今日、開かれております詩篇49篇をあらかじめ読んでこられた方は、何か、この詩篇が箴言や伝道者の書と似ていると感じられたのではないかと思います。この詩篇は「知恵の詩篇」と呼ぶこともできるものです。特に1節から4節を見ますと、そこには箴言などに出て来る言葉が使われていることに気が付きます。2節で、身分が低い者、尊い者と呼び掛けています。知恵は身分を問いません。富む者も、貧しい者も、知恵を得ることができます。3節には、知恵、英知、という知恵に関する言葉が出てきます。また4節の「たとえ」や「なぞ」を語るのも知恵を教えるときに使う方法です。ですから、この詩篇は他の詩篇のように賛美や祈りではなく、知恵を学ぶ姿勢で読むことが求められていると言うことができます。
今日は私たちも神様からの知恵をいただく思いで、この詩篇を味わってまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで進めてまいります。第一に「なぜ恐れるのか」ということ、第二に「知恵による解決」、そして第三に「福音による救い」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.なぜ恐れるのか(5〜12節)
さきほども少し触れましたが、1節から4節までは、知恵を教えるたえの呼びかけに当たる内容ですので、実際の教えは5節から始まります。その最初は恐れと言う問題に関しての問いかけです。5節。
5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
ここには人間が恐れるのは何故か、ということが質問の形で示されています。まず、「わざわいの日」です。天災と言われる被害、地震や台風、先日来は大雨による土砂災害が報道されています。そのような時には、私たちは恐れを持ちます。さらに、恐れは人間関係でも生じます。5節後半には中傷や悪意という敵意をもって言葉や行いで攻撃してくる人たちがいます。恐れの原因は、それが天災であれ人災であれ、それによって私たちは何かを失いそうになる。天災では、家などの財産を失う人がいますし、時には命を失うこともある。平穏無事な日常生活を失うこともあります。昨年来のコロナ禍で私たちの生活は一変し、「普通の生活」が失われています。5節は、これらのこと、つまり災いと敵に囲まれることが同時に起きてくるのですから、恐れるのも頷けます。
私たちは安定した生活を失うことを恐れます。予想もしていないことが起きますと、それでも普段の生活が失われるのが怖くて、異常な事態が迫ってきていることから目を背けて偽の安心を得ようとする。「正常化バイアス」と言いますが、災害が迫っているのに、自分は大丈夫と思い込む。それは恐れの裏返しです。何よりも、命を失うことを人間誰でも恐れます。だから死の問題から目を背けたがる。しかし、命の問題は重要なことですから、正しく目を向けなければいけません。7節。
7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。
8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──
自分の兄弟とは家族や友人です。他者の命を買い戻すことは人間にはできません。自分自身の身代金を払って自分の命を買い戻す事もできません。結局は諦めるしかない、と冷酷に告げています。10節。
10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
知恵ある者も愚かな者も、誰もがいつかは死ぬ時が来る。これも厳粛な事実です。そのとき、財産は他者の手に渡るだけです。11節は一種の皮肉です。
11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
土地や町に自分の名前を付けたという例が聖書に出てきます。でも数百年も経てば、土地の名前は変わってしまいます。栄華を極めた者も獣と同じように滅んでいくのだと告げています。
このあたりは、本当に箴言や伝道者の書に出てきそうな言葉です。確かに、財産や地位、健康などの、この世のものを信頼するなら、それが失われることを恐れ、失ってしまうと絶望するようになってしまう。しかし、神様ご自身に信頼し、神様からの助けを期待して待ち望む。そのとき、恐れを越えた信仰を与えてくださるのです。今年の標語である御言葉、イザヤ書の40章31節。「しかし、主を待ち望む者は」と書かれているように、この世のものではなく主に信頼し、主を待ち望む者でありたいと願います。
