2021年07月25日

礼拝説教「永遠に価値あるもの」(49:5〜9)詩篇49篇

礼拝説教「永遠に価値あるもの」(49:5〜9)詩篇49篇
今日、開かれております詩篇49篇をあらかじめ読んでこられた方は、何か、この詩篇が箴言や伝道者の書と似ていると感じられたのではないかと思います。この詩篇は「知恵の詩篇」と呼ぶこともできるものです。特に1節から4節を見ますと、そこには箴言などに出て来る言葉が使われていることに気が付きます。2節で、身分が低い者、尊い者と呼び掛けています。知恵は身分を問いません。富む者も、貧しい者も、知恵を得ることができます。3節には、知恵、英知、という知恵に関する言葉が出てきます。また4節の「たとえ」や「なぞ」を語るのも知恵を教えるときに使う方法です。ですから、この詩篇は他の詩篇のように賛美や祈りではなく、知恵を学ぶ姿勢で読むことが求められていると言うことができます。
今日は私たちも神様からの知恵をいただく思いで、この詩篇を味わってまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで進めてまいります。第一に「なぜ恐れるのか」ということ、第二に「知恵による解決」、そして第三に「福音による救い」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.なぜ恐れるのか(5〜12節)
さきほども少し触れましたが、1節から4節までは、知恵を教えるたえの呼びかけに当たる内容ですので、実際の教えは5節から始まります。その最初は恐れと言う問題に関しての問いかけです。5節。
5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
ここには人間が恐れるのは何故か、ということが質問の形で示されています。まず、「わざわいの日」です。天災と言われる被害、地震や台風、先日来は大雨による土砂災害が報道されています。そのような時には、私たちは恐れを持ちます。さらに、恐れは人間関係でも生じます。5節後半には中傷や悪意という敵意をもって言葉や行いで攻撃してくる人たちがいます。恐れの原因は、それが天災であれ人災であれ、それによって私たちは何かを失いそうになる。天災では、家などの財産を失う人がいますし、時には命を失うこともある。平穏無事な日常生活を失うこともあります。昨年来のコロナ禍で私たちの生活は一変し、「普通の生活」が失われています。5節は、これらのこと、つまり災いと敵に囲まれることが同時に起きてくるのですから、恐れるのも頷けます。
私たちは安定した生活を失うことを恐れます。予想もしていないことが起きますと、それでも普段の生活が失われるのが怖くて、異常な事態が迫ってきていることから目を背けて偽の安心を得ようとする。「正常化バイアス」と言いますが、災害が迫っているのに、自分は大丈夫と思い込む。それは恐れの裏返しです。何よりも、命を失うことを人間誰でも恐れます。だから死の問題から目を背けたがる。しかし、命の問題は重要なことですから、正しく目を向けなければいけません。7節。
7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。
8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──

自分の兄弟とは家族や友人です。他者の命を買い戻すことは人間にはできません。自分自身の身代金を払って自分の命を買い戻す事もできません。結局は諦めるしかない、と冷酷に告げています。10節。
10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
知恵ある者も愚かな者も、誰もがいつかは死ぬ時が来る。これも厳粛な事実です。そのとき、財産は他者の手に渡るだけです。11節は一種の皮肉です。
11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。

