詩篇の多くは1節の前に表題と呼ばれる小さな字の部分があります。表題については難しい問題もあって、普段はあまり触れないようにしているのですが、時には詩を理解するヒントとなることが書かれています。今日の詩篇の表題には、ダビデの生涯に起きた一つの事件が書かれています。サムエル記第一の21章を見ますと、サウル王に命を狙われて逃亡中のダビデが、祭司のアヒメレクを尋ねたことがあります。逃亡中でしたので食料をめぐんでもらうためでしたが、事情を知らないアヒメレクは王の部下であったダビデの頼みに快く答えてくれました。ところがそこにドエグというサウルの部下がいて、ダビデが来たことをサウルに報告します。それを聞いたサウルはアヒメレクが自分に背いてダビデの味方をしたと言って怒り、祭司アヒメレクの一族を殺してしまいます。ドエグがどのように報告したのでしょうか。言い方が問題です。事実を少しゆがめて語り、その結果、サウルの怒りを引き起こした。もし正確に伝えれば、少なくともサウルの殺意はダビデには向くものの、祭司アヒメレクには向かなかったはずです。その意味でドエグの言葉がアヒメレクの一族を殺したのです。
今日は、言葉による罪、とくに偽りということを考えつつ、三つのことをお話ししてまいります。第一に「悪の偽り」、第二に「神の裁き」、そして第三に「恵みへの信頼」という順序で御言葉を取り次がせていただきます。
1.悪の偽り(1〜4節)
表題には名前が出てきますが、詩の本文には個人名はあまり使われません。ですから、ダビデやドエグの問題だけでなく、全ての人のことが語られています。1節。
1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。
勇士というのは、直訳では「強い」という言葉で、「力ある者」と訳されることもあります。力とは、戦いの力なら「勇士」となりますが、政治的な権力、金銭的な財力も力です。力のある人は大きな働きをしますが、それが成功したとき、自分の業績を誇ります。しかし、それは神様のことを念頭に入れていない点で悪となるのです。1節の後半、新改訳第三版の「神の恵みは、いつも、あるのだ」という言葉は、前半と上手く繋がっていないように感じ、理解しにくい。そこで他の翻訳では、「神の慈しみは絶えることがない」、つまり、いつもあるというのは、無くなることがない、ということです。でも、それが悪を誇ることとどう繋がるのでしょうか。
私たちが一所懸命に働いて成果を上げたとき、それが自分の力だと誇りたい。でも、そのように力を出して働けたことは、神様の恵みでもあったのです。もし状況が悪ければ、体調が不良なら、おもわぬアクシデントがあったら、失敗していたかもしれない。ですから誇るのは、神様を誇るべきであって、自分を誇るのは助けてくださった神様を無視しているのです。人間は、上手くいったときは自分が偉い、上手くいかないと人や神様のせいにして文句を言う、という傾向があります。そこに罪があるのです。
ドエグは偽りを含んだ言葉で祭司殺害の原因となりましたが、私たちの言葉の中に偽りがあると、それは他者を欺き、誰かに破滅をもたらすような結果になりかねない。それでも、2節から4節に語られている悪者は、「欺き」があり、悪や偽りを「愛している」。皆さんの中で嘘をつくのが大好きで、人を欺すことに喜びを感じる、という方はおられないと思います。でも、自分の利益のために真実の一部を隠したり、自己保身のために言い訳をするとき、私たちも善よりも悪を選んでしまうのです。特に神様の前に自分の罪を誤魔化すなら、それは滅びに至る道を歩むことになってしまいます。2節で「お前の舌は破滅を」と書いていますが、破滅と同じ言葉が7節にも使われていて、人を滅ぼすような偽りを語るなら、それがいつか自分に返ってくる。「人を呪わば穴二つ」という格言がありますが、そのとおりです。この「破滅」は「欲望」という意味もあります。欲望にかられて生きると、その欲望によって身を持ち崩してしまう。そんなことになっては大変ですが、でも、自分にはそんな罪は無い、と思われるでしょうか。
(先週お送りしました原稿では、退修会がすでに終わったように書いてしまったのですが、一週、二週先のことを考えながら原稿を書いていますので私が勘違いをしてしまいました。)退修会ではダビデのことを学ぶ予定なのですが、ダビデは決して完全無欠な信仰者ではなく、彼は時には人間くさい、いえ、実際、人間ですから失敗もたくさんあった。ダビデがサウルに命を狙われたとき、祭司アヒメレクのところに行ったためにアヒメレク一族が大変な目にあう。それはダビデが神様に頼らずに人に頼った結果でもあります。しかもダビデはアヒメレクに正直に語らず、ごまかしを語っている。ダビデ自分も「欺く者」となっていたのです。この詩篇が敵を悪し様に言うだけでしたら、そんなこと誰でもできます。でも自分の中にも偽りがある、と気がつくことが、「義を語る」ということなのです。
2.神の裁き(5〜7節)
二つ目に、神の裁きということをお話しします。旧約聖書は神様の厳しい側面を隠さずに語ります。義なる神様は悪を裁いて滅ぼすお方です。新約時代においては、十字架の贖いの故に、神様は悔い改めを待っていてくださるのですが、罪への裁きが無くなったわけではありません。ですから今の私たちも裁きの言葉を真剣に受け止めることが大切です。5節。
5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。
