序.私は教師だったこともありますが、誰かが、あるいは何かが成長することに喜びを感じます。反対に、大切に育ててきたものがダメになってしまうのは、とても残念ですし、そうなることを恐れます。使徒の働きに描かれている最初の教会も、最初は目覚ましい成長をします。時には一日に数千人が救われる。このまま成長していって、何万、何十万となり、ついにはエルサレム全体がクリスチャンとなったら素晴らしいと思う。ところが、それが一気に数十人、恐らく最初の人数以下に減ってしまったら、もう終わりだ、と思ってしまうかも知れません。ところが、私の、この世的な常識では考えられないことが起きた。それは、この8章こそが教会が今迄の枠組みを乗り越えて、さらに前進するきっかけとなった、ということです。神様が私たちを救ってくださる救いも、常識とは違います。普通は、修業や努力を積み重ね、たくさん良い働きをしたら、それが認められて救われる。受験勉強しかり、仕事もそうです。ところがキリストによる救いは、自分が罪深い、ダメな存在だと分かったときに、救われる。この常識外れではなく、常識を越えた救い、古い考えを覆すような神の御業を、『使徒』8章から見て参ります。
いつものように、三つのポイントで。第一に「散らされても広がる」ということ。第二に「救われても罪がある」、そして第三に「分からないから恵みがある」という順序でメッセージを進めてまいります。
1.散らされても広がる
先ほど司会者に読んでいただきました、8章の最初の部分は、7章の最後から繋がっています。ステパノが殉教し、その日、エルサレム教会への大迫害が起こります。2節に「使徒たち以外の者はみな」散らされた、と書かれている。数千、あるいは数万人になっていたクリスチャンたちが、地方へと散らされていったのです。さらにステパノを私刑にしたサウロ、後にパウロと呼ばれるようになりますが、このときはサウロです。彼は教会、これは大きな会堂ではなく、家の教会です。まだエルサレムにいた信者たちを、隠れていた信徒の家に押し入って、引きずり出して牢屋に入れた。徹底的な迫害です。ところが、4節。
4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
散らされたと思っていたら、彼らは御言葉を宣べ伝えて、救われる人がさらに起こされていくのです。
話は変わりますが、旧約聖書の中にイズレエルという地名があります。イズレエルという言葉は、「神が種を蒔く」という意味で、神様が種まきをしたら豊作になるということで、豊かな穀倉地帯でした。ところがその場所で恐ろしい犯罪が起こり、その結果、神の裁きが下り、その場所に血が流された。それでイズレエルは不吉な名前となり、人々を神が散らしてバラバラになる、という意味になってしまいます。「種を蒔く」という動詞は「散らす」という意味にも使われる。すみません、つい旧約聖書の話をしてしまったのですが、この『使徒の働き』ではサウロたち迫害者によって教会は散らされた。でも、神様はそれを種まきのように、もっと広い地域に福音の種を蒔き広げる機会となさったのです。
この後の教会の歴史を見ましても、迫害で多くの人が殉教すると、クリスチャンはさらに増えていく、という現象が何回もありました。逆に、キリスト教国だ、信教の自由だと、福音が伝えやすい環境なのに、それ以上クリスチャンが増えないこともある。宣教の働きは常識では計れない。ダメだと思ったことをチャンスとされるのが聖霊の働きです。これが分かったときに、私たちは絶望的な状況でも諦めないで、神様に希望をおき、祈ることができるのです。それは、祈った通りになるとか、計画通り、考えたようになるということではなく、もっと素晴らしい神様の御業がなされることを信じるのです。
2.救われても罪がある
二つ目のポイントです。散らされた人たちは、それぞれの場所で福音を伝えます。たくさんのドラマがあったと思いますが、ここでは一人の人にスポットライトを当てています。ピリポは、ステパノと一緒に七人の執事に選ばれた人で、彼も信仰と聖霊に満ちた評判の良いクリスチャンでした。ピリポは、まずサマリヤの町々に行った。ユダヤ人はサマリヤ人と仲が悪かったと福音書に書かれていますから、この迫害が無かったら、サマリヤ人にはなかなか宣教がなされなかったかもしれません。でもピリポが行き、多くの人が福音を聞いて信じ、救われました。素晴らしい働きです。
ところが、ここにもう一人の人物が登場する。9節から、シモンという魔術師です。シモンは良くある名前で、ペテロも本名はシモンでした。この魔術師シモンは、ピリポの話を聞き、他の人が救われるのを見て、自分も洗礼を受けた。13節に「シモン自身も信じて、バプテスマを受け」と書かれていますから、信じて救われたことは確かです。でも、古い罪の心がまだ残っていた。ピリポの活躍を聞き、エルサレムからペテロとヨハネが遣わされて、様子を見に来ました。二人は救われた人たちに手を置いて祈り、サマリヤの人たちにも聖霊が下ったのです。それを見たシモンは、自分も同じ事が出来たら、以前のように自分に人気が戻ってくると思ったのでしょう。ペテロに頼んだ。18節。
18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
これ以来、お金で宗教的な権威を手に入れようとすることを「シモニズム」と呼ぶようになる。人気どころか、大変に不名誉な名前になってしまいました。23節。