土地や町に自分の名前を付けたという例が聖書に出てきます。でも数百年も経てば、土地の名前は変わってしまいます。栄華を極めた者も獣と同じように滅んでいくのだと告げています。
このあたりは、本当に箴言や伝道者の書に出てきそうな言葉です。確かに、財産や地位、健康などの、この世のものを信頼するなら、それが失われることを恐れ、失ってしまうと絶望するようになってしまう。しかし、神様ご自身に信頼し、神様からの助けを期待して待ち望む。そのとき、恐れを越えた信仰を与えてくださるのです。今年の標語である御言葉、イザヤ書の40章31節。「しかし、主を待ち望む者は」と書かれているように、この世のものではなく主に信頼し、主を待ち望む者でありたいと願います。
2.知恵による解決(10〜20節)
二つ目のことに目を向けてまいります。死の力の前には人間は無力ですから諦めなさいと語っているのではなく、そこに知恵が必要であることを教えています。先ほど見た、10節の最初に「彼は見る」と書かれています。確かに死の問題は難しい。それは事実ですが、それをどう見るかが問われています。彼は見る、と知恵や信仰の無い者の目で見るなら、読みながら段々と気が落ち込んでいきます。それが13節で、「彼ら」と呼ばれている愚かな考え方を受け入れるなら、彼らの道の最後は獣と等しいということです。でも、知恵は問いかけます。彼はそう見るが、あなたはどう見るか、と。もし、現実の問題だけに目を向けるなら、絶望です。現実を見ないで自分の小さな安心感に閉じこもるなら、災害の餌食となってしまいます。私たちは、神様がおられること、神様が永遠の目で見ておられる全知全能のお方だと信じています。その神様の視点で物事を考え、神様を視野に入れて判断するなら、その知恵によって恐れる必要は無くなるのです。それが16節の「恐れるな」という結論なのです。
こうして、旧約聖書の知恵者たちは、神様を信頼し、神様に身を委ねて、死ぬことを受け入れていった。まるで「悟り」のようです。でも、これは旧約聖書の限界を示しています。イエス・キリストが現れるまでは、結局、死の問題から人間は逃げることはできない。でも、旧約を越えて新約にまで、私たちは目を向けることができます。イエス様による福音こそが、この問題を乗り越える、本当の解決なのです。
3.福音による救い(15節)
しかし、本当の回答は新約聖書に示されていますが、旧約聖書の中にも、よく見ますと小さなヒントが隠されています。15節。
15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。
ここに、人間には出来ないことを神様なら可能であると語っています。神様だけが私の魂、私の命を、「よみ」すなわち死の力から買い戻して、救い出してくださる。「神が私を受け入れてくださる」というのは、新しい翻訳ですと、「取り上げる」というのが原意に近いのですが、新改訳2017では「私を奪い返してくださる」と訳しています。敵の手に落ちてしまっても、そこから奪い返す。それは、死の力から奪いかえすのは復活無しには考えられません。その意味では新約聖書の福音、すなわちイエス様の十字架と復活が必要です。しかし、旧約聖書の中でも神様が死ぬべき人間を死の力から救い出された例があります。その一人が創世記に出て来るエノクです。エノクは正しい人であり、神様と共に歩んだ人です。だから神様も彼を受け入れ、エノクは死ぬことなしに直接に神様のところに移された、と書かれています。
今、私たちはエノクのように死を経験しないということはないでしょう。でも、イエス様の十字架と復活を信じるなら、十字架によって罪から救い出され、復活によって死の恐れから救われるのです。これが新約の恵みであり、私たちにも与えられている恵みなのです。9節で、「人はとこしえまでも生きながらえるであろうか」と問いかけています。この問いに対する答えは、旧約時代にはノーです。とこしえに生きることはできません。でも復活を信じる私たちは、この問いかけにノーではなくイエスと答えることができるのです。天国での永遠の命を信じているからです。
まとめ.
