詩篇には150の詩が載せられていますが、その多くは祈りと賛美です。どうしても同じような詩篇が続きますが、ときどき、変わった詩篇が登場します。今日の詩篇45篇は、神様への賛美でもなければ、神様に祈っているのでもない。人間の王様に対して語られている詩篇です。この詩篇のような、王様をテーマとした詩は「王の詩篇」と呼ばれます。その中でも、この45篇は王の結婚ということを歌っている、ユニークな詩です。でもどうして「王の詩篇」というものが聖書に含まれているかは、最初は分かりにくい。特に、人間である王様を称えています。クリスチャンは、人間を誉め讃えると言うのは、神様への信仰と相いれないように感じるので、この詩篇にも違和感を覚えるかもしれません。でも、旧約のイスラエルは王国制度を採っていて、でも同時に本当の王様は人間の王の上におられる神様こそが王である、という信仰があります。では、どうして人間の王様がいるのか、というと、この王様は神様によって立てられた王であり、神の代理として国を治めている。そして、この王様が良い王様として国を正しく治めるのは、神様がそのようになさっていることを具体的に表している。いわば、神様をモデルとして人間の王のあるべき姿が示されている。ですから、王様を誉め讃えることは、王様を通して、その王様を立てて導いておられる神様への賛美にもつながる、と考えることができたのです。民主主義の時代に生きる私たちにはピンと来ないかもしれませんが、理想的な王様の、そのずっと先に神様がおられるということを覚えつつ、この詩篇の意味をご一緒に考えてまいりたいと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、いつものように三つのポイントに分けて詩篇を見てまいります。まず第一に「素晴らしい王」、第二に「愛される王妃」、そして第三に「永遠の祝福」という順番でメッセージを進めてまいります。
1.素晴らしい王
先ほどは1節、2節を読んでいただきましたが、もう一度、1節。
1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。
このような言い回しは、これまでの詩篇にはなかったものですが、作者である詩人が、心に素晴らしい詩が思い浮かぶ、その作品を王様に語っている。なんで、こんなことが書かれているかと言いますと、この後に出て来る言葉は、神様への言葉では無くて王様への言葉だと言うことです。2節の「あなたは」というのを、これまでの詩篇のように神への呼びかけとして読んでしまわないように、最初に一言説明しているのだと思います。ですから詩そのものは2節からです。2節。
2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
ダビデもそうですが、昔の王様は大体、美男子だったようです。私は麗しいなどと言われたことはありませんが、世の中にはハンサム、なんてもう死語で、いまはイケメンです。でもどんなイケメンでも言葉が酷かったら幻滅ですが、くちびるからは「優しさ」と新改訳は訳している言葉は、他の翻訳では、優雅さとか気品と訳されています。王様に相応しい外観と言動です。さらに3節では
3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。
古代の王様ですから軍人としても強そうです。4節には「勝利」という言葉も出てきます。5節。
5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。
勝利者なる王です。勇ましい、頼りがいのある王です。
次の6節は神様への言葉が始まります。
6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
人間の王を称えていますが、でも本当の王座は神様のものであり、神様は公正なお方ですから、人間の王も正義によって政治を行うことが求められます。7節は人間の王への言葉と神様へと言葉が入り混じっています。
7 あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油を、あなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。
あなた、それは神様も王様も、同じように義を愛し悪を憎む、正しい王です。だから、神様もこの王様のことを喜んで、油を注いだ。つまり王として立ててくださったのです。まさに理想的な、そして神様の御心にかなった王様ですから、詩人も喜びをもって王様を称えているのです。
9節は、少し受け入れにくいかもしれません。
9 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。
古代も、あるいは中世まで、ほとんどの王様には複数のお妃がいた。それは確実に世継ぎが存在して、政権が安定することが国民にとっても安心できるからです。だから「愛する女たち」と複数形なのは、まだ良いと言えるかもしれない。ただ、その王妃たちの中には外国の王たちの娘が政略結婚で嫁いできている。これはソロモンが外国から多くの王女を妻として迎えたことを思い出させ、それがイスラエルに偶像礼拝を持ち込む原因となったことを思うと、あまり手放しでは喜べませんが、しかし、ソロモン時代はもっとも安定した時代で、国も反映し、ソロモン王の栄華の素晴らしさは有名ですし、この王様の権威がずっと続くことでもあったのです。
人間の王様をここまで褒めちぎるのは、当時の人にとっては自然な思いで讃えていたでしょう。しかし、どれほどソロモンが着飾っても、野の花にも及ばないとイエス様は教えられましたが、天の王である神様の素晴らしさは、この人間の王様への賛美よりももっと素晴らしいものです。この詩人が王様を称えている以上に、私たちも、王の王、主の主であるお方を、言葉の限り誉め讃え、心から崇めるものでありたいと願います。
2.愛される王妃
二つ目のこと、そして、これがこの詩篇の中心ポイントである、王妃、もっと正確には王妃となる娘への言葉が10節から始まります。
