2021年06月27日

礼拝説教「王の結婚」詩篇45:1〜2(詩篇45篇)

礼拝説教「王の結婚」詩篇45:1〜2(詩篇45篇)
詩篇には150の詩が載せられていますが、その多くは祈りと賛美です。どうしても同じような詩篇が続きますが、ときどき、変わった詩篇が登場します。今日の詩篇45篇は、神様への賛美でもなければ、神様に祈っているのでもない。人間の王様に対して語られている詩篇です。この詩篇のような、王様をテーマとした詩は「王の詩篇」と呼ばれます。その中でも、この45篇は王の結婚ということを歌っている、ユニークな詩です。でもどうして「王の詩篇」というものが聖書に含まれているかは、最初は分かりにくい。特に、人間である王様を称えています。クリスチャンは、人間を誉め讃えると言うのは、神様への信仰と相いれないように感じるので、この詩篇にも違和感を覚えるかもしれません。でも、旧約のイスラエルは王国制度を採っていて、でも同時に本当の王様は人間の王の上におられる神様こそが王である、という信仰があります。では、どうして人間の王様がいるのか、というと、この王様は神様によって立てられた王であり、神の代理として国を治めている。そして、この王様が良い王様として国を正しく治めるのは、神様がそのようになさっていることを具体的に表している。いわば、神様をモデルとして人間の王のあるべき姿が示されている。ですから、王様を誉め讃えることは、王様を通して、その王様を立てて導いておられる神様への賛美にもつながる、と考えることができたのです。民主主義の時代に生きる私たちにはピンと来ないかもしれませんが、理想的な王様の、そのずっと先に神様がおられるということを覚えつつ、この詩篇の意味をご一緒に考えてまいりたいと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、いつものように三つのポイントに分けて詩篇を見てまいります。まず第一に「素晴らしい王」、第二に「愛される王妃」、そして第三に「永遠の祝福」という順番でメッセージを進めてまいります。
1.素晴らしい王
先ほどは1節、2節を読んでいただきましたが、もう一度、1節。
1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。
このような言い回しは、これまでの詩篇にはなかったものですが、作者である詩人が、心に素晴らしい詩が思い浮かぶ、その作品を王様に語っている。なんで、こんなことが書かれているかと言いますと、この後に出て来る言葉は、神様への言葉では無くて王様への言葉だと言うことです。2節の「あなたは」というのを、これまでの詩篇のように神への呼びかけとして読んでしまわないように、最初に一言説明しているのだと思います。ですから詩そのものは2節からです。2節。
2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
ダビデもそうですが、昔の王様は大体、美男子だったようです。私は麗しいなどと言われたことはありませんが、世の中にはハンサム、なんてもう死語で、いまはイケメンです。でもどんなイケメンでも言葉が酷かったら幻滅ですが、くちびるからは「優しさ」と新改訳は訳している言葉は、他の翻訳では、優雅さとか気品と訳されています。王様に相応しい外観と言動です。さらに3節では
3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。
古代の王様ですから軍人としても強そうです。4節には「勝利」という言葉も出てきます。5節。
5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。
勝利者なる王です。勇ましい、頼りがいのある王です。
次の6節は神様への言葉が始まります。
6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
人間の王を称えていますが、でも本当の王座は神様のものであり、神様は公正なお方ですから、人間の王も正義によって政治を行うことが求められます。7節は人間の王への言葉と神様へと言葉が入り混じっています。
7 あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油を、あなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。
あなた、それは神様も王様も、同じように義を愛し悪を憎む、正しい王です。だから、神様もこの王様のことを喜んで、油を注いだ。つまり王として立ててくださったのです。まさに理想的な、そして神様の御心にかなった王様ですから、詩人も喜びをもって王様を称えているのです。
9節は、少し受け入れにくいかもしれません。