23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
シモンだけが特別だったのではありません。私たちはキリストを信じて救われて、罪を赦していただいた。でも、まだ心の中に苦い胆汁、黒い心が残っていることがある。救われたら心の中の罪が無くなって清らかな心になるのかと思ったら、信仰が成長すればするほど、もっと罪に対して敏感になり、昔ならこれくらいはかまわないと思っていたことが罪であることに気がつくようになる。私たちは救われても、なお罪人です。でも、罪に悩むからこそ、もっと祈らなければならない、もっと神様に助けを求める、謙ることができる。救われても罪がある、と言うと変に思うかもしれませんが、それが現実であり、その罪を認めることが大切です。今日も神様の前に進み出て悔い改めて、信仰を新たにしてまいりましょう。
3.分からないから恵みがある
三つ目に、ピリポに話を戻します。サマリヤ伝道はさらに広まり、指導者としてのピリポの働きはもっと祝されていった。ところが、そのピリポに神様は違う場所に行きなさいと命じる。それは人里離れた場所でした。なんで、そんなところに。他の、たくさんの人がいる場所なら良いのに。ピリポはそんなことを考えたかもしれません。でも言われるままに出かけて行きました。27節。
27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
エチオピア人ですから、当然ユダヤ人でもサマリヤ人でもない。イスラエルとは何の繋がりもない。しかし、異邦人の中にはユダヤ教の教えに惹かれて、中には割礼を受けて改宗者となる人もいました。でも宦官は改宗はできないし、彼は女王の高官、高い地位の仕事をしていたので、せめてエルサレムで礼拝だけでも捧げたいと思って出かけてきて、帰り道です。イザヤ書を読んでいた。当時は聖書は簡単に買えるものではありません。異邦人が手に入れるためにはそうとうのお金を支払ったことでしょう。馬車の中で朗読していたのが聴こえて、ピリポは、「読んでいることが分かりますか」。ちょっと失礼な質問です。怒って、読んでいるくらいですから意味も分かります、と見栄を張ったら、それでお終いですが、彼は謙虚な人でした。導きを願って、ピリポに馬車に乗ってもらった。そこでピリポは、ちょうど開かれていたイザヤ書の53章からキリストのことを話していったのです。この宦官はイエス様を信じて救われた。
この出来事は三つの点で重要です。第一に、これは異邦人が救われてクリスチャンとなった最初の記述です。本格的な異邦人伝道はもう少し後からですが、でもこの人はエチオピアでの初穂です。第二に、宦官が救われた。旧約聖書の時代、宦官は祝福に与ることはできないと考えられていた。ところがイザヤ書。先程馬車の中で読んでいたのはイザヤ書53章ですが、56章を家に帰ってからお読みください。宦官も救われて新しい名前が与えられる時代が来ることが預言されています。どんな人であっても救われる。私はもうダメだ、ということは決して無い。第三に、神様はこの、たった一人のためにピリポを遣わしたということ。この出来事の後、ピリポはすぐに他の場所に行ってしまいます。この一人を救うためだけに用いられた。イエス様の譬え話で、一匹の羊を救う羊飼いを思い出します。私たちも一人の救いのために祈り続け、労を厭わないのです。ピリポがいなくなった後も、救いの喜びは無くならなかったことが8章の最後に書かれています。きっと彼は聖書を読み続け、56章で宦官の救いが書かれているのを見つけたときに、これは自分のことだと分かったでしょう。御言葉が分かるようになって行き、さらなる恵みに満たされ続けるのです。
この名も無い宦官は、聖書が分からなかった、自分の人生がどうなるのか、分からなかった。このまま朽ち果てて行くのか。でも御言葉を通してキリストに出会った時、彼は驚くばかりの恵みが自分にも注がれていることが分かったのです。聖書を読んでも分からなかったからこそ、人間の理解や常識を超えた恵みにあずかったのです。もし分かったつもり、自分は知っていると高慢な思いでいたら、恵みを受け損ねていた。今はわからなくても良いのです。教えてくださいと謙虚に祈り求めるときに、何度も読んできたはずの御言葉から、さらに豊かな恵みに目が開かれる。これが救いの祝福であり、聖霊の働きが確かに私を導いておられるのです。
まとめ.
今は、キリスト教会は厳しい状況に置かれています。伝道活動がなかなか出来ない。交わりも充分とは言えない。経済的にも苦しい。池の上教会もそうです。でも神様の恵みは人間的な常識を超えている。このような状況で、何人も洗礼の恵みに与る人、転入会して神の家族に加えられる人が起こされている。新しい技術を使って、出来ないではなくて出来ることを見出して活動している若者たちがいる。教会に来たことのない人が御言葉のメッセージを聞くことができる。ですから、皆さん。私はもうダメだ、と行き詰まった時でも、神様はそれ以上のお方ですから、神様を信頼して祈り求め続けてください。自分の常識を覆すほどの神様の恵み、キリストの救いの素晴らしさを体験するチャンスなのです。
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