転換して、自分こそが罪人だと心の底から認める。この方向転換のことを悔い改めと言います。でも悔い改めるには、神からの知恵が必要です。御言葉の光に照らされ、神様の真実の基準で調べられたとき、自分の罪深さを認めざるを得ない。でも自分の罪が分かったからこそ神様の恵み、神の愛による救いが分かるようになるのです。
2.神の御業を信頼する(7〜11節)
二つ目のポイントに移ります。自分の罪の深さに気がつき、赦されるためには神の恵みと憐れみにすがるしかない、と思ったとき、どうしたら良いか。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦されるという新約聖書の福音を知っています。でも、旧約時代の人たちは、まだイエス様が地上に来ておられない。そこで旧約の律法に書かれている、罪の赦しの儀式を思い起こします。7節。
7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
ヒソプというのは、汚れた体や家をきよめる儀式に使う植物です。罪に汚れてしまった自分を神様にきよめていただきたいと願ったとき、儀式で使ったヒソプのことを思い出したのでしょう。でも、儀式という外面的なことだけで赦され、きよめられるのでしょうか。汚れた魂を雪よりも白くするのは、人間の行いや儀式ではなく神様のお働きです。10節。
10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

霊という言葉の意味は、簡単には説明できませんが、聖霊と言うのは、旧約時代にはまだ分かっていなかったのですが、神の霊です。神の霊が心を一新して「きよい心を造り」、心を一新してくださる。罪の赦しは神様だけができる、神の御業なのです。
旧約聖書の様々な儀式の規定を読むと、意味が分からないで面白くないのですが、このような罪の場合はこの儀式を、こんな罪の場合はこの捧げ物を、と事細かに定められています。神様がどんな罪でも十字架の贖いによって赦し救ってくださいますが、具体的には一人一人の心も罪も、人とは違います。その人にとって最も良い方法で、神様は私たちの罪を扱ってくださるのです。私たちの心の中の問題、自分でも目を背けたくなる、いいえ、それを否定して、自分は悪くないと言い張る。その罪に対して、神様は真剣に向き合ってくださり、その罪に相応しい悔い改めへと導いてくださるのです。この神様のお取り扱いを受けるためには、私たちは自分の罪を認め、神様の方法を全面的に受け止める。自分の好き勝手なやり方で助けて欲しいとか、自分のメンツを守るために、なんて思いは捨てて、神様の前に謙る。それが17節です。
17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
ダビデも、自分の罪を認めない間は高慢でした。でも神様から罪を示されたとき、それを素直に認めて、頑なな心ではなくて、砕かれた心となって、神様の前に進みでる。その時、神様はその心を蔑まれないのです。
私たちは自分の罪や弱さを認めるのが苦手です。人には自分を良く見せたい、賞賛されたい。ダメなところを知られたら、嫌われたり、見下されるのでは。だから、悪い部分を隠す。でも神様は人間の心の中も知っておられるお方ですから、表面だけ取り繕って正しいフリをしても見抜かれます。むしろ不誠実です。でも、私たちが自分の罪を認めて、砕かれた悔いた心として神様の前に祈るとき、それを誠実な姿勢として受け止めてくださるのです。そして、神様の前に悔い改めて赦しを願う者を、罪から救ってくださる。14節。
14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。
血の罪とは、他の翻訳では「血を流した罪」とか、「流血の罪」と訳されていて、殺人罪のことです。私たちは、自分は殺人とは無関係だと思っています。でも、人の心を傷つけて、血のような涙を流させたことが無いでしょうか。人の存在を否定して、あんなヤツがいなければ良いのに、と願うのは、その人を殺すことと同じです。怒りや妬みから相手を殺した出来事が聖書に出てきますが、実際に行動まで至らなくても、動機においては、怒りや妬みがあるなら、神様の前には同罪です。自分の罪を軽くしたいと人間は求めますが、自分の罪を真剣に認めるなら、私たちも流血の罪の中にいる。そのことに気がついて、罪の中でもがき苦しむとき、神様はその罪の中から救ってくださるのです。
3.喜びをもって応答する(12〜19節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。私たちが自分の罪を認め、神様におすがりして、赦しの救いをいただいたとき、何がおきるか。この詩篇の後半は、救いの恵みの豊かさが述べられています。まず、10節。
10 神よ。私にきよい心を造り、