9 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。
古代も、あるいは中世まで、ほとんどの王様には複数のお妃がいた。それは確実に世継ぎが存在して、政権が安定することが国民にとっても安心できるからです。だから「愛する女たち」と複数形なのは、まだ良いと言えるかもしれない。ただ、その王妃たちの中には外国の王たちの娘が政略結婚で嫁いできている。これはソロモンが外国から多くの王女を妻として迎えたことを思い出させ、それがイスラエルに偶像礼拝を持ち込む原因となったことを思うと、あまり手放しでは喜べませんが、しかし、ソロモン時代はもっとも安定した時代で、国も反映し、ソロモン王の栄華の素晴らしさは有名ですし、この王様の権威がずっと続くことでもあったのです。
人間の王様をここまで褒めちぎるのは、当時の人にとっては自然な思いで讃えていたでしょう。しかし、どれほどソロモンが着飾っても、野の花にも及ばないとイエス様は教えられましたが、天の王である神様の素晴らしさは、この人間の王様への賛美よりももっと素晴らしいものです。この詩人が王様を称えている以上に、私たちも、王の王、主の主であるお方を、言葉の限り誉め讃え、心から崇めるものでありたいと願います。
2.愛される王妃
二つ目のこと、そして、これがこの詩篇の中心ポイントである、王妃、もっと正確には王妃となる娘への言葉が10節から始まります。
10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。

ここにも「あなた」という言葉が使われていますが、原文のヘブル語では、男性に対する「あなた」と女性に対する「あなた」ははっきりと違う形ですので、男性である王様に語っているのか、女性である娘に語っているのかは読んだら明白に分かります。詩人はこれから王様と結婚しようとしている娘に、忠告としてよく聞きなさいと言います。それは、「あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ」。特に外国から来る娘であればなおさら、母国の習慣や宗教をいつまでも持っていると、やがてイスラエルの王妃として相応しくないものとなり、王様の愛を失ってしまう。でも、自分の民や父の家を忘れてでも、すべてを捨てて嫁いできたのであれば、王様はこの娘を妻として受け入れて守ってくれる。「そうすれば王は、あなたの美を慕おう」。王妃となる女性は、美しいのは当たり前で、たくさんの美しい女性がいる。でも、この娘を誰よりも慕う、何よりも誰よりも、この王妃を求める、それが王の愛です。
表題の最後に「愛の歌」と書かれていますが、王の王妃への愛がストレートに記されています。さらに、11節後半の「彼はあなたの夫であるから」の「夫」という言葉は、普通の夫を表す言いかたではなく、「主人」という意味の言葉が使われています。現代の、男女平等の時代からは批判されそうですが、昔は夫に対して妻は従う、夫が主人であった。その主人、特にこの場合は普通の夫婦ではなく、王様ですから、王妃といえども王様の前にはひれ伏す。
これは、昔の男尊女卑の文化だから、ということで切り捨てるべき御言葉ではありません。王妃が、自分は妻だからと王に対抗するのではなく、王を王として尊敬するなら、王様もこの王妃を喜び、愛する。この姿は、私たちの神様への姿勢を教えています。私たちは神様を神として、王として、その前にひれ伏す思いで神様に心を向けているか、それとも神様さえも自分と同等に見て、自己主張をしてしまってはいないか。神様に心から従うなら、神様も喜んでその人を愛し、また用いてくださるのです。
この王と王妃の関係は、旧約聖書では、神様とイスラエルの民の関係を象徴しています。イスラエルは神様と契約を結んでいただいて、いわば、夫婦の様な関係としていただいた。だから、神様はイスラエルに対して「私はあなたの神、あなたの主人だ」と言われ、またイスラエルに対して「あなたがた、いえ、あなたは私の民だ」と、特別な関係を結んでくださった。私たちも、そのような関係、神様に愛されている者として、私も神様を心から崇めて従う者となりましょう。
3.永遠の祝福
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。それは最後の16節、17節です。その前の15節までは、女性形の「あなた」や、彼女、または彼女たち、15節の新改訳は「彼らは導かれ」となっているのも、正確には「彼女たち」です。それが16節からは、また男性形の「あなた」に戻っているので、16節、17節は新しい段落となっていることが分かります。16節。
16 あなたの息子らがあなたの父祖に代ろう。あなたは彼らを全地の君主に任じよう。