12節と20節は似たようなことを言っています。「人は獣と同じように滅びる」、これが現実です。でも、20節には「悟りがなければ」、すなわち知恵が無いなら人間も獣も同じだ。しかし知恵を学ぶなら同じではない。知恵をもって真理を受け入れるなら、神に委ねることが出来る。これが旧約聖書の知恵であって、この詩篇49篇も、その知恵を教えています。でも、この詩篇を作った知恵者は、まさか、「人はとこしえまでも生きながらえるであろうか」と問いかけたとき、それにYesと応える時が来ることは分かっていなかった。でも神様はそのことをすでにご存じでしたから、イエス様がおいでになるよりも数百年も前に、このヒントを詩の中に残させられたのです。旧約聖書の長い時代を導かれ、やがて預言の通りにイエス・キリストを送ってくださった神様は、今も私たちを導いておられます。今、私たちはコロナ禍や様々な災いの中で恐れを感じてしまうことがある。しかし、人間の知恵や力を越えた神様の知恵と力によって私たちを救ってくださるのです。この神様が今日も私たちの歩みを守り導いていてくださることを信頼しましょう。
タグ:詩篇
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2021年07月18日

礼拝説教「永遠の神の都」(48:1〜8)詩篇48篇

礼拝説教「永遠の神の都」(48:1〜8)詩篇48篇
「永遠の神の都」と言うと、エルサレムを歌った賛美を思い出します。地上でのエルサレムはダビデによってイスラエルの首都となり、ソロモンやヒゼキヤなどの時代に発展したと思われ、しかしバビロン帝国によって破壊されます。ペルシャ時代に再建し、その後、ギリシャ、ローマ時代と発展してきましたが、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされます。第二次世界大戦の後にイスラエル人がパレスチナに国家を築いて、エルサレムは大きな都市となります。その後は『ヨハネの黙示録』などの預言によると、最後は新しいエルサレム、天国のモデルとなります。このエルサレムのことを、「シオン」と呼ぶことがあります。48篇のように「シオン」すなわちエルサレムのことを謳った詩篇のことを「シオンの歌」と呼びます。王様のために作られた詩篇も不思議ですが、シオンのことを謳った詩篇は何のためか。それはシオンにある神殿にいらっしゃる神様を讃えるためです。
今日は「永遠の神の都」というタイトルで、いつものように三つのことをお話ししてまいります。第一に「大いなる神への賛美」、第二に「恵みの神への祈り」、そして第三に「導きの神への信頼」という順序で進めてまいります
1.大いなる神への賛美
1節は「主は大いなる方」と神様を賛美し、その神様が住まわれるエルサレムを、1節後半で「その聖なる山、われらの神の都」と謳っています。2節では、その都の美しさが謳われています。2節。
2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
この1節と2節の言葉をそのまま歌詞として曲を付けた賛美が、私が高校生の頃にキャンプで流行りました。「高嶺の麗しさは全地の喜び」と、何だか良く意味は分からないけど、テンポの良い賛美なので、何度も繰り返して歌ったのを憶えています。でも、「北の端なるシオンの山は」と歌いながら、なんで北の端なんだろうか、と不思議に思ったことがあります。
シオン、すなわちエルサレムの地理を学ぶと分かるのですが、ダビデがエルサレムを首都として、その北にあったアラウナの打ち場を買い取って、後に神殿が建てられます。ですから、ソロモン時代にはエルサレムの町の北の端っこに神殿がありました。その後、ソロモンやヒゼキヤの時代に人口が増えて町が拡張されて西に広がったため、神殿は町の北東になります。一度、町が破壊され、再建され、新約時代時代にさらに北西に広がって、神殿は東の端っこになります。今、イスラエルに旅行しますと、エルサレムの町を東側にあるオリーブ山の中腹から見るのが定番の観光スポットで、旧市街と呼ばれる城壁で囲まれた町が一望できます。そこには神殿のあった場所も見えるのですが、現在ではイスラム教のモスクとなっていて、金色に輝くドームが見えます。それも大変に美しい光景ですが、イエス様がベタニヤ村からオリーブ山を通ってエルサレムに行ったときにも美しいエルサレムの町、そして神殿が見えたはずです。
