2021年05月09日

礼拝説教「嵐の中の信仰」使徒の働き27:20〜26(使徒27章)

礼拝説教「嵐の中の信仰」使徒の働き27:20〜26(使徒27章)
礼拝では続けて「使徒の働き」から御言葉を取り次がせていただいてまいりましたが、終わりが近づいてきました。先週まで、22章から26章はパウロが様々な人たちの前で証しをしてきた箇所で、証しや宣教と言うテーマで何回か話させていただきました。27章からは再び旅行です。ただ、これまでの伝道旅行とは違って、ローマ皇帝の前で裁判を受けるために、兵士たちに護送されてローマへと向かう旅です。船で地中海を渡っていく途中、嵐にあって船が沈みそうになるというアクシデントが起きますが、そのような危機的状況でパウロがどのように振舞ったか、それがパウロへの周囲の人の気持ちがどのように変化したかに繋がっていきます。いくら証しをしてキリストを伝えようとしても、私たちの行い次第では、その証しを受け入れてもらえるか、それとも拒絶されるかが違ってきます。今日は27章の嵐の中でのパウロの信仰についてご一緒に見てまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「囚人パウロ」、第二に「助言者パウロ」、そして第三に「指導者パウロ」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.囚人パウロ(1〜19節)
先ほどは20節から読んでいただきましたが、それは嵐の場面です。そのような状況に陥ってしまった理由が、27章の1節から書かれていますので、少し拾い読みをしてまいります。
パウロは囚人とは言っても、ローマ市民権を持つ特権階級でしたし、有罪判決を受けていたのではありませんから、護送する責任者である百人隊長、名前はユリアスだと書かれていますが、彼はパウロを優遇していました。1節から「私たち」と書かれているように著者のルカが主治医としてパウロに同行していたようです。途中の寄港地でも友人たちに会うことが許されるなど、比較的自由もあった。でも百人隊長から見れば、あくまで囚人の一人です。6節から少し読みたいと思います。
6 そこに、イタリヤへ行くアレキサンドリヤの船があったので、百人隊長は私たちをそれに乗り込ませた。
7 幾日かの間、船の進みはおそく、ようやくのことでクニドの沖に着いたが、風のためにそれ以上進むことができず、サルモネ沖のクレテの島陰を航行し、
8 その岸に沿って進みながら、ようやく、良い港と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。

当時の多くの船は帆船ですので、風向き次第です。季節によっては風向きが悪かったり暴風になって、船の旅には適さない時期があります。9節。
9 かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、
10 「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけでなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」と言った。
11 しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。

パウロのことばよりも船の人々を信用した。それはそうです。彼らは船のプロです。パウロは囚人ですし、船の操作については素人だと思われた。しかし、プロでも判断を間違えることがあります。「良い港」と呼ばれる場所は、港としては良い場所ですが、町が離れていて、長い期間を過ごすには不便です。また船長、翻訳によっては船主とも訳されますが、少しでも先に進めておいた方が目的地に早くついて、そのほうが経費が掛からず、儲けが多くなる。だから焦って間違った判断をしてしまうのです。13節。
13 おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。
14 ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、
15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。

人間は、自分の利益や利便性を優先しやすく、それが冷静な判断を狂わせてしまうことがあります。私たちも目の前の益を優先して、長い目で見たときに大きな損失となってしまうかもしれない。他者を信頼して失敗したり、自分の意見に固執して失敗して周囲の人に迷惑をかけることもあります。
後から考えるなら、あの時パウロの意見に耳を傾けていれば、少なくとも安全な場所で冬を過ごして、春になったら航海を続けることができたでしょう。でも、パウロは囚人でしかないと考えていた百人隊長は、パウロへの信頼は少なかったのです。
信頼している人の言葉なら、鵜呑みにしないまでも、よく聞いて考えます。人間関係全般についても、信頼関係は大切ですが、福音を伝えるときにもそうです。相手に証しを語り、福音を伝えるためには、その前に相手との良い人間関係を築くことが必要です。それは特別に相手にサービスするということでなくても良い。むしろ、クリスチャンとしてのあるべき生き方、聖書を通して教えられた隣人への態度があれば、やがては信頼されるはずです。
パウロは、このときはまだ、百人隊長との関係は信頼とは言えない段階でした。そのために嵐に巻き込まれてしまいます。でも、神様は、その嵐を用いて、パウロと百人隊長や周囲の人たちとの関係を変えていってくださるのです。今は、私たちは困難な時代に置かれていますが、その中でも神様を信じて従って生きる時、その私たちの姿勢が今まで以上に隣人との信頼関係を築く機会を生むのです。
2.助言者パウロ(20〜32節)
二つ目のポイントに移ります。嵐はますます酷くなり、ついに沈没をまぬかれるために、積み荷や船具を捨て始めるところにまで追い込まれます。18節から。
18 私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、
19 三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。
20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