最後の部分は、詩人が王様に語っているのですが、途中から神様が王様に語り掛ける言いかたになっていきます。息子たちが父祖たちに代るとは、王座が父から子へと引き継がれていき、それが何代も続いていることを示します。父から子へ、また、その子へ。こうしていつまでも王座が繋がっていく。これがダビデ契約と呼ばれている、神様がダビデに告げられ得た約束です。神様は、永遠の契約としてダビデの子孫が王となると言われた。でも、実際はダビデの子孫も不信仰のために、ついに国が滅亡してダビデ王朝も終わる時が来ます。しかし、神様は約束を守ってくださり、ダビデの子孫として救い主キリストが誕生し、このお方が王の王となられて、約束が成就するのです。でも、それで終わりではありません。
さらに黙示録には、イエス様がもう一度おいでになる、これを再臨と言いますが、その時には、教会はキリストの花嫁となるんだ、と予告されています。クリスチャンが男性も含めて花嫁となるというのではなく、教会が全体として花嫁となり、キリストとの婚姻の祝宴、それが天国の喜びだと言われています。
ですから、この詩篇で、王に嫁いで王妃となる娘に言われている言葉は、私たちに対しても告げられている言葉なのです。17節。
17 わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。
神様が王様の名を代々にわたって覚えさせ、忘れないように、私たちのことも忘れない。私たちもキリストの名を忘れたりしない。そして、国々の民、世界中の教会が、神様をいつまでも誉め讃えるのです。
今は、コロナ禍で賛美も思う存分はできない。でも、いつの日にか、感染も収束して、安全になって、喜び溢れる礼拝を捧げる時が来る。そして、いつの日か、イエス様が再びおいでになるときには、子羊の婚宴に私たちも招かれ、世界中の人と共に、また先に天国に行かれた各時代の信仰者たちと共にイエス様の前に立って、賛美を捧げる時が来るのです。神様からの祝福の言葉は、昔からあり、今も注がれ、永遠の未来にまで続く。
まとめ.
この詩篇は特別な詩篇だと最初に少し述べましたが、それは前後にある詩篇は、苦難の中での信仰や信頼が記されている。私たちも苦しみの時があります。でも神様は、そんな苦しい時にも喜びを用意しておられ、神様との関係をもっと深めてくださり、さらに永遠にまで続く祝福を計画しておられる。そのことを覚えるようにと、44篇の後に45篇があり、次の46篇、これも素晴らしい詩篇です。私たちも今、44篇の苦しい中にいたとしても、それでも神様に祈り、神様に心を向けていくなら、45篇の祝福が必ず備えられていることを覚えさせていただきたいと願います。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年06月20日

礼拝説教「苦難の中で神を信じるか」詩篇44:20〜26(詩篇44篇)

礼拝説教「苦難の中で神を信じるか」詩篇44:20〜26(詩篇44篇)
私たちは悩んだり苦しんだりすることがあります。今も昔も、誰もが苦難の時を過ごすことがあります。そんな時、信仰者は詩篇の祈りに惹かれます。詩篇は昔の讃美歌集ですが、多くの詩は、賛美や喜びよりも苦しみの中で神様に祈る、いわゆる「嘆きの歌」と呼ばれるものが多いのです。苦難の中でも、彼らはどうやって神様を信じ続けたのか。その秘訣を知るのは、この詩篇、全部で150の詩がありますが、詩篇から信仰者たちの信仰を学ぶときに、私たちも苦難の中での信仰をしっかりと握りしめることができるのです。
今日も、多くの方が入院され、ホームで過ごされ、自宅で伏しておられる。仕事も勉学も、コロナ禍で苦労している方が大勢おられます。ワクチンだって、予約を取るのにさえ一苦労。まだしばらくは油断できない状況が続きます。そのようなストレスが多い時代、気持ちもふさぎ込みそうになります。でも私たちは、それでも神様を信頼して着いていきたい。そのために、詩篇を通して、昔の人の信仰の姿勢に目を向けたいと思います。
いつものように三つに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「信仰者の苦しみ」、第二に「みっともない祈り」、そして最後に「神の恵みのみ」という順序で進めてまいります。
1.信仰者の苦しみ
今日の詩篇は少し長めなので、司会者に全部を読んでいただくのは大変ですから、最後の結論の部分にしぼって朗読していただきました。少し拾い読みをしながら、この詩篇がどのような祈りであるのかを見てまいりたいと思います。まず1節から3節にはイスラエルの過去を振り返っています。1節の後半から
あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
2 あなたが御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え