ちょっと脱線してしまいましたが、この詩篇が作られた時代にも同じような光景が見えたのだと思います。エルサレムの北の端にある神殿の美しさ。でも、それが建物が美しい、確かにソロモンの建てた神殿は素晴らしかったことが描かれています。しかし、その美しさは、建物が美しい以上に、そこに神様が住んでおられると信じているから、単なる美しさではなく、神様の栄光を感じて輝いて見えたのではないかと思うのです。
池の上教会の、この礼拝堂も大変に美しい。毎週、見ているために慣れてしまっているかもしれませんが、とても美しいチャペルです。でも、ここに神様がいてくださり、私たちの捧げる礼拝を受けてくださることを思うと、ただの美しさではなくて、聖なる美しさを感じるのではないでしょうか。せっかくの素晴らしい場所ですから、礼拝堂に入ったら神様に目を向けるなら、この場所にも聖なる美しさが満ちているのを感じることができて、礼拝の恵みがもっと豊かになると思うのです。
さて、聖書に戻ります。4節からは諸国の王たちがやってきて、それは戦いのためです。彼らはエルサレムに近づき、それを見たとき、驚き恐れて逃げてしまったと書かれています。それは城壁や神殿の美しさを見たからよりも、そこにおられる神様を感じたからです。7節にはタルシシュの船、地中海からイスラエルを攻めてくる船団も、神様が強い東風で打ち砕いたと書かれています。もうエルサレムからは遠く離れた地中海です。でも神様の栄光は遠く離れたところでも力強く働いているのです。
実際に地中海の船団が沈没したかは分かりませんが、以前、お話しした、ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ軍がエルサレムを包囲したけれども全滅し、残った兵士たちは敗走したことを思い出しているのかもしれません。8節に大事なことが書かれています。
8 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。
「聞いたとおりを、そのまま見た」と書かれています。聞いたこと、すなわち聖書から教えられたこと、かつて歴史において起きた様々な出来事から神様のスゴさを聞いていた。でも、今、それを目の前で見た。過去の人たちの信仰体験ではなく、自分自身の体験として見たのです。いくら神様の素晴らしさ、神様の偉大な御業を学んでも、それが何時の日か自分の出来事となっていくことが大切です。自分自身が神様の偉大さを知ったとき、賛美は内側からあふれ出るものとなります。讃美歌は、歌詞や曲が美しい、奏楽や独唱や合唱が素晴らしい。でも、自分の心から感謝と感動があふれ出て賛美となる。そのとき、その賛美は、またそのような礼拝は、私たちにとって何ものにも変えられない大切な時となるのです。
昨年、今年と、私たちはコロナ禍での礼拝のため、大きな声では歌えない、また生活も苦しい、といった悩みの中におります。でも、やがて神様が私たちを守り支えてくださって、また皆さんと一緒に集まって礼拝を捧げ、遠方の方、事情があって教会での礼拝に長い間来ることができなかった方々が来てくださる時が来る。自分一人で、あるいは夫婦、家族と一緒に画面を見ながら礼拝をしておられる方々が、同じ場所に集まって、兄弟姉妹と顔を合わせて賛美を捧げる時が来る。そのとき、私たちは力一杯神様を賛美し、私たちも聖書の時代の信仰者たちと同じ思いで、神様の素晴らしさを自分自身が体験したこととして褒め称えたいと願っています。
2.恵みの神への祈り
二つ目のことをお話しします。エルサレム、神の都の中心は神殿です。地理的には北の端からやがて東の端へと変わりますが、信仰的にはいつも神殿、神の家が中心です。そこで礼拝を捧げたからです。その礼拝の場所であると同時に、イエス様が教えられた通りに、神殿は「祈りの家」です。それはどういうことかと言いますと、毎週、旧約時代には毎年数回ですが、シオンの神殿で礼拝をしますが、それは特別な時です。しかし、普段は困難のために苦しむときに祈るのです。神殿を建てたソロモンは、人々が祈る時に、この神殿の方角に向かって祈るなら、それを神様は自分に向かって彼らが祈っていると受け止めてくださり、その祈りに応えてくださる、と歴代志や列王記に書かれています。神殿に来て祈るにしても、神殿に向かって祈るにしても、神様に真剣に祈った。その祈りが詩篇の中にも多く残されています。最初は苦しみの中でただ嘆くだけだった祈りが、やがて過去に与えられた神様の恵みを思い起こし、そのことを思い巡らすときに、この神様は今も生きておられ、私を救って下さるという信仰に変えられ、嘆きの祈りが信頼の祈りに変えられ、最後には賛美となっていく。それが詩篇の祈りです。