10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。
ここにも「あなた」という言葉が使われていますが、原文のヘブル語では、男性に対する「あなた」と女性に対する「あなた」ははっきりと違う形ですので、男性である王様に語っているのか、女性である娘に語っているのかは読んだら明白に分かります。詩人はこれから王様と結婚しようとしている娘に、忠告としてよく聞きなさいと言います。それは、「あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ」。特に外国から来る娘であればなおさら、母国の習慣や宗教をいつまでも持っていると、やがてイスラエルの王妃として相応しくないものとなり、王様の愛を失ってしまう。でも、自分の民や父の家を忘れてでも、すべてを捨てて嫁いできたのであれば、王様はこの娘を妻として受け入れて守ってくれる。「そうすれば王は、あなたの美を慕おう」。王妃となる女性は、美しいのは当たり前で、たくさんの美しい女性がいる。でも、この娘を誰よりも慕う、何よりも誰よりも、この王妃を求める、それが王の愛です。
表題の最後に「愛の歌」と書かれていますが、王の王妃への愛がストレートに記されています。さらに、11節後半の「彼はあなたの夫であるから」の「夫」という言葉は、普通の夫を表す言いかたではなく、「主人」という意味の言葉が使われています。現代の、男女平等の時代からは批判されそうですが、昔は夫に対して妻は従う、夫が主人であった。その主人、特にこの場合は普通の夫婦ではなく、王様ですから、王妃といえども王様の前にはひれ伏す。
これは、昔の男尊女卑の文化だから、ということで切り捨てるべき御言葉ではありません。王妃が、自分は妻だからと王に対抗するのではなく、王を王として尊敬するなら、王様もこの王妃を喜び、愛する。この姿は、私たちの神様への姿勢を教えています。私たちは神様を神として、王として、その前にひれ伏す思いで神様に心を向けているか、それとも神様さえも自分と同等に見て、自己主張をしてしまってはいないか。神様に心から従うなら、神様も喜んでその人を愛し、また用いてくださるのです。
この王と王妃の関係は、旧約聖書では、神様とイスラエルの民の関係を象徴しています。イスラエルは神様と契約を結んでいただいて、いわば、夫婦の様な関係としていただいた。だから、神様はイスラエルに対して「私はあなたの神、あなたの主人だ」と言われ、またイスラエルに対して「あなたがた、いえ、あなたは私の民だ」と、特別な関係を結んでくださった。私たちも、そのような関係、神様に愛されている者として、私も神様を心から崇めて従う者となりましょう。
3.永遠の祝福
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。それは最後の16節、17節です。その前の15節までは、女性形の「あなた」や、彼女、または彼女たち、15節の新改訳は「彼らは導かれ」となっているのも、正確には「彼女たち」です。それが16節からは、また男性形の「あなた」に戻っているので、16節、17節は新しい段落となっていることが分かります。16節。
16 あなたの息子らがあなたの父祖に代ろう。あなたは彼らを全地の君主に任じよう。
最後の部分は、詩人が王様に語っているのですが、途中から神様が王様に語り掛ける言いかたになっていきます。息子たちが父祖たちに代るとは、王座が父から子へと引き継がれていき、それが何代も続いていることを示します。父から子へ、また、その子へ。こうしていつまでも王座が繋がっていく。これがダビデ契約と呼ばれている、神様がダビデに告げられ得た約束です。神様は、永遠の契約としてダビデの子孫が王となると言われた。でも、実際はダビデの子孫も不信仰のために、ついに国が滅亡してダビデ王朝も終わる時が来ます。しかし、神様は約束を守ってくださり、ダビデの子孫として救い主キリストが誕生し、このお方が王の王となられて、約束が成就するのです。でも、それで終わりではありません。
さらに黙示録には、イエス様がもう一度おいでになる、これを再臨と言いますが、その時には、教会はキリストの花嫁となるんだ、と予告されています。クリスチャンが男性も含めて花嫁となるというのではなく、教会が全体として花嫁となり、キリストとの婚姻の祝宴、それが天国の喜びだと言われています。
ですから、この詩篇で、王に嫁いで王妃となる娘に言われている言葉は、私たちに対しても告げられている言葉なのです。17節。
17 わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。
神様が王様の名を代々にわたって覚えさせ、忘れないように、私たちのことも忘れない。私たちもキリストの名を忘れたりしない。そして、国々の民、世界中の教会が、神様をいつまでも誉め讃えるのです。
今は、コロナ禍で賛美も思う存分はできない。でも、いつの日にか、感染も収束して、安全になって、喜び溢れる礼拝を捧げる時が来る。そして、いつの日か、イエス様が再びおいでになるときには、子羊の婚宴に私たちも招かれ、世界中の人と共に、また先に天国に行かれた各時代の信仰者たちと共にイエス様の前に立って、賛美を捧げる時が来るのです。神様からの祝福の言葉は、昔からあり、今も注がれ、永遠の未来にまで続く。
まとめ.
この詩篇は特別な詩篇だと最初に少し述べましたが、それは前後にある詩篇は、苦難の中での信仰や信頼が記されている。私たちも苦しみの時があります。でも神様は、そんな苦しい時にも喜びを用意しておられ、神様との関係をもっと深めてくださり、さらに永遠にまで続く祝福を計画しておられる。そのことを覚えるようにと、44篇の後に45篇があり、次の46篇、これも素晴らしい詩篇です。私たちも今、44篇の苦しい中にいたとしても、それでも神様に祈り、神様に心を向けていくなら、45篇の祝福が必ず備えられていることを覚えさせていただきたいと願います。
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