神様が私たちの心を造り変えてくださる。きよい心を与えてくださるのです。そして12節。
12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
新改訳は「喜び」という言葉を二回使っています。救いの喜びです。神様が私の罪を赦し、神の子としてくださり、新しい人生を与えてくださった。その喜びは、何年かたったら薄れていくようなものではなく、神様のことをもっと知り、恵みの深さをだんだんと学ぶとき、喜びはもっと強くなっていくものです。でも実際には救いの喜びが薄れて、失っているような人がおられたら、神様はその喜びを与えたいと願っておられるのです。そして12節の後半、「喜んで仕える霊が、私をささえますように」。「喜んで仕える霊」という言葉は「自由の霊」とも訳されますが、神様に仕えることは強いられてではない。自由な、自発的に奉仕をするのです。救いの喜びが大きくなると、神様に仕えることがもっとしたくなる。イヤイヤではなく、義務感でもなく、言われる以上に、喜んで自由な思いで神様のために奉仕をする。それもクリスチャンに備えられた喜びです。
そして13節。
13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
赦しの恵みを自分一人で独占するのは良くない、と気がつく。他にも罪の問題で苦しむ人たちがいる。だから自分の救いの体験を証しして、他の人も悔い改めて神様のもとに立ち返るように伝えるのです。そして14節の後半。
そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
神様への賛美が声高らかに捧げられる。その賛美は天国にまで続いています。喜びと賛美、奉仕と証し。それが私たちに与えられる信仰生活の豊かさなのです。
16節の言葉は、少し説明が必要です。
16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
他にも、神様は動物の生け贄を喜ばれない、と言ったことが記されていて、だから、旧約聖書の律法に書かれている生け贄の数々は本当は神様の御心では無い、そのような儀式は御意味だ、というような考えをしがちですが、ここで言っていることは、そのようないけにえ以上に、次の17節で、「神の喜ばれる生け贄は、砕かれた霊」ということを言いたいので、「全焼の生け贄を望まれない」と言ったのです。心が砕かれ、罪が赦され、その救いへの感謝と喜びに溢れて神様の捧げ物をするとき、今度は神様はその生け贄を喜んで受け入れてくださる。それが最後の19節で、
19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。
心のこもっていない、形式だけの生け贄は御意味ですが、「義のいけにえ」、すなわち罪が赦され、義なる思いで捧げたものは、神様は受け入れてくださるのです。
私たちは、喜んで神に仕え、教会に仕え、兄弟姉妹に仕えているでしょうか。心からの感謝と喜びを込めて賛美と礼拝を捧げているでしょう。神様の前にはいつも高慢や見せかけの心ではなく、砕かれた心となって神の前にひれ伏しているでしょうか。神様の救いの恵み、豊かなご愛に対する最も良い応答は、このような霊、このような喜びの人生を歩むことでは無いでしょうか。
まとめ.
18節に
18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
19 そのとき、

と続いていますが、「エルサレムの城壁を築いてください」。町の城壁が崩れたら簡単に敵に侵入されて負けてしまいます。私たちにとっての城壁は信仰生活です。毎日の聖書と祈り、毎週の礼拝、奉仕や献金、また証しと伝道。しかも、それが喜びに満ちて自発的になされている。そのような状態の時は、悪魔も私たちの足をすくいにくい。でも喜びを失い、不平不満の中で生活を送っていると、そこに悪魔がつけ込んで、私たちの信仰を神様から引き離そうとします。なぜ喜びを失うか。それは罪の赦しの恵みを忘れるときです。神様と私を隔てている罪があるなら、それに気がつかせていただき悔い改めるなら、必ず神様は、その砕けた心を軽しめず、赦しの恵みを与えてくださいます。信仰を築き直し、喜びの礼拝を捧げるものとならせていただきましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年08月01日

お詫び

7月11日(詩篇47篇)と7月25日(詩篇49篇)の説教をアップし忘れていました。
暑さのため、高齢化のため、もともとうっかりしているから。理由は何にせよ、すみませんでした。
後で探しやすいように、日付は本来の日時にしています。
ちよざき
posted by ちよざき at 14:33| Comment(0) | 日記