嵐の中で人々は希望を失っていたのです。もともとは荷物を運ぶことで収益を上げていた船の人たちが、積み荷を捨て、また航海に必要な船具も捨ててしまう。普段ならあり得ないことです。でも、通常の時には常識であったことが、非常事態には通用しない。利益を求めて無理に船を出したのに、その利益を捨ててでも自分の命を助けようとする。でも何日も暴風が続き、命の希望もあきらめそうになっていたのです。
そのような時に、パウロは何をしたか。21節後半。
21 「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。
これは非難をしているのではなく、パウロの語った言葉が信頼に足ることを思い出させているのです。22節。
22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』

パウロはここで神様からの言葉を伝えました。恐れるなというメッセージを、人々に「元気を出しなさい」と伝え、また、それは空元気ではなく、神様の約束があるから必ず実現するという保証がある。もし人々がパウロの信仰を見て、彼を信頼するなら、自分たちもいのちだけは助かるという希望を持つことができるのです。
もちろん、彼らはすぐにパウロを、そしてパウロの神様を信じたのではない。でも、パウロが言ったとおりに陸地が近づいていることが分かってきて、パウロへの信頼は強くなっていったことでしょう。
ここでもう一つのハプニングが起こります。水夫たちが人々を見捨てて逃げ出そうとしていた。パウロは百人隊長に、水夫が逃げたら船が操縦できず、助からなくなると告げたところ、隊長はパウロの言葉を信じて、そのとおりに行動し、水夫たちを留めることができたのです。
パウロは、人々を勇気づけ、またさらなる危機を逃れる助言を与える者としての信頼を受けたのです。私たちが周囲の人から信頼を受けるようになったとき、問題が起こって困ってしまったときに、私たちは時には神様からの知恵を持って、あるいは信仰による勇気により、誰かの助言者、あるいは励ます者となることが出来るのです。この信頼を生み出しているのは、私たち自身の力ではなく、私たちが神様を信頼しているその信仰から来るのです。パウロはこれまで神様の言葉に従い、みことばのとおりになって来た。だから今回も御言葉が与えられたから大丈夫、と平安と勇気を持って語ることができたのです。
3.指導者パウロ(33〜44節)
三つ目のポイントに移ります。パウロは人々に、食事をとることを勧めます。こんな時に食事なんて、と思いますが、もう何日も食べておらず、体力も落ちている。でも、ここで食べることで、この後、海に飛び込んで泳ぐ力が与えられたのです。パウロが自ら食事を始めるのを見て、人々も食べることにします。パウロの言葉に従い、パウロの行動に従った。このときのパウロは単なる囚人ではなく、もうこの一団のリーダーでした。ところが、ここでまた問題が起こります。
船が座礁したとき、兵士たちは囚人たちを殺そうと考えます。もし座礁した船から囚人が泳いで逃げ出したら、番兵である自分たちが罰を受ける。それくらいなら、逃げようとした罪で、この場で殺してしまったほうが良い。その時にパウロを救ったのは百人隊長でした。彼は全員が海に飛び込んで泳いで陸に上がるように命じたのです。そして、書かれてはいませんが、逃げ出す囚人はいなかったのでしょう。ピリピの町で牢獄の扉が開いてしまったときも、囚人たちは逃げ出さなかった。それはパウロの信じているお方が特別な存在だと分かったからです。この時も、パウロの助言や指導が無かったら助からなかったと理解した百人隊長はパウロを助けたいと願った。彼はリーダーとして皆を助けようとしているパウロを認め、彼を支えてくれたのです。ここに、信頼関係によるリーダーシップを見ることができます。パウロは神様の名前で一同を脅して無理矢理に命令するのではなく、神様への信頼により、彼らを助け、また彼らからも助けてもらう関係です。
この後、百人隊長や他の人たちがパウロを通して信仰を持つようになったかは分かりません。でも隊長の名前が書き残されているのは、もしかしたら彼が後にクリスチャンになったことを示しているのかも知れません。信頼関係を築いたらすぐに相手がクリスチャンになるとは限らない。さらに時間やきっかけが必要かもしれません。でも、私たちは、私たちに語ってくださる神様の御言葉を信頼して行くのです。
まとめ.
こうして、パウロたち一行は、陸地にたどり着き、次の章ではローマまでたどり着くのです。まさに神様が御使いを通してパウロに語られたとおりです。私たちも嵐のような危機を通らなければならないかもしれません。でも、その嵐の中でも私たちを導き守り、また御言葉を語り掛け、嵐でさえも用いて御言葉を実現することが出来るお方を信頼してまいりましょう。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年05月02日