と書かれています。これはエジプトから救われたイスラエルが約束の地に来て、その地を与えられたときのことです。3節。
3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
これらのことは、イスラエルの民が幼い頃から教えられていた、自分たちの歴史であって、神様が彼らを救い、導いてきてくださった。だから、どんな敵が来ても、神様が自分たちを救ってくださると、神様を誇り、賛美していた。この信頼は、私たちも見倣いたい信仰だと思うのです。
しかし、このような信頼があっても、なお苦難がやってくる。そのとき、私たちの信仰は揺らぐことがあります。神様を信じているのに、どうして、こんな苦しみがあるのか、という疑問。いえ、問題はもっと深いのです。
4節で、
4 神よ。あなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。
神様が王であるから、勝利を命じてください、と祈っています。イエス様のところに一人の百人隊長が来て、病気で苦しんでいる僕を救って欲しい。でも自分にはイエス様を家に迎える資格が無い。だから命令して下さい。イエス様が直れと命令したら、それだけで僕は癒やされます、とお願いしたことが福音書に書かれています。イエス様は、彼の信仰を褒めたのですが、ここにも同じ信仰が示されています。神様が王であるなら、勝利せよ、と命じたらヤコブ、これはイスラエルの別名です。イスラエルは勝利をすることができる。
ところが、現実は敗北をしている。何故か。それは王である神様が勝利を命じないで敗北を命じたからなのか。神様が王であり主権者なら、私が苦しみを受けるのも神様がそうなさったからなのか。神様の権威を認める信仰があると、苦しみの理由も神様の権威によるのではないか。ちょうど、旧約聖書のヨブが苦しみを受けたのは、神様が悪魔に許可を与えたからだと書かれていると、ヨブを苦しめたのは、結局は神様がそうされたのか、と考えてしまうのです。
この詩篇は9節から16節まで、様々な苦しみを私たち、すなわち神の民が受けていて、それは「あなたがそうした」と繰り返して語っているのです。でも、詩人は信仰を捨てません。17節。
17 これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたとの契約を無にしませんでした。
どれほど苦難を受けても、それが神様の主権のもとにあることを認めながらも、それでも神様を信じ続けるのです。だから余計に苦しいのです。ここに信仰者だからこそ味わう苦悩があります。信仰があっても苦難はやってくるし、信仰があるがゆえに苦悩は続き、さらに増していく。そんなとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
2.みっともない祈り
二つ目のポイントに移ります。20節。
20 もし、私たちが私たちの神の名を忘れ、ほかの神に私たちの手を差し伸べたなら、
21 神はこれを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるからです。

もしも、偶像の神々に手を指し伸ばして祈ったなら、その罪によって罰を受けても仕方がない。でも、この人はそんなことはしていない。ひたすら天の神に祈ったのです。「これを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるから」。神様が探り出されたら、私たちの心はどうでしょうか。他の神に祈ることは無いとしても、神様以外のものに頼ろうとしたかもしれない。でも、何に頼ってもダメで、神様だけに真剣に祈る。それでも、答えが無い。そのために、息も絶え絶えになっている。それが22節です。
22 だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちはほふられる羊とみなされています。
祈っても行き詰まるとき、あとは何をしたら良いのでしょうか。なんと祈ったら良いのでしょうか。23節。
23 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。
神様に、眠っていないで起きてください、と訴えていますが、神様には居眠りして祈りを聞いていないということがあるでしょうか。預言者エリヤがカルメル山でバアル宗教の預言者たちと対決したとき、彼らがいくらバアルの神に祈っても答えが無いのを、バアルが寝ているかもしれないから、とエリヤが彼らをからかったことが列王記に記されています。そんな偶像の神と、天地を造られたまことの神様とを同じ扱いをするというのは、神様への侮辱です。もちろん、詩人は本当に神様が寝ていると考えているのではなく、祈りを聞いてほしくて必死に語っているのです。必死に祈るあまり、失礼な言いかたになってしまった。それでも神様は祈りを拒むようなお方ではなく、聞き入れてくださいます。