9節。
9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。
10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しむようにしてください。

9節で神の恵みを思い巡らす中で、祈りが変えられて行きます。最初は神様の偉大さ、シオンの美しさをただ賛美していたのが、9節からは祈りとなり、10節の最後では、「あなたの右の手は義で満ちている」と、神様が義によって救ってくださることを願い、11節の最初には「あなたにはさばきがあるため」と、神様が敵をも裁いて、私たちを救ってくださると信頼しているのです。ですから11節の後半では、喜びや楽しみという言葉に祈りが変えられていくのです。
神様の素晴らしさに心を向け、神の恵みに思いを巡らせて祈る。それが祈りの家の経験です。それは神殿や教会堂だけでなく、自分がいる場がどこであっても、そこを祈りの家として祈り、礼拝の場として神様の前に賛美を捧げる。このような信仰生活が、やがて神様の時が来て、祈りが応えられると、その恵みの体験を他の人にも話さないではいられない。そこに証しが始まるのです。今、悩みの中に折られる方も、何時の日か、悩みが祈りに変えられ、賛美に変わっていく経験をしていただきたいと願います。
3.導きの神への信頼
三つ目のことをお話しします。12節から再びシオンの情景を描きます。12節。
12 シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。
13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。

シオン、すなわちエルサレムの町は城壁で囲まれています。町の外をぐるっと一回りして、城壁の様子を見ていくのです。何カ所か門があり、またやぐらのような高くなっている箇所もある。城壁ややぐらを点検するのは、戦争の備えとしてかならずしておくことです。もちろん、人間の建てた城壁やいつか強力な軍事力によって破壊されますが、本当の防御は神様ご自身による守りです。私の生涯に、私の生活に神様がいかに守りを巡らし、敵に攻められて苦しむことはあっても、倒れて二度と起き上がれないようになることはない。神様が守っていてくださるからです。過去に神様がしてくださった御業をぐるっと巡って数え上げるとき、今回も神様が必ず守って下さると信仰が強められるのです。そして、この恵みを次の世代の人たちにも語り伝える使命があります。
神様の助け、神様による救いは、城壁以上に素晴らしいものであって、私たちは、この神様を目に見える城壁以上に信頼します。城壁は何百年も経てば劣化して壊れますが、神様は永遠のお方ですから、いつまでも信頼できるお方です。さらに、神様の導きは死んでお終いではなくて、死の苦悩を越えて、その先にまで続いている。14節の最後は
神は私たちをとこしえに導かれる。
新改訳第三版では「とこしえに導かれる」と訳していますが、新しい翻訳では「死を越えて導かれる」となっています。直訳では「死に至るまで導かれる」です。「とこしえに」という言葉は、14節の二行目で、「とこしえから永久まで我らの神」と書かれていますので、三行目は「とこしえ」でなくても良いのですが、神様の導きは私たちが元気な時や苦しむ時だけで無く、死に至るまで、さらに死を越えて天国にまで続いている。ですから今は敵に囲まれていても、命の危険が迫っていても、そして、例え死ぬことがあったとしても、その死を越えてとこしえに私たちを導いてくださるお方、それが私たちを救ってくださる神様なのです。
導くという言葉は、羊の群れを導くときにも使われます。羊飼いとして私たちを導いて下さる。主は私の羊飼いです。このお方を心から信頼し、語り伝えていきましょう。
まとめ.
この詩篇は永遠の神の都であるエルサレムを歌って始まりましたが、最後は、そのエルサレムにダビデを導き、エルサレムの町も神殿も建てられた神様、やがて国も町も神殿も破壊されても、それを再建して再び礼拝の場、祈りの家とされたお方。やがて神の御子が遣わされて、私たちの救いを成し遂げてくださった。この神様に目を向ける歌となっていきます。神様の素晴らしさを思って賛美を捧げ、ますます神様を信頼する者とならせていただきましょう。
タグ:詩篇
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2021年07月11日

礼拝説教「褒め歌え、王なる神を」(詩篇47篇)

礼拝説教「褒め歌え、王なる神を」(詩篇47篇)
この詩篇には「王」という言葉が出てきます。2節と7節には、神が「全地の王」だと謳っています。直接は王という言葉では無くても、8節には「国々を統べ治め」と書かれて、王であることを示しています。その点で、45篇と同じように「王の詩篇」か、と言うと、この47篇は人間の王ではなくて、神様こそが真の王である、ということを教えている詩篇です。主は王である、というテーマは、詩篇の中に何度も出てきますし、預言者たちも同じような表現を使っています。またイエス様が語られた「天国」、あるいは「天の御国」という言い方も、天の王国と言う言葉を使っている。ですから、神様が王であるということは、旧約時代も新約聖書でも重要なテーマであり、世の終わりに再臨されるイエス様こそ永遠の王である。それは私たちにとっても重要なことです。今日の説教題は「褒め歌え、王なる神を」とさせていただきました。私たちは神様が王であるということをどれくらい受け止めているでしょうか。人間の王や支配者以上に、神様が私の王である主であるということをご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次いで参ります。第一に「全地の王なる神」ということ、第二に「巧みに賛美する」。そして第三に「世界中が神の民」という順序で進めてまいります。
1.全地の王なる神
詩篇は、150の詩が適当に並んでいるのではなくて、その順番にも意味があります。47篇の直前にある46篇も、全世界を治めておられる神様を賛美していますが、このお方は偉大なお方であると同時に、私たちを助けてくださるお方です。このお方への全き信頼に続いて、47篇はこのお方が王であると謳っているのです。強くて、力尽くで相手を支配するような存在が王であるなら、それは恐怖の対象です。でも、信頼できるお方であり、苦しむときに必ず助けてくださるお方だと分かるなら、このお方が王であることは救いであり喜びです。その喜びに満ちた声で詩篇は始まります。1節。
1 すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
2 まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。

「手をたたく」というのは、様々な意味がありますが、ここでは明らかに神様への賛美です。戦前のホーリネス教団というのは、とても元気のある教派でして、賛美をしながら手を打ちたたく。私が子供の頃は年配のクリスチャンの方々はそんな風に賛美をしておられました。喜びに溢れて賛美をして叫んでいる。2節は「恐れられる方」とありますが、これも恐怖ではなく畏敬の念です。全世界を従わせる王であると、3節も語っています。
3 国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。
この神様、本当に素晴らしいお方だと、心から賛美する、だけで終わらず、次の4節。
4 主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。
ここに選びという言葉が出てきます。神様はイスラエルを選ばれた。選びというのは神の愛の表れです。人間の結婚でも、世界中に何十億と存在する異性の中から、この一人を選んで愛する。他の人たちをも家族愛、隣人愛、仲間の友情という様々な愛を持って愛するのですが、妻として夫として愛する、特別な愛。それが選びの愛です。旧約聖書では、神様はイスラエルを神の民として選んだと教えています。ところが、この選びの愛を、勘違いをしてしまうのです。選ばれたのは自分が偉かったから、そして他の国や民族を見下すようになる。いわゆる選民思想です。神様が「神の民」という栄誉を与えてくださったのを、自分が一番偉い、神様よりも偉くて、この神はイスラエルの神であり、イスラエルの民の言うとおりにしてくれる。これは高慢の罪につながります。
私たちも、クリスチャンとしていただいたことは神様の一方的な恵みであり、選ばれたことは、自分にはその価値は無いのに愛してくださった。そのことを忘れるとき、まるで自分が一番であり、自分の思い通りにしようとして、神様に対しても、王として崇め従うのではなく、自分の願いを押しつけようとする。イスラエルと同じ罪を、人間は犯しやすいのです。
高慢になったらどうなるか。驕り高ぶるものを神様は嫌われ、自らを高くした者を神様は低くせられます。それが旧約聖書の教える原則です。前の詩篇、46篇の9節で、神様が全世界の戦いをやめさせるという言葉があります。自分の国が一番、それは良いとしても、だから他の国を苦しめてもかまわない。それが戦争です。この人間の罪と、自分の力を過信することを象徴する武器の数々に対して、神様は「弓をへし折り」と46篇9節に書かれています。高慢になって、ピノキオのように鼻高々になると、その鼻がへし折られるのです。
イスラエルは、高慢になり、御心に反する行いをしていたのに、神様は自分たちだけを祝福される、と考えていた。悔い改めようとしなかった。だからイスラエルの国は滅んでしまったのです。4節の後半。
私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。
受け継ぐべき地、古い翻訳では嗣業と言いますが、この土地が与えられたのは神様の恵みであり、それを受け継いで守る責任があった。ヤコブ、すなわちイスラエルにとって誇りでもあった。その栄光を、彼らは高慢や自己中心、そして、この神様を侮辱する偶像礼拝の罪によって、自らを裁かれるべきものとしてしまったのです。これは私たちにとっても自戒としなければならないことです。救っていただいた感謝を忘れて、神様に対して高慢な心になってはいけない、ということを憶えましょう。
2.巧みに賛美する
4節の最後に「セラ」という言葉があり、この言葉については先週も少しお話ししましたが、正確な意味はまだ分かっていませんが、ここで一端止まって、黙想する。過去に神様がしてくださった恵みを思い起こして、もう一度神様を褒め称えるのです。5節。
5 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。
この5節の言葉は、私たちに一つの歴史上の出来事を思い出させます。ダビデがイスラエル全体の王となり、最初にしたことはエルサレム遷都です。このことについては、今年の夏の退修会でお話ししたいと思います。イスラエルの都となったエルサレムに、ダビデは神の箱を運び入れます。神の箱とは、モーセの時代に作られたもので、十戒の板や天のパンと呼ばれるマナなどの重要なものがしまわれていて、モーセ時代の幕屋、これは後に神殿となりますが、その中におかれて、神様がイスラエルの中に住んでくださる象徴です。この神の箱をエルサレムに運び入れて、この町を礼拝の中心地とする。サムエル記に詳しいことが記されています。神の箱を携え入れるとき、最初はやり方を失敗して、二回目は神様の教えられたやり方で運ぶことができた。そのとき、ダビデ王は高いところから見下ろすのではなく、神様を迎え入れることが出来た喜びで一杯になって、彼は躍りながら行進の先頭に立ったのです。人々の、そしてダビデ王の喜びの中、神の箱が携え入れられました。
この喜びを心から表しているのが、6節です。
6 神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
「ほめ歌を歌え」というのは一つの動詞です。歌うことを意味する動詞にも何通りかあって、日本語には訳しにくい。そこで、「ほめ歌を歌え」と訳しました。この言葉が、6節では4回使われています。旧約聖書では、重要なことは二度言う、もっと重要なら三回言う。ここは四回です。詩篇13篇で「いつまでですか」と四回連続で語っていますが、こちらは神様への賛美の言葉が四回です。何度も何度も繰り返して、「ほめ歌を歌え」と人々に呼びかけているのです。しかも、次の節に続きます。7節。
7 まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。
これで五回目です。しかも単に賛美をするのではなく、「巧みな歌で」と注文しています。この「巧みな歌」と訳されているのは、ヘブル語のマスキールという言葉です。本来は「賢くする」とか「思慮がある」という意味で、詩篇の表題にも何回も登場します。表題についてはあまりお話ししてこなかったのですが、実は42篇、44篇、45篇と続けて「マスキール」と書かれていて、これらは「知恵の詩」ということだとも考えられています。ここでは知恵というよりも、言葉を尽くして、自分のできる限り最高の言葉で賛美する、ということです。
なぜ、「巧みな歌で」と命じているのか。それは賛美を受けるお方が、そのようなお方だからです。最高のお方、神様に捧げるのに相応しいものを、と考えたら、どんな言葉で賛美をしたら神様に相応しいと言えるのでしょうか。いいえ、人間がいくら知恵を尽くして言葉巧みに語っても、それでも神様の素晴らしさには遙かに及ばない。だから、できる限り、自分にとっての最高を捧げるのです。賛美とはそういうことです。
以前も紹介したことがありますが、「あなたの神は小さすぎる」というタイトルの本がありました。今は絶版ですから手に入らないと思いますが、タイトルだけでも価値がある、「あなたの神は小さすぎる」。私たちは自分の勝手な考えで神様を小さな存在にしていないだろうか。神様って、これくらいだと、分かってもいないのに制限をしていないだろうか。本当はいくら知恵を尽くしても表現できないほどに偉大なお方なのです。だから、私たちの賛美はどれほど頑張っても足らないのです。でも精一杯賛美するとき、また上辺ではなく心の底から祈るとき、その私たちの言葉を神様は受け入れてくださる。それが詩篇に含まれている祈りや賛美なのです。
3.世界中が神の民
最後に、神様の偉大さを賛美している間に、この詩人は神様の大きさを少し広げることが出来ています。それはイスラエルだけの神ではなく、全世界の王だということです。8節で、
8 神は国々を統べ治めておられる。
全地の王という言葉も地上の全てを含んでいます。ところが、さらに神様の素晴らしさは広がっています。9節。
9 国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。
イスラエルだけなく、他の国々も人々も、神様はアブラハムの民として集めてくださる、というのです。何故、アブラハムの民かと言うと、創世記の中で神様がアブラハムを選ばれたとき、アブラハムとその子孫を通して全世界に人々が祝福されると約束されたからです。アブラハムという名前も「諸国民の父」という意味です。神様はイスラエルの垣根を越えて世界の神様です。これはイスラエルの民には理解しがたい。自分たちだけが選民だと思っていたら、神様は異邦人さえも救われる。8節後半に書かれているのは、「神はその聖なる王座に着いておられる」。この「聖」という言葉は超越しているということです。人間が勝手に制限することなどできない。人間の考えを遙かに超えたお方。ですから国々にまで祝福は及ぶのです。10節の
10 まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。
この「地の盾」という言葉が何を指すかは、良くわかっていません。盾というのは防御を現しますから、それぞれの国を守る軍隊のことだとも言われます。ここでは9節で「国々の民の尊き者たち」と、王族貴族が上げられていますから、「地の盾」は地面に近い、平民のことかも知れません。でも人間の考えられることを越えて、神様は全ての国の人々にも救いを与えて下さる。それが新約聖書で成就したことです。さらに、ここでは取り上げられていませんが、神様は罪人を招いて救ってくださる。どれほど神様のお考えは大きいか。だから最後に、「神は大いにあがめられる方」と語っているのです。
この神様は、今から三千年近く前の時代には、ここまでの賛美でしたが、やがて預言された通りに救い主が来られた新約時代からは、もっと賛美の言葉は豊かになっていった。神様の素晴らしさがさらに示されたからです。私たちも、聖書を通して、また様々な体験を通して、神様の素晴らしさ、偉大さを知って、これまで以上に神様を崇め、いと高きお方として褒め称える者となりましょう。
まとめ.
コロナ禍にあって、私たちは小さくなりがちです。大声で賛美が出来ない。神様までもが閉じこもっているかのように思ってしまう。でも、このコロナ禍にあっても神様のお働きは制限されることなく、今迄以上に広がっています。また教会に来ることができない方々にも恵みは注がれています。ですから、私たちもこのお方を、私たちの、いいえ、全世界の王であるお方を褒め称えましょう。
2 まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。

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posted by ちよざき at 13:00| Comment(0) | 説教