礼拝説教「王たちの前で」使徒26:27〜32(24〜26章)

礼拝説教「王たちの前で」使徒26:27〜32(24〜26章)
『使徒の働き』は宣教がテーマです。22章から26章はエルサレムに戻ったパウロが様々な場所で証しをしていますので、説教も証しに関することが多くなります。もう、すでに二回にわたって証しに関するメッセージをしましたので、今日はあとの3章をまとめてお話ししようと思います。ここでパウロは三人の人に語っています。二人はローマ帝国から遣わされた総督で、王にも匹敵する権威を持っています。三人目は文字通りの王であるアグリッパという人物です。かつてイエス様が弟子たちに、「いつか、総督たちや王たちの前に連れて行かれるときがくる」と語られましたが、その時に何を話すかは、聖霊が示してくださるから心配するな、と言われたことがあります(マタイ10:18)。この24章から26章でパウロは三人の総督や王に語っています。でも、それを聞いた三人はどのように受け止めたでしょうか。
今日はパウロの証しを聞いた三人の姿から、私たちが証しを伝え、また神からの言葉を聞くときにどうしたらよいか、考えてみたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを進めてまいります。第一に「知識はあるが」、第二に「巧妙な政治家」、第三に「王ではない王」という順序でお話ししたいと思います。
1.知識はあるが(24章、総督ペリクス)
24章から少し拾い読みをしてまいりたいと思います。この章にはユダヤ地方を監督していたペリクスという総督が登場します。パウロに敵対する大祭司を始めとするユダヤ人たちが、総督に自分たちの主張を通すために弁護士、というとこの時代にすでに弁護士がいたというのが驚きですが、弁論術に長けたテルトロの言葉が2節から始まりますが、最初は挨拶というかおべっかですので飛ばして、5節。
24:5 この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。
パウロの悪口を言っているので、そのまま受け止める必要はないのですが、彼らの評価が分かります。ナザレ人というのはユダヤ人たちがクリスチャンに対して使った呼び方です。パウロのことをペストのような存在、と言っています。ペストと訳されているのは疫病という意味の言葉です。今、私たちは新型コロナの感染拡大という難しい状況におりますので、このような表現を用いると誤解を生むかもしれないと躊躇しますが、パウロに敵対する彼らから見ると、パウロの影響はまるで疫病のように増え広がっていることを苦々しく思っているのだと分かります。
何年も前ですが、アメリカのメガチャーチと呼ばれる数万人が集まっている教会のことを少しお話ししたことがあります。その教会のパンフレットに、「感染力のあるクリスチャン」というタイトルがついていて、たぶん、今はそのような言い方は使わないと思うのですが。でも、その教会が言いたいことは、本当はクリスチャンという存在は、その一人を通して周囲の人に証しがされ、信じる人が次から次に起きていく、そういう存在だ、ということです。残念ながら、日本ではその影響力が弱くなってしまって、あまり増え広がっていないのが現状です。迫害する者たちが思わずそんな例えを使うくらいに、救われる人がぞくぞくとおこされることを、私たちは願っております。
少し脱線してしまいましたが、この悪口を聞いた総督ペリクスはどうしたか。彼は政治家でしたから、片方の言い分だけを聞いて、ユダヤ人にこびへつらうようなことはしない。訴えられているパウロの意見も聞く姿勢を見せたので、10節からパウロが証ししています。その内容は、すでに22章や23章でお話ししていますので、今は省略します。ペリクスがどのようにパウロの証しに反応したか、22節から少し読みたいと思います。
24:22 しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう」と言って、裁判を延期した。
解決を先送りするのも、なんとなく政治家らしいと思うのですが、ここで驚くのは、ペリクスはこの道、つまりキリスト教について「相当詳しい知識を持っていた」ということです。ローマから辺境の地ユダヤに派遣されて、見下しているユダヤ人の、古臭い宗教、しかもそのユダヤ人指導者が異端としているようなナザレ人イエスの一派の教え。そんなことを相当詳しく知っていた。もちろん十分な知識ではないでしょう。でもいくらかは調べてみたのでしょう。この知識があったので、パウロの語る証し、そして福音が良く理解できたのか、というと、それは疑問です。
知識を持っていたから信仰を持てるということではないのです。時には不完全な知識を持っているがゆえに、キリスト教はこんなものだろう、と自分勝手な理解をして、真剣に聞こうとしないケースもある。ペリクスは、まさにそうでした。24節。