苦難の中で信仰も行き詰まりそうになったとき、それでも祈る、というときには、格好をつけた祈り、一分の隙も無い完璧な祈りなんて出来ません。むしろ言葉使いが少しくらい間違っていても、気にする余裕もなく、必死で祈るほかないのです。もう一つ、この詩の祈りがどのような祈りであるかを示しているのは25節。
25 私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています。
この人の魂、心がちりに伏している。腹が地にへばりついている。それほどに落ち込んでいるということなのかもしれません。腹が地にへばりつくというのは、具体的に考えるなら地面にひれ伏している姿ですが、地面に腹を付けているというのは、創世記の三章で、アダムとエバを誘惑したヘビに対する神からの裁きで、ヘビは呪われて、地面を腹で這い、塵を食べると言われていることを思い出します。この人は、地面の塵と等しい、塵芥(ちりあくた)の様な存在になってしまったのです。
しかし、この、自分を塵のように無価値だと認めているのは、彼は自分の弱さ足らなさを、ありのままで認めているのです。これも取り繕った祈りの正反対です。自分の弱さを向き合い、それを受け止めて、神様の前にひれ伏して全面降伏して、そして祈るのです。この姿勢に対して神様は悔いた砕けた魂を軽んじることはないお方です。信仰を失いそうになりながら、それでも祈り、神様の前で取り繕う余裕もなく、でも遜って必死に祈る人は、実は神様に一番近いところにいるのです。
確かに、この人のような苦しみは、できれば受けたくない。でも、現実にどうすることもできない苦難を受けて、不信仰に陥りそうになったり、失礼な祈りになってしまっても、そこで神様に近づくなら、神様の恵みは必ず注がれるのだということを信じましょう。
3.神の恵みのみ
最後の節を読みます。26節。
26 立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。
この節の前半は、起きてください、と同じような祈りで、助けを求めています。具体的には、後半の「贖い出してください」、すなわち困難から救い出してと願っているのです。ここに「あなたの恵み」という言葉があります。神様が私を救ってくださるのは、私が良い行いをしたからとか、信仰深かったからとか、私の側には救っていただけるような何物も無いのです。だからただ神様の恵みにすがる他ないのです。
「恵み」という言葉、ヘブル語の「ヘセド」という単語が、この詩篇の最後の単語となっています。「恵み」のほかに「いつくしみ」と訳されることもあり、神の愛を表す言葉の一つです。ヘセドを「契約の愛」と説明する人もいます。契約したゆえに、どれほどイスラエルが神様に背き、逆らっても、それでも彼らを真実に導き、救い出してくださる、変わることのない愛です。
違う言葉ですが、最初の方、3節にも神の愛が登場しますが、それは過去にイスラエルの先祖たちを救ってくださった神の愛で、今は、神様に見捨てられたように感じる、もう愛されていないと思っていた。でも、神様の愛にしかすがることが出来ない。私を救ってくださるのは、ただ恵みのみなのです。
このような神の愛は、永遠の愛です。新約聖書の第一コリントで、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛。その中で一番大いなるものは愛である」と有名な言葉がありますが、それは人間の愛が無くなってしまっても、神様の愛は永遠に無くなることはない。この詩篇がヘセド、神の愛で閉じているのは、それで終わりではなく、この愛がこの後の歴史、また生涯に、永遠に続いているからです。
この愛が具体化したのが、十字架です。神の御子として父なる神の愛を永遠に受けているお方が、十字架の上で私たちの罪を背負って身代わりの死をとげて、私たちを救ってくださった。そのときにイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という詩篇の言葉を用いて祈っておられますが、イエス様は自らが見捨てられても、拒まれても、私たちを罪から救ってくださったのです。これを聖書の用語では「贖い」と言います。神の愛とは、何か良いことをしてくれるとか、困ったことが解決し、自分の願った通りになるといった、自己中心的なものではなく、十字架によって示された愛なのです。ですから、この恵みによる贖いということは新約時代の今も、旧約時代の詩人たちにも一番、必要な救いです。ですから「あなたの恵みのために、私たちを贖い出してください」と祈っているのです。
まとめ.
