2021年05月23日

礼拝説教「大胆に、妨げられずに」使徒28:30〜31(使徒28章後半)

礼拝説教「大胆に、妨げられずに」使徒28:30〜31(使徒28章後半)
序.『使徒の働き』を続けて開いてまいりましたが、今日は最後の部分です。パウロの伝道旅行は、最後は囚人としての護送される旅路でした。嵐もありましたが、ついにローマに到着しました。当時の世界の中心がローマであり、エルサレムから始まった福音宣教は、エルサレムから見たら地の果てとも思える遠いローマにまで到達した。そこでもパウロは大胆に福音を語ったと書かれています。今日はペンテコステですが、『使徒の働き』は2章で最初のペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降って教会が誕生したところから始まり、すぐにペテロとヨハネが捕らえられて議会に立たされますが、そこでも使徒たちは大胆に語り、また神様に「もっと大胆に語らせてください」と祈ったと書かれています。その後も様々な困難や迫害があっても、大胆にイエス様が証しされていき、そして、この最後の部分でも「大胆に」、さらに「妨げられることなく」とあります。それは今も続いています。私たちも大胆に救いを証しし、キリストを宣べ伝えてまいりましょう。
今朝は、この28章の後半から三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「誤解を解いて」、第二に「不信仰の壁」、そして第三に「制限されても」、という順番で進めてまいります。
1.誤解を解いて(16〜22節)
さて前回は28章の前半で、ローマへの旅の最後の部分をお話ししましたが、今日はローマに到着してからで、16節から少し見てまいりたいと思います。16節。
16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
番兵の監視はあるということは勝手に出歩くことは出来ませんが、自分の家の中で自由に生活できる。これは、軟禁状態ではありますが、破格の待遇です。17節。
17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
これまでの伝道旅行では、一つの町に入ったら、最初はユダヤ人の会堂に行って、ユダヤ人に福音を伝えるところから始めましたが、今回は外出はできません。そこでユダヤ人の有力者たちを呼んでもらって、彼らの方からパウロのところに来てもらったわけです。そのユダヤ人の前でパウロが何を語ったのかというと、まず最初に囚人であるが無罪であることです。いくら熱心に福音を伝えようとしても、犯罪者であるなら信用してもらえません。18節。
18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。
19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。
20 このようなわけで、私はあなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。

二つ目に、パウロがローマに来た理由は、カイザル、つまり皇帝に上訴したからですが、それはユダヤ人を訴えるためではなく、無罪を勝ち取るためであって、ローマにいるユダヤ人たちに敵対するつもりは無い。では、何が論点かと言うと、「イスラエルの望み」、これはイスラエル人が待ち望んできた救い主のことです。つまりナザレのイエスこそ救い主キリストであるという主張。これこそパウロが宣べ伝えていることです。この後は、いつものように福音を伝えることになるのですが、どうして、パウロは自分を弁護するような話から始めたのでしょうか。
パウロはあくまで無罪でしたが、誤解をする人もいるでしょう。誤解を解いてからでなければ福音を語ることができないのです。私たちも人間関係では、誰かから誤解されることがあるかもしれません。そのような人にも福音を伝えたいと願うなら、最初は誤解を解くことが必要になるかもしれません。信頼関係から伝道は始まるからです。もちろん、個人的な関係の誤解だけではありません。相手の人がキリスト教に対して誤解があったら、それが解消される必要もあります。なんだか分からないけれども、キリスト教に対して敵対的だったり、とても頑なな態度の人がいたりします。もしかすると昔、クリスチャンにいやなことをされたとか、悪いイメージを持っておられるのかもしれない。あるいは自分の身内が事故や病気など受け止めにくい理由で亡くなっているということがあって、神様はなんでこんな理不尽なことをするのか、という、神様に対する誤解もあるかもしれません。それを真っ向から反対して、議論したら、よけいに心を閉ざしてしまいます。時間をかけて相手に寄り添い、少しずつ誤解をとくことが必要かもしれません。
パウロの場合、ローマで会ったユダヤ人たちはどう対応したか、21節。
21 すると、彼らはこう言った。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」

これまでも伝道旅行で一つの町のユダヤ人がパウロに反発し、伝道を妨害しただけでなく、次の町にまでやってきてパウロを悪く伝えて伝道の邪魔をしたことが何度もありました。でも、ローマまでは反対者たちは来ていなかったようです。そして、ここのユダヤ人たちは、噂や悪口ではなく、直接に会って話を聞いて判断しようと考えていた。とても公正な人たちです。もちろん、キリスト教に関する悪い噂は聞いていましたが、それも、自分たちで確かめてから判断する。彼らは、相手を勝手に悪く思って、ハナから反対して聞こうともしない、という人ではない。聞いて冷静に判断してくれる。こういう人たちでしたら、パウロも話がしやすいでしょう。パウロは思う存分語ることができました。
2.不信仰の壁(23〜27節)
二つ目のことに移ります。23節。
23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
誤解がなく、聞く姿勢がある人たちに福音を語るのは楽しかったでしょう。パウロは力いっぱい福音を伝えました。それでも、24節。
24 ある人々は彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
25 こうして、彼らはお互いの意見が一致せずに帰りかけた