24:24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
これは真摯な思いで学ぼうとしたというよりも、妻が興味を持ったので、妻の好意を得るためか、もっと言うと、26節。
24:26 それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。
パウロがエルサレム教会への援助金を各地の教会から集めて持ってきていたのを知っていたのでしょうか。でもローマ総督がお金が欲しいから、というのは残念な態度です。しかし、私たちも自分にとって何らかの益があるから、困っていることの解決を求めて、教会に来ることは珍しくないことです。でもそれがいつまでも続くのではなくて、やがて信仰に目覚めていきます。ペリクスの場合は、二年間、何度もパウロの話を聞いたのに、最後まで利益を求めて、最後には27節に「ユダヤ人に恩を売ろうと」という理由で無実のパウロを牢につないだままにしておいた。彼は知識はあっても、信じようとはしなかったのです。
信仰は知識ではありません。もちろん、信頼するためにいくらかの知識は必要です。でも完全に理解しようとしたら、一生かかってもわからない。ある程度、理解をしたら、あとは信じるかどうか、聖霊が心の中に語り掛けてくださいます。それでも信じられないかもしれません。しかし、聖霊は忍耐強く、待ち続けてくださっているのです。
2.巧妙な政治家(新総督フェスト)
二つ目のこと、それはペリクスの後任としてユダヤ地方の総督となったフェストという人物について、25章から見てまいりたいと思います。
フェストが着任すると、さっそく祭司長とユダヤ人たちはパウロを抹殺するために、総督に申し出るのですが、フェストは政治家としてユダヤ人の言うままにするのではなく、ユダヤ人のほうから出向くように命令し、裁判の場でもパウロの意見を聞く。でも、自分が赴任したユダヤ州の者たちが素直に従ってくれたら仕事がしやすいので、25章9節では「ユダヤ人の関心を買おうと」という理由でパウロにエルサレム行きを勧めたりもしています。優柔不断というか、どちらにも恩を売って利益を得る、実に巧妙な政治家でした。でもパウロはそんな意見には乗らないで、ローマ皇帝に上訴して、ローマ行きを主張します。そこでフェストはパウロをローマに護送することを決めます。
双方の意見を聞き、利害関係を調整し、法律に則って処置する。政治家、行政官としては有能なのかもしれません。でも彼は最後まで自分の意見ではない。この後も、アグリッパ王の意見を求めます。
福音を聞いても、それを自分のこととして真剣に受け止め、自分で判断するのでないと、周囲の意見に左右され、あいまいな結論しか出せなくなってしまいます。福音を、神様の言葉を聞いたとき、最初は良く分からない。だから色々な人の意見を聞くこともあるでしょう。異なる意見を聞いて、公正な判断を心掛けるのも立派です。でも、神様の言葉は、他人事のように、誰かの意見で受け止めるのではありません。自分自身に当てはめ、自分が信仰をもって応答する。決断するのはあくまでも自分です。でも自分自身の心で神様の声に応えるなら、神様も私の声に耳を傾けてくださらないはずはないのです。本当に神様に求めることがあるなら、自分も神様に真剣に向き合う。決して巧妙な政治家のような「のらりくらり」であり続けては、祝福を受けそこなってしまいます。
3.王ではない王(アグリッパ王)
三人目はアグリッパ王です。王と言ってもローマ皇帝から承認をもらって、ユダヤの一部を治めているに過ぎない。そして彼は、悪名高いヘロデ大王の子孫、ということは生粋のイスラエル人ではなく、エドム人の子孫ですので、ユダヤ人の中にも反対者がいる。そんな王です。フェストが総督に就任したので、フェストに敬意を表するために来たと25章に紹介されています。そこでパウロのことを聞き、かねてより噂を聞いて興味を持っていたのでしょう。パウロの話を聞きたいと申し出て、26章2節からパウロの証しが始まります。証しの内容は、パウロが若い時から始まり、キリスト教の迫害者だったパウロが復活のキリストに出会って変えられたこと、そして異邦人に福音を述べ伝えていること。これは、もうすでに22章でパウロが証ししたことと被っていますので、今は読みません。アグリッパ王の反応を、26章の26節から読ませていただきます。
26:26 王はこれらのことを良く知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
26:27 アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。