十字架は、イエス様の地上の歩みの最後ではなりません。そのご生涯全体が十字架でした。仲間に裏切られ、してもいない罪で訴えられ、人々からさげすまれた。いいえ、生まれたことも、天におられるお方が人間の肉体となってくださった。それは塵から造られたと聖書が教えている肉体です。塵に等しい存在となってくださり、死んで黄泉に下り、と使徒信条にも告白されているように、地上どころか地の底にまでくだってくださった。でも、それで終わったのではなく、そこから立ち上がり、復活され、私たちの救いを完成してくださったのです。それは私たちも塵から立ち上がるためです。私たちがどのような苦難に置かれていても、この十字架の愛を信じて祈るなら、神様はそこから救い出してくださる。やがて迎える人生の最後が来ても、その死から復活させて天国に入れてくださる。だから、私たちはあきらめずに祈り続けるのです。どんなみっともない祈りでも、真剣に、真実に祈るなら、神様はその人のすぐそばにいて祈りに耳を傾けていてくださるのです。
コロナ禍はもう少し続きます。でも、このお方を信じて祈り続けましょう。希望を持ちましょう。主を待ち望みましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年06月06日

礼拝説教「乾ききった心に」詩篇42:1〜5(詩篇42〜43篇)

礼拝説教「乾ききった心に」詩篇42:1〜5(詩篇42〜43篇)
序.今日から礼拝の説教の聖書箇所は詩篇に戻ります。詩篇は五巻に分けることが出来ますが、去年は第一巻からメッセージを取り次がせていただきました。今日は第二巻の最初、詩篇42篇です。この詩篇は1節に「谷川の流れを慕いあえぐ鹿」という絵画にもなりそうな情景から始まり、この言葉からいくつもの賛美も作られたくらい、有名な御言葉です。でも、内容は美しい情景ではなく、心が渇ききった辛い状況の中で神様に祈る祈りです。5節に「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか」と自分の心に呼びかけていますが、心がうなだれているのです。この5節の言葉は、ほとんどそのまま、11節にも繰り返されていて、この詩の重要な台詞となっています。そして、同じ言葉が次の43篇の最後、5節にも登場します。42篇の最初と比べると分かりますが、43篇には詩の説明をする表題がありません。ですから、42篇と43篇はもともと一つの詩だったのかも知れない、と言われています。(あるいは、42篇への応答として43篇が後から付け加えられたのかも知れません。どちらにしても、)今日はこの二つの詩篇をまとめて読みたいと思います。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントです。第一に、42篇の1節から5節を通して、「思い出と苦悩」ということをお話しします。第二に、42篇の6節から11節より、「目の前の苦悩」。そして第三に、43篇の1節から5節で、「苦悩の中の希望」という順序で進めてまいります。
1.思い出と苦悩(42篇1〜5節)
先ほど司会者に読んでいただきましたが、もう一度、1節。
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

「慕いあえぐ」、また「渇いています」と書かれています。夏の暑い日に汗を流しながら運動すると、当然、喉が渇きます。昔の部活動では、休憩時間までは水を飲んでは行けない、と先輩から言われ、喉が渇くのを我慢しました。喉も口の中もカラカラになり、舌と上あごがくっつきそうになります。水が飲みたくて飲みたくて仕方が無い。それくらいに、私たちは神様に対する乾きがあるでしょうか。「生ける神を求めて渇いています」と、神様との生きた交わり、祈りと御言葉により神様と語り合う。この交わりが無いために、心が、魂が、乾ききる。ところが肉体と違って、魂は生ける水が無くて渇いても、その状態に慣れてしまい、平気になってしまう。でも、本当は心の奥が渇いているため、体中が潤いを失うかのように、私たちの言葉や行いがギスギスしたものになり、他の人を潤すどころか、他の人の心まで渇いてくる。そんな状態になってはいないでしょうか。
2節後半には「いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」と書かれています。神様の前に進み出る。昔の人は神殿に行きました。いつ、とはいつになっても神殿に行けないからです。今、日本の各地で教会に行けないクリスチャンが多くいます。神の前に行きたい、でも行けない。どれだけの乾きがあるでしょう。神殿を思い起こしたとき、詩人の心に浮かんだのは、過去の出来事でした。4節
