[今年の召天者記念礼拝は、コロナ禍ということもあって、いつもですと来て下さる方々の中には、今日は欠席しておられる方々もいらっしゃいます。また、そのような状況の中で出席してくださった方々に感謝をいたします。昨年の春から、ご葬儀のためであっても多くの方が集まることが困難になってしまい、親しかった方とのお別れも難しいという、とても残念なことが続いています。一日も早く、この状態を乗り越える時が来ることを願っています。]
召された方々を、天国にお送りする私たちの側も、十分なお別れができない難しさはあります。コロナ禍だからということだけではなく、多くの場合は、死というのは突然にやってきます。例え、長い間病床に伏しておられたとしても、出来るならば、お元気になって欲しいと願っていますから、お別れということを考えるのは、しにくい。しかし、送る側以上に、召される方も、自分がやがてこの世の人生が終わるときが来るということを真正面から受け止めて、周りの方々にお別れをしておくというのは、簡単にできることではありません。本当に、この世でのお別れは難しい課題です。私たちは天国の希望を持っておりますので、決してこの世のお別れが最後では無いと信じています。それでも、別れの時は確実に来ることは変えることが出来ない真理です。どうしたら、その備えをすることができるでしょうか。
先ほどお読みしました聖書の言葉は、イエス様が最後の晩餐で語られた、いわば遺言です。イエス様ご自身は、まもなく捕らえられて十字架につけらえることはご存じでした。弟子たちは、何度かイエス様から十字架の予告を聞いてはいましたが、受け入れられない。まさか先生が十字架で死ぬなんて考えたくもない。でも、イエス様がたびたびご自身の死の予告をされるのを聞いて不安を感じていたのです。32節で、こうおっしゃっています。
32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
すでに来ている、とは、裏切り者のユダはもうすでにイエス様を殺そうとしている者たちのところに行き、兵士たちを連れてイエス様を捕らえる準備をしている。他の弟子たちも、イエス様を守るのではなく、見捨てて逃げてしまう。誰一人、自分と一緒にいてくれない。孤独です。
確かに死ぬときはひとりです。それを思うと孤独を感じるかもしれません。でもイエス様は言われます。
しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
父とは、天の父なる神様です。神様が共におられる。それが信仰です。だから孤独な思いで天国に行くのではありません。先に召された方々は、神様が共にいてくださって、天国まで連れて行ってくださる。だから安心して、平安な心で召されて行かれたのだということを憶えてください。ですから33節。
33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
イエス様を信頼し、イエス様の言葉、聖書の言葉を信じて受け入れるなら、平安を持つことができる。そのためにイエス様は弟子たちに語られ、その言葉が聖書に記されて、私たちにも語りかけておられるのです。
そして、最後に父なる神様に祈りを捧げて、イエス様は最後の晩餐の家から出て、ゲツセマネの園に向かい、そこでユダたちが来るのを待つ。その最後の言葉が、33節の後半です。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
これから十字架につけられてしまうのに、どうしてイエス様は「世に勝った」とおっしゃるのでしょうか。それは、その十字架こそ、私たちを罪から救う切り札だからです。悪魔はユダをそそのかして、イエス様を亡き者としようとした。でも、その十字架が罪と悪魔に対する勝利となることをイエス様は信じていた。だから、もう勝利は確定している。すでに世に勝ったと言われるのです。そして、このイエス様を信じるときに、私たちにも勝利を与えてくださるのです。
今朝は「天国の勝利者たち」という説教題をつけさせていただきました。それは、すでに天国に行かれた方々です。クリスチャンが召されることを凱旋と言うことがあります。悪魔に打ち勝って、いいえ、勝利者なるイエス様が一緒に勝利してくださって、天国では天使たちが大歓声を挙げて迎え入れる。それが凱旋です。
「あなたがたは、世にあっては患難があります」。この世には様々な苦難があります。昨年来のコロナ禍で、社会も経済も、そして、そこに住む多くの人たちが、程度の違いはあれ、困難を味わっています。中には知り合いが感染した人、亡くなった人もいるかもしれません。コロナだけではありません。病気や怪我、人間関係。苦難は尽きません。でも、イエス様を信頼し、そのお言葉を信じるなら、私たちは勝利者となることができます。いいえ、イエス様がすでに勝利しておられる。そのイエス様が一緒にいてくださると信じるなら、私たちも一緒に勝利者としていただけるのです。団体スポーツで、チームには補欠で試合に出ない人もいます。でも、チームが勝ったなら、その人も勝利者です。イエス様が勝利されたのなら、私たちも勝利をいただけるのです。
自分だけでは小さな敗北もあります。でもイエス様を信じて新しい力で立ち上がり、今度は勝利できる。でも勝ったり負けたりしながら、最後は、人間だれでも死ぬときが来る。でも、死んでお終い、それで負けてしまうのではありません。死ぬときに、それは天国への凱旋であり、先に勝利者となられた方々と一緒に喜ぶ日が来るのです。この信仰と希望をしっかりと握りしめるとき、愛する方の死、自分自身の人生の終わりについても、恐れたり嫌ったりせずに、落ち着いて取り組むことができるのではないでしょうか。
今、私たちは困難の中で、負けそうになっているかもしれません。死ぬことへの恐れや不安もあります。お別れする寂しさもあります。でも、それで終わるのではなくて、世に勝ったと言われるお方を信じて、天国で勝利者として待っていてくださる方々との再会を待ち望みましょう。
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