アグリッパ王は、ユダヤ人を治めるために必要なことは知っていた、はずです。キリスト教という一派のこともある程度は知っていたかもしれません。パウロは、王様なら知っていて当然だよね、と言っているわけです。そして「預言者」とは、旧約聖書に預言されているメシア、救い主についてはユダヤ人なら必ず信じている。もちろん、アグリッパ王の先祖はエドム人ですが、ユダヤ人の王であるからには預言者が神の言葉を伝えていることを認めなかったら人々から猛反発を受けるでしょう。そして、預言者を信じているなら、預言されたとおりに十字架と復活をされたイエスこそ救い主キリストであると信じるはずではないか。そうパウロは訴えているのです。ですから28節。
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わすかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。
アグリッパ王は、知識は不完全でしょう。聖書を信じる信仰もどれほどだったか。でも、パウロが自分に語り掛け、イエス・キリストを信じるようにと決断を迫っている。それはパウロではなく聖霊の働きかけですが、聖霊のことはわからずとも、彼は自分がキリストを信じるかどうかを迫られている自覚があったのです。では、それに彼は応答したのでしょうか。いいえ、彼は「わずかなことばで」、新しい2017訳では「わずかな時間」としていますが、パウロの証しを「わずかなことば、わずかな時間」として、それくらいで私をクリスチャンにしようとしても、自分は信じないぞ、と拒んでいるのです。
彼は王でした。王は、たとえ不十分な情報でも決断をしなければならない。敵が攻めてきたときに、相手の人数や戦力を正確に調べてから、なんてしていたら負けてしまいます。時には不安があっても勇敢に敵に立ち向かうのも王様の責務です。いいえ、他の国とは違い、イスラエルの王は神様の声に従うことが一番大切です。でも彼は預言者によって語られた言葉であっても、従おうとしなかったのです。彼が本物の王なら、真剣にパウロの証しに応答しなければならない。でも、やはり彼は見せかけの王だったのです。
私たちは誰もが王となりたい。自分の思い通りにしたいし、自分のために人を動かしたい。でも、それは自己中心ではあっても、本当の王ではない。ですから、勇気を出して神様に従うことがなかなか出来ないときがあるのではないでしょうか。自分は自分の道を自分で決める、と思っているのであれば、神様に従うかどうかも自分です。誰かに言われたとか、ではなくで、自分で神様に従う。真の王であるお方に従う王となるなら、神様はその人をも神の僕として用いてくださるのです。
29節から最後までお読みします。
26:29 パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
26:30 ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。
26:31 彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」
26:32 またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言った。

パウロはユーモアを交えながら、自分のようなクリスチャン、そしてキリストの証し人となって欲しいと最後の訴えを述べましたが、結局、総督フェストも、アグリッパ王も、信じることはできなかった。パウロが無実であると分かっていながら、彼が語る真実は拒んだままでした。アグリッパは、キリストを信じて神の言葉に従う、本物のイスラエルの王となるチャンスを棒に振ってしまったのでした。
まとめ.
パウロは総督や王という、この世の支配者たちの前で堂々と語りました。その言葉は聖霊が導いて語らせてくださったのでした。でも、本当は、真の王であるキリストが証しされ、キリストの言葉が彼らをさばいているのです。王の王であるお方の声に聞き従うことが大切です。私たちは神様からの証しをどのように聞いているでしょうか。御言葉に真剣に取り組み、応答しようとしているでしょうか。パウロの証し、聖書を通して語り掛けておられる聖霊の呼びかけに応え、御言葉に従って生きる者とならせていただきましょう。
タグ:使徒の働き
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