42:4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
「あの事などを思い起こし」とありますが、「あの事ども」というのが何なのか分かりにくいです。それは、その後に書かれていることです。「私があの群れと一緒に」、あの群れとは仲間たちです。一緒にエルサレムに向けて歩いて行き、神殿について神様を礼拝し、お祭りを祝った。その時の事を思い起こしているのです。過去の楽しかったことを思い出すほど、今の苦しい状態がますます辛くなってきます。
3節を見ると、苦しみ理由の一つが分かります。
42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
自分の近くにいる人たちが、「お前の神はどこにいるのか」と言って、私の信仰をあざ笑うのです。だから、夜も昼も涙を流している。神様との関係が閉ざされてしまい、人との関係も上手くいかない。その人たちとは昔は仲よく、一緒に神様を賛美していたのに。これでは5節でたましいがうなだれるのも当然です。5節。
42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
心がうなだれ、思い乱れるなか、それでも信仰を奮い立たせ、絞り出すように「神を待ち望め」と自分に言い聞かせている。この詩を書いた詩人の思いが伝わってくるようです。
今、私たちはコロナ禍にあって教会に来ることができない方々がおられます。また教会にきても以前のように思う存分交わりを楽しめない。その中で神様との交わりさえ途絶えてしまったら、どれほど苦しいことか。実際、聖書を読んだり祈ったりする時間が減ってしまうなら、神様との交わりは私たちの魂が渇くほどに不足してしまいます。どうにかしてでも、神様との時間を持ってください。また、今、会うことができない兄弟姉妹がどれほど寂しいか、乾ききっているのではないか。その方々のために祈っていただきたいのです。
2.目の前の苦悩(42篇6〜11節)
二つ目の段落に目を向けたいと思います。6節にカタカナの地名が出てきます。エルサレムの神殿から遠く離れた地です。神様に会いたいと願いつつ、今いる場所で彼は何を見たでしょうか。7節。
42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。
大波というのは普通は海のことですが、とどろきという言葉から、川の音、あるいは滝の音かもしれませんが、彼は水の音を聞き、流れるさまを見ながら、神様のことを考えたのです。
6節は、最初が「私の神よ」という呼び掛けから始まっています。神様に心を向けている。ですから6節と7節には「あなた」という言葉が三回出てきます。川や滝を思い起こしながら、神様からの水が押し迫ってくるのを感じるのです。ですから8節。
42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
昼も夜も、神様の恵みをいただき、神様への賛美が心から沸き上がるのです。そして、私の命である神様、神様こそ、私の命の根源、このお方と繋がっているなら生き生きとすることができる。この神様への祈りが、次の9節です。
42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。

ここで詩人は、神様に率直に祈ります。神様が私を忘れて、離れて行ってしまったように感じていること。敵の心無い言葉に傷つけられていること。それは過去のことではなく、今も続いている。苦しみは目の前にあります。でも、そのことを神様に祈ることが出来る。それは、取り繕ったような祈りではなく、また現状を嘆くだけのつぶやきではなく、心の苦しさを素直に神様に告げる祈りです。
このように祈ったとき、11節は5節とほとんど同じ言葉ですが、その意味が変わってくることが分かります。「私の魂よ、なぜうなだれているのか」、それは自分に言い聞かせて、「いつまでうなだれているか、もう神様を待ち望んで立ち上がりなさい」と励ましているのです。5節とはほとんど同じ、と言いました。小さな小さな違いがあります。5節の最後は「御顔の救い」となっていて、神様の顔を一目見ることができたら、それが救いだと言っています。11節の最後は、「私の顔の救い、私の神を」となっている。私の顔、私の目の前に救いの神様を見ているのです。人々から「お前の神はどこにいるのか」と言われたのですが、今は「私の神様」と呼び掛けることができるのです。苦難の中にあって神様を見上げているのです。