2.知恵による解決(10〜20節)
二つ目のことに目を向けてまいります。死の力の前には人間は無力ですから諦めなさいと語っているのではなく、そこに知恵が必要であることを教えています。先ほど見た、10節の最初に「彼は見る」と書かれています。確かに死の問題は難しい。それは事実ですが、それをどう見るかが問われています。彼は見る、と知恵や信仰の無い者の目で見るなら、読みながら段々と気が落ち込んでいきます。それが13節で、「彼ら」と呼ばれている愚かな考え方を受け入れるなら、彼らの道の最後は獣と等しいということです。でも、知恵は問いかけます。彼はそう見るが、あなたはどう見るか、と。もし、現実の問題だけに目を向けるなら、絶望です。現実を見ないで自分の小さな安心感に閉じこもるなら、災害の餌食となってしまいます。私たちは、神様がおられること、神様が永遠の目で見ておられる全知全能のお方だと信じています。その神様の視点で物事を考え、神様を視野に入れて判断するなら、その知恵によって恐れる必要は無くなるのです。それが16節の「恐れるな」という結論なのです。
こうして、旧約聖書の知恵者たちは、神様を信頼し、神様に身を委ねて、死ぬことを受け入れていった。まるで「悟り」のようです。でも、これは旧約聖書の限界を示しています。イエス・キリストが現れるまでは、結局、死の問題から人間は逃げることはできない。でも、旧約を越えて新約にまで、私たちは目を向けることができます。イエス様による福音こそが、この問題を乗り越える、本当の解決なのです。
3.福音による救い(15節)
しかし、本当の回答は新約聖書に示されていますが、旧約聖書の中にも、よく見ますと小さなヒントが隠されています。15節。
15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。
ここに、人間には出来ないことを神様なら可能であると語っています。神様だけが私の魂、私の命を、「よみ」すなわち死の力から買い戻して、救い出してくださる。「神が私を受け入れてくださる」というのは、新しい翻訳ですと、「取り上げる」というのが原意に近いのですが、新改訳2017では「私を奪い返してくださる」と訳しています。敵の手に落ちてしまっても、そこから奪い返す。それは、死の力から奪いかえすのは復活無しには考えられません。その意味では新約聖書の福音、すなわちイエス様の十字架と復活が必要です。しかし、旧約聖書の中でも神様が死ぬべき人間を死の力から救い出された例があります。その一人が創世記に出て来るエノクです。エノクは正しい人であり、神様と共に歩んだ人です。だから神様も彼を受け入れ、エノクは死ぬことなしに直接に神様のところに移された、と書かれています。
今、私たちはエノクのように死を経験しないということはないでしょう。でも、イエス様の十字架と復活を信じるなら、十字架によって罪から救い出され、復活によって死の恐れから救われるのです。これが新約の恵みであり、私たちにも与えられている恵みなのです。9節で、「人はとこしえまでも生きながらえるであろうか」と問いかけています。この問いに対する答えは、旧約時代にはノーです。とこしえに生きることはできません。でも復活を信じる私たちは、この問いかけにノーではなくイエスと答えることができるのです。天国での永遠の命を信じているからです。
まとめ.
12節と20節は似たようなことを言っています。「人は獣と同じように滅びる」、これが現実です。でも、20節には「悟りがなければ」、すなわち知恵が無いなら人間も獣も同じだ。しかし知恵を学ぶなら同じではない。知恵をもって真理を受け入れるなら、神に委ねることが出来る。これが旧約聖書の知恵であって、この詩篇49篇も、その知恵を教えています。でも、この詩篇を作った知恵者は、まさか、「人はとこしえまでも生きながらえるであろうか」と問いかけたとき、それにYesと応える時が来ることは分かっていなかった。でも神様はそのことをすでにご存じでしたから、イエス様がおいでになるよりも数百年も前に、このヒントを詩の中に残させられたのです。旧約聖書の長い時代を導かれ、やがて預言の通りにイエス・キリストを送ってくださった神様は、今も私たちを導いておられます。今、私たちはコロナ禍や様々な災いの中で恐れを感じてしまうことがある。しかし、人間の知恵や力を越えた神様の知恵と力によって私たちを救ってくださるのです。この神様が今日も私たちの歩みを守り導いていてくださることを信頼しましょう。
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