ここで神様が欺く者に語っているのですが、実際に神様はこのように罪を罰するお方なのですが、同時に、ここは詩を語っている詩人が、神様は必ずこうされるはずだ、と信じていることの告白でもあります。つまり、神様は悪を打ち砕き、滅ぼすお方だから、悪を離れなければならない、と語っているのです。旧約聖書では「義」という言葉は裁きを表すと共に、救いを意味します。悪人が裁かれるからこそ、悪によって苦しめられる者には神の裁きが救いとなるからです。
このことを信じているから、悪人を羨ましく思ったり、自分も影響されて偽りを語るようになるのではなくて、むしろ悪人が一時的に成功しても、それはすぐに無くなってしまう繁栄であり、悪を行うのは愚かなことだ、と確信している。それが6節。
6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。
恐れとは、神様の厳粛な裁きを見て恐ろしく感じると共に、神様への尊敬の思い、畏敬の念を持つことです。そして「笑う」とは悪い者たちがしていることが如何に間違っている、愚かな行為であるか、それを嘲け笑うということです。そして7節。
7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」
ここに偽りの悪に生きる者がどのような者であるかを述べています。まず、「神を力とせず」。力とは避け所と訳されることもあり、どちらも神様を頼りとすることです。この悪人は、神様ではなく自分の豊かさ、自分の力に頼る。でも、人間の力は脆いものです。いつか弱くなり倒れるときが来る。それなのにこの人は「おのれの悪に強がる」。自分は大丈夫だと強がっているのです。この言葉は他の翻訳では、「破滅のわざを勝ち誇る」、直訳すると、「滅びを強くする」。神様を信頼することを忘れるなら、その結果、滅びに至ることをますます強めてしまう。
偽りの生き方は、滅びに至ると聖書は告げています。嘘を嘘で塗り固める、と言いますが、偽りは最後には大きな失敗となる。だから、私たちは神様の前に真実でなければなりません。それは自分の罪、自分の弱さをありのままに認め、神様の助けを仰ぐことです。神様の恵みに生かしていただくこと、それが三つ目のポイントです。
3.恵みへの信頼(8〜9節)
8節を読みます。
8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
ここには、7節までの悪人、欺く者と反対に、神様に信頼する人の姿が描かれています。生い茂るオリーブの木のようだ、と言うのは、詩篇の最初、1篇の3節で「水路のそばに植わった木のようだ」を思い出させます。
(私の妻は植物が好きで、今、住んでいるところでも鉢植えの植物がいくつもありますが、その中にオリーブの木があります。それを植えたのと同じ頃に、教会の前の花壇にもオリーブの木が植えられ、最初はそちらのほうが小さかったのですが、地植えのほうが根を張りやすいのか、どんどんと大きくなりました。)水路のほとりの木がいつも水分を吸い上げて生い茂るように、神の家にあるオリーブ。オリーブやイチジクやブドウの木はイスラエルの象徴とも言われますが、神の家で恵みの水をいつも受けているオリーブの木です。
8節後半は、もっと具体的に語っています。「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」と。この神様への変わることのない信頼の結果が、9節です。
9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。
とこしえまでも、言い換えれば、いつでも感謝する。「あなたが、こうしてくださった」というのは、原文では「何を」ということが書かれていません。何であっても良いのです。良いことでも、悪いと思われるようなことでも、神様がしてくださったことを恵みとして感謝する。有名な、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことを感謝しなさい」という聖句に通じる言葉です。さらに「聖徒たち」、共に神様を信じる人たちです。その人たちと一緒に神様の慈しみ深い御名。御名とは神様ご自身のことです。恵みに満ちた神様を待ち望む、期待して信頼して待つのです。例え、現実は厳しい状況でも、神様を信頼するのです。
最初にお話ししたダビデは、さらに逃げ続け、荒野をさまよいます。でも、この荒野の体験がダビデの信仰を成長させ、彼の器を広げ、やがて王として相応しい者になっていく。苦難の時期が将来への準備となったのです。彼は荒野で苦しい生活を続け、何度も絶体絶命の危機に陥りつつ、でも神様を信頼し、神様に祈ったのです。それが詩篇を通して証しされています。
私たちも今、困難の中におります。でも、だからこそ、神様への信頼、すなわち信仰が成長し、信仰に根ざした生き方が強められ、さらに神様を信頼する者となる。必ず神様が私たちを、今も守っていてくださり、顧みてくださる。今の困難が将来の祝福の備えとなり、天国では永遠の幸いがある。今年の御言葉、「主を待ち望む者は新しく力を得る」の通り、神様に期待をして信頼し続けましょう。
まとめ.
今日は、終戦記念日です。偽りの言葉で国が敗戦し、そして戦後の復興も、神様の恵みに感謝するどころが、いつのまにか偽りの繁栄を誇るようになったとき、バブルがはじけ、国が傾いてしまった。今、私たちも偽りを誇るような生き方ではなく、神様の恵みに感謝する聖徒、すなわち神の恵みに応答する者として、神様の恵みを証しする生き方をしてまいりましょう。
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