私たちは、今、苦難の中にいます。目の前には様々なことが私たちに不安を巻き起こします。でも、神様に目を向けるきっかけもあちこちにある。それは自然界を見たり、思い起こしたりするときかもしれません。誰かからの暖かい言葉や小さなプレゼントかもしれません。何かを通して神様の恵みは今も私に注がれていることを知るとき、神様への祈りが生きた祈りとなって、神様との交わりが始まるのです。現状はまだまだ変わらないかもしれません。でも信仰は、私たちの魂は、神様に向かって立ち上がるのです。
3.苦悩の中の希望(43篇1〜5節)
43篇は42篇の終わりから繋がっています。神様との関係が再開し、神様に率直に祈るようになったとき、神様に具体的に救いを求めるようになります。43篇1節。
43:1 神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
神様をあなどって「お前の神はどこにいる」と嘲っていた人たち、欺きの言葉、不正な行いをするような人たちから助け出してください、と祈るのです。まず、問題の解決を求める祈りから始まります。最初の「私のためにさばいてください」とは、悪人たちの罪を裁いてください、ということです。でも神様の裁きは神様のなさることですから、人間の思ったとおりにならない。今すぐに裁きがあるのではありません。もし、私たちが罪を犯したときに、即座に神様に裁かれるなら、私たちも滅んでしまいます。神様は憐れみと忍耐をもって、悔い改めを待ってくださるお方ですから、「さばいてください」と祈っても、すぐに応えられるのではありません。だから次の2節では「なぜあなたは私を拒まれたのですか」と神様への不信感に陥りそうになってしまいます。でも、彼は3節で思いを切り替えます。
祈っている途中で神様に苦しみや嘆きをぶつけることがあっても、神様はその正直な祈りを退けはしません。やがて聖霊が私たちの祈りを神様への信頼へと切り替えてくださるようになります。3節。
43:3 どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
本当に必要なのは、敵が裁かれて倒れることではなく、私にあなたの光とまことを送ってください、という祈りです。神様の光があれば、正しい方向に進むことができます。神様のまことを知るなら、偽りによって惑わされることはありません。神様の導きによって、詩人の心は、「あなたの聖なる山」、これは当時の信仰者にとって、神様の聖なる山とはエルサレムの神殿、「あなたの住まい」です。光とまことによって、神様の前へと連れて行ってもらえるのです。今すぐには神殿に行くことはできないかもしれない。でも、心は神の家にもう向かっているのです。「私を連れて行ってください」とは祈りの求めであり、「あなたは私を連れて行ってくださるはずです」という信頼による期待でもあります。そして、この祈りはやがて賛美へと引き上げられます。それが4節です。
43:4 こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
この賛美の思いに満ち溢れ、肉体はまだ神殿から遠く離れていても、心は神様の祭壇の前に進み出て賛美しているのです。この賛美の思いに満ち溢れた心で、5節。
43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
この5節は42篇の11節とまったく同じです。でも心の中は変わりました。敵の言葉で揺れ動くのではなく、神様の前で賛美を捧げている。ですから、この最後の節は、もううなだれているのではありません。もうその思いからすでに立ち上がり、今は神を待ち望むように変えられたのです。
今、教会に行くことが出来ずに、本当に寂しい、辛い、そのような中におられる皆さん、どうか、神様からの光とまことに目を向けていただきたい。必ず神様はあなたを御前に導いてくださいます。いつの日か、神の家で共に賛美をささげるときが来ることを信じ、神様に期待し、待ち望みましょう。
今、教会に来て礼拝を捧げることが出来る方も、もしかしたら心の中では苦しみや悩みを抱えておられるかもしれません。もう一度、神様に率直に祈り、悩みを打ち明け、そして神様に信頼しましょう。
まとめ.
コロナ禍はまだしばらくは続くでしょう。病気や人間関係や、様々な悩みが長く続いているかもしれません。でも、御言葉の約束を信じ、「主を待ち望む者は新しく力を得る」、新しい力をいただこうではありませんか。
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教