どうしても、信じる人と信じない人がいるのです。パウロの話し方が悪かったとか言うことではありません。あとは受け取る側の問題です。私たちも、いくら証しをしても、教会に誘っても、来てくれる人もいれば、やんわりと断る人もいる。それは色々な事情や理由があるのです。決して焦ることも無いし、諦める必要もない。聞いてくれない人、信じてくれない人は、きっと、いつかまた機会があると、神様に委ねることも大切です。
このユダヤ人たちも意見が分かれ、そして信じる人たちだけが残って、信じない人たちはこれで帰る。というふうにはならず、彼らは今度は信じる人と信じない人で議論しながら帰っていったと思われます。パウロの語ったことを信じても、信じたことに基づいて行動するのではなく、議論が面白いから、さらに論じ合う。そして、相手の言うことに納得したら、一度は信じたという人も信じない派に変わるかもしれない。これは本当に信仰ではなく、頭で理解したという程度の「信じた」なのです。
パウロは彼らの不信仰を見抜き、帰りかけた彼らに言いました。25節後半。
パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

このイザヤ書の言葉は新約聖書で何回か引用されている言葉です。イエス様もこの言葉を引用して、頑なに信じようとしないユダヤ人たちに語っています。このイザヤの預言は、一見すると、人々が信じようとしないのは、神様が彼らの心を頑なにしたからだ、と理解しやすいのですが、よくイザヤ書全体を読んでいくと、そういうことではない。神様が彼らの心を頑なにしたために彼らは信じることができない、というのではなく、彼らの不信仰のために、いくら神様が預言者たちを通して語り掛けても、彼らは信じようとしない。不信仰な人は、神様からの語り掛けを聞けば聞くほど、自分の意見に固執して、よけいに信じない心を強めようとする。ですから不信仰な人が信じるようになるのは大変に難しい。それでも神様はあきらめない。頑固な人には普通に語っても聞くはずがない。そこで普通ではない方法で神様は語り掛けて、彼らの心を少しでも開こうとした。「あなたたちが信じないのは、私がそうしたんだ」と言われたら、彼らは自分の考えて信じないと決めていると考えているわけですから、それを神様がしていると言ったら反発する。でも反発であっても対話に乗ってくれたら、話すきっかけができる。これは普通はしない方が良い方法ですが、神様だからこんな裏技のようなやり方で、それでも彼らに語ろうとされるのです。
不信仰の壁は、簡単には崩れないのです。でも、神様なら、聖霊が忍耐強く語り掛けて、いつかはその心を開いてくださる時が来る。パウロも彼らのことは神様に委ね、それでも信じようとする人たちは、これからも受け入れていくのです。
3.制限されても(28〜31節)
最後のことをお話ししたいと思います。結局、これまでの伝道旅行と同じように、不信仰なユダヤ人への伝道はいったん止めて、パウロは異邦人伝道へと切り替えます。もちろん、異邦人でもユダヤ人でも、求めてくる人には福音を伝えることは当然です。30節。
30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

二年間というのはカイザルの前での裁判は順番待ちだったのでしょう。ずいぶん長く待たされた。でも、パウロは待つことに不満はありません。外出して好きな場所に行って語ることはできなくても、向こうから来てくれるのです。反対者たちに囲まれて、あるいは罠にかけられて殺されそうになることもない。監視をしている番兵は、実は保護してくれているのでもある。パウロは制限されて不自由であったのですが、それがパウロを守り、妨げられずに語ることが出来る環境にもなったのです。
私たちも今、コロナ禍にあって、様々な制限を受けています。日常生活も不自由ですが、教会は活動を制限されて、どこの教会も苦労しています。集まるとクラスターを起こしやすい。でも教会は集まるところでもある。とても悩むところです。でも、いくら制限をされても、工夫をすることはできる。インターネットなどの手段もその一つです。ウイルスに対応するために出来ることをすることも工夫です。制限されても、出来ることはある。そこに目を向けるのです。出来ないことだけに目を向けると、諦めになったり、不平が出たりします。出来ることをしっかりと見て、実行するなら、神様が新しい道を開いてくださいます。
最後に「大胆な」という言葉です。最初にお話ししたように、『使徒の働き』の中には何度も「大胆」という言葉が出てきます。そして、それは人間的な大胆さ、これは人間の性格の問題ですが、そうではなくて、そこに聖霊が働いてくださって、勇気を与え、語る言葉を教えてくださり、クリスチャンたちは大胆に証しをし、福音を語ったのです。『使徒の働き』は「聖霊の働き」だとも言われます。最初のころは聖霊の働きは大変に派手と言うか、誰が見ても神様の力が働いていると分かるような分かりやすいやり方だった。でも、段々と奇跡の様なことは減っていきます。それは聖霊の働きが無くなったのではなくて、もう聖霊がおられることは分かってきたので、見えない形で聖霊の働きは続けられているのです。だから、どんなに制限されても、それでダメになるどころか、ますます福音は広まっていくのです。不信仰な人の心を開くのも聖霊の働きです。語る者を大胆にするのも聖霊です。軟禁生活だったパウロの家は、伝道所として活用されました。パウロが出て行けなくても、人々が口コミで新しい人を連れてきてくれる。これも聖霊の働きなのです。
まとめ.
今、私たちが制限されて、だから出来ないと諦めるのではなく、少しでも出来ることをして教会を前進させようとする。どうしても出来ないときには心を合わせて祈る。そこに聖霊は働いてくださるのです。人間の働きが制限されて、自分の力ではどうすることもできないときこそ、神様に信